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黒田三郎「夕方の三十分」について—喧嘩の効用—

        夕方の三十分      黒田三郎

  コンロから御飯をおろす
  卵を割ってかきまぜる
    合間にウィスキーをひと口飲む
    折紙で赤い鶴を折る
    ネギを切る
  一畳に足りない台所につっ立ったままで
    夕方の三十分

    僕は腕のいいコックで
    酒飲みで
    オトーチャマ
    小さなユリの御機嫌とりまで
    いっぺんにやらなきゃならん
    半日他人の家で暮らしたので
    小さなユリはいっぺんにいろんなことを言う  

 「ホンヨンデェ オトーチャマ」
   「コノヒモホドイテェ オトーチャマ」
   「ココハサミデキッテェ オトーチャマ」

 卵焼をかえそうと
 一心不乱のところに
 あわててユリが駈けこんでくる
 「オシッコデルノー オトーチャマ」
 だんだん僕は不機嫌になってくる

 化学調味料をひとさじ
 フライパンをひとゆすり
 ウィスキーをがぶりとひと口
 だんだん小さなユリも不機嫌になってくる
   「ハヤクココキッテヨォ オトー」
   「ハヤクー」

   かんしゃくもちのおやじが怒鳴る
   「自分でしなさい 自分でェ」
   かんしゃくもちの娘がやりかえす
   「ヨッパライ グズ ジジイ」
   おやじが怒って娘のお尻をたたく
   小さなユリが泣く
   大きな大きな声で泣く

   それから
   やがて
   しずかで美しい時間が
   やってくる
   おやじは素直にやさしくなる
   小さなユリも素直にやさしくなる
   食卓に向い合ってふたり坐る

 この詩の中には、一つの謎がある。それは、ユリと父親が、なぜ喧嘩の後に二人そろって穏やかな気持ちになれたのか、という謎である。この謎の答えは簡単で、「喧嘩の際に激しく泣いたり怒ったりすることによって、二人とも自分の感情を思い切り発散したため、スッキリしたから」というものだ。
  「スッキリしたから」という答えがあまりに単純であるため、「なぜ穏やかな気持ちになれたのか」という問題を、“謎”として掲げることに違和感を感じるかもしれない。しかし、大泣きした後や激しく怒った後に、感情がリセットされ、周囲の物が皆美しく見えてくるという瞬間を、誰もが一度は経験したことがあると思う。胸の中に穏やかな気持ちが流れ込んでくるあの瞬間だ。この感覚を理解しているということが、この「夕方の三十分」を読む際の前提条件としてあるのではないだろうか。
 娘のユリの、かんしゃくにまかせた発言(「ヨッパライ グズ ジジイ」)が、子供の悪口にしては激しいものであることを、たしか茨木のり子が『詩のこころを読む』で指摘していた気がする。しかし、ユリのかんしゃくが激しければ激しいほど、二人は喧嘩の後にスッキリした気分を味わうことができるため、ここでは辛辣な悪口をユリに言わせることが必要なのだと思う。
 つまり、私は、この詩の二つのシーン(喧嘩のシーンと素直な気持ちになるシーン)には、因果関係があるということを指摘したいのである。喧嘩をしたからこそ、二人は「しずかで美しい時間」を迎えることができたのである。言い換えれば、ここでは喧嘩というものが、ある種プラスの意味を持って機能しているのだ。
 もちろん、二人の喧嘩について、マイナスの意味を見出すという読みをする人もいるだろう。「二人は喧嘩をしたけれど、無事仲直りできた」、というように。そう読む場合は、喧嘩と仲直り、この二つの事象の因果関係が分断される。そうすると、二人が仲直りできた理由を他から持ってこなければならない。その理由として想定されるのは、「二人は親子であるから」というものである。親子であるから、本気のぶつかり合いをしても縁が切れるわけではない、というわけだ。これももちろん読みの可能性としてはあり得るだろうが、そうするとこの詩は「親子の絆」というありきたりな題材を扱っていることになり、凡庸に堕してしまうと私は思う。したがって、私は、喧嘩にプラスの価値を見出す読み、すなわち、「激しく喧嘩をしたからこそ、素直な気持ちになれた」と考える解釈を支持したい。
 さて、ここまで、「激しい喧嘩」という表現を用いてきたが、二人の大喧嘩は、あくまでも日常の枠を出ていないものであり、傍から見れば十分に微笑ましい光景であることを忘れてはならない。


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