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愚かで卑しい存在 —深沢七郎の小説「無妙記」について—

 今回は、深沢七郎の小説「無妙記」について、見ていきたいと思います。
 この小説は、一見、大変難解に思える小説です。作品は、京都を舞台にしていて、腕に神経痛を抱えた骨董屋の男が、アパートの隣室の会話を盗み聞きするところから始まります。物語は途中まで、この腕の神経痛の男や、隣室にいる三人の大学生たちについて描写しています。しかし、作品には途中から、「白骨」という言葉が異常にたくさん現れるようになります。その例を示すと、まず最初に、語り手がその大学生の内の一人について、

 この男はこれから名古屋にドライブして正面衝突をして、夜なかには死骸となって運ばれて来るのだった。そうして、間もなく、そこの金閣寺の裏の火葬場で白骨になってしまうのである。

 ということを予言するという箇所が現れます。次に、腕の神経痛の男が、ふとした拍子に、大学生たちを「白骨の姿」であるように感じてしまうという場面が、しばらくしてやってきます。この腕の神経痛の男について、彼は、元々はお面を作る職人をしていて、面を作ったり、人の顔や姿のことばかり考えている内に、人相や手相を眺めることを、骨相を眺めることと同じに考えるようになったのだと、説明されています。神経痛の男は、やがて、大学生だけではなく誰を見ても、「白骨の姿」であるように思えるようになってくるのです。
 これだけならまだ、「生きている人間のことが白骨に見える男の話」として、この作品を読むことができます。しかし、実際の作品は、それほど分かりやすい話ではありません。なぜかというと、腕の神経痛の男が、生きている人間を「白骨」であるかのように感じるだけではなく、語り手である人物も、作中に登場する人物のことを「白骨」として見ているからです。例えば、

 電車の中には白骨たちがいっぱい詰って乗っていた。これから映画を見に行く白骨たちや、夕食の買物に行く白骨たちや
 (わたしの着ているお召の着物や西陣織はなんと美しいことだろう)
 と思いながら乗っている白骨たちが顔を合わせたり、電車がゆれて顔が触れそうになったりするがお互いに黙り込んでいた。

 とあります。これは、腕の神経痛の男が乗り込んだ電車の中での話なので、神経痛の男の思考を、語り手が反映していると考えることもできます。ですが、神経痛の男が登場しない場面においても、語り手は、人間のことを「白骨」と表現しています。例えば、この他人のことを「白骨」として認識する神経痛の男自身も、やがて、ある登場人物に刺されて死に、「白骨」になってしまうのだと、語り手は予言しています。つまり、作中に「白骨」という語が出てくるのは、神経痛の男が、他人のことを「白骨」として認識する人物だからではないことになります。それならば、語り手の方が、「生きている人間のことが白骨に見える人物」だったのか、と考えても、必ずしも全ての登場人物が、「白骨」と呼ばれているわけではないため、そのように言うことはできません。
 このように、この作品の内容は、一見、一貫性というものがまるでないように感じられるため、読み解くことは到底不可能なように思えてしまいます。一体、この作品を、どのように読み解けばよいのでしょうか。
 それについては、一旦、作品全体の印象というものを考えてみてはどうでしょうか。この作品は、美しいというイメージよりも、どちらかというと、滑稽であるというイメージを伴った物語です。その「滑稽」というのも、明るく楽しい笑いではなくて、皮肉を湛えたそれです。……ここで、私たちは、一つの真実に辿り着きます。作品が湛える「皮肉な笑い」とは、語り手の、人間に対する見方であるのだ、という真実です。
 というのも、この小説に登場する人間たちは、皆、愚かで、卑しい存在として描かれていますが、それは、語り手自身が、人間とはそのようなものであると考えていたからではないでしょうか。そう考えると、なぜ「白骨」という言葉が多用されるのか、その理由も明らかになります。
 語り手は、作品の中に人間を登場させ、その人間はやがて「白骨」になるのだが、その人物自身はそのことにまるで気づいていない、という状況を生み出しています。それは、私たちの生にも当てはまりますが、そのような状況を作品の中に設定することによって、自分はいつか死ぬということを知りながらもそれを忘れて生活している人間のことを、語り手は嘲笑っているのではないでしょうか。
 このように、「人間という存在を嘲笑う」というのが、この小説の主旨であるため、作中で、語り手が、必ずしも全ての登場人物のことを「白骨」と表現していないわけも説明できます。人間のことを「白骨」と呼ぶことが目的なのではなくて、それはあくまで手段であり、本当の目的は、人間を嘲笑うことだからです。語り手は、「白骨」と呼ばずに、人間を嘲笑うこともできるため、必ずしも毎回、「白骨」と表現していないというわけだったのです。「白骨」と表現されていない人物を具体的に挙げると、「六波羅の借金男」(「息子」とも表現されます)や「西洞院の手伝い男」になります。特に、「六波羅の借金男」については、周りの人間がほとんど、「白骨」と表現されている中にあって、死について言及されない状態を保っています。
 ともあれ、話を続けましょう。腕の神経痛の男については、どのように考えればよいのでしょうか。それについては、この人物も、他人のことを「白骨」であると考えていますが、その彼自身も、自分が今日、ある男(「六波羅の借金男」)に刺されてその結果今年の暮れに死んでしまうということは予期していません。そのことを、語り手は、嘲笑っているのです。つまり、この神経痛の男が周囲の人を「白骨」だと考えるのは、一見、この世の理を踏まえていて賢いように見えますが、自分の死期を知らないという点で、それは却って、愚かさを強調する結果になってしまっているのです。
 このように、語り手は、物語を語る立場にあるため、登場人物たちにとっては死角となっている事柄を把握しています。この語り手は、そのことを利用して、人間の愚かな姿を抉り出しているのでした。それは、「白骨」となることを予見するだけに留まりません。 
 例えば、大学生の中に、「主将」と呼ばれる人物と、「運転手」と呼ばれる人物が登場します。「主将」は「運転手」の元恋人と付き合っているのに、「運転手」はそのことを知らないのでした。しかし、語り手はその事実を把握しているため、その「運転手」の手落ちを、容赦なく読者の前に晒します。また、他にも、「主将」の恋人が、「主将」から貰ったペンダントを、それは贋物のダイヤでできていて、そのことを女自身知っていたのに、「これは自分のもので、本物のダイヤだ」と友だちに自慢する場面では、女性の高慢さが抉り出されています。他にも、若い男が借金を抱えていて(「六波羅の借金男」のことを指します)、その母親が息子のためになんとか金を作ってやろうと工夫しますが、この母親も、踏むべき手順を踏まないで金を得る、という見苦しい行動に出てしまいます。
 このように、この作品では人間が多く登場しますが、どの人物も、高貴な人間性というものとは無縁です。それは、この小説の語り手が、人物の死角となっている事柄や、人物がこっそりと行っている事柄などを暴きつつ、皮肉かつ冷たい眼差しで人間を眺めているからなのでした。そのように、語り手が人間に冷たい視線を送っていることは、語り手が、作品終盤で、既に「白骨」と化した人間について言及していることからも分かります。

  京の都は古い歴史を持っていた。千年以上もの長い間、都会であったので、人間が密集して住んでいた。その間、その土地では大勢が死んで、土の下には数えきれない死骸が埋められて白骨になっているのである。

 ここで、語り手は、既に「白骨」と化した、かつては人間だった存在に対しても、冷たい目を向けています。人間とは、結局、ただの「白骨」になるだけのつまらない存在なのだ、語り手の人間批判はそこに行き着くのでしょう。
 この小説を読むと、本当は、人間とは、そのように愚かで卑しく、またつまらない存在であるように思えてきます。このように、この小説の意義は、人間を「愚かで卑しい存在」として把握する語り手の視点を存在させるというところにあるます。その視点から、私たち読者は、人間批判を引き出すことができ、それがこの小説のテーマとなります。ですが、それならば、そのテーマだけを一行で書けば良いじゃないか、と考える人がいるかもしれません。しかし、それでは、一体どんな風に愚かで卑しいのか、それが実感として読者に伝わりません。そのため、読者の実感に訴えかける内容を表現するということが、ここでは重要になります。したがって、この小説はこのような形を取っているのでした。ともあれ、この小説は、人間批判という形で、人間への新しい理解の仕方を提示している、そんな作品であると言えます。




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