この世界は不思議に満ちている —川崎洋の詩「なぜ」について—
今回は、詩人・川崎洋の「なぜ」という詩について見ていきます。
なぜ 川崎洋
なぜ 風は
新しい割ばしのように かおるのだろう
なぜ 鳥は
空を滑れるのだろう
なぜ 夏蜜柑は酸っぱいのだろう
なぜ 海は
色を変えるのだろう
なぜ たった一人の人を愛するようになるのだろう
なぜ 涙は嬉しいときにも出るのだろう
なぜ フリュートはあんなに遠くまでひびくのだろう
なぜ 人はけわしい顔をするのだろう
なぜギターの弦は5本でなく7本でなく6本なのだろう
なぜ
なぜ
なぜ
そして 人は なぜ
いつの頃からか
なぜ
を言わなくなるのだろう
この詩の語り手は、やや変わった人物です。一体どこが変わっているのかというと、どんな物事に対しても、「なぜ」という疑問を抱いてしまうという点です。作品の前半部分の、語り手が色々なことに対して「なぜ」と疑問を抱くという箇所から、そのことは読み取れます。私たちは、このように「なぜ」を言い続ける語り手の存在を、奇妙に感じます。
その上で、作品後半部分では、語り手を奇妙に思う私たち自身も、実は子供の頃は色々なことに対して「なぜ」と口にしていたのだと、語られます。
そして 人は なぜ
いつの頃からか
なぜ
を言わなくなるのだろう
ここで、語り手は、まず、世の中の人について、「子供の頃には<なぜ>を口にしていたのに対し、大人になってからはそれを言わなくなる」存在である、と定義しています。しかし、その定義自体も、人は「なぜ」、問いを発さなくなるのだろう、と、あくまで疑問の形で語られています。
このように、語り手は、どんな物事に対しても、「なぜ」という疑問を抱く人物です。このことから、語り手は、一つの見方を徹底的に行っている人物であると言えます。この語り手のように、一つの見方を徹底的に行う、というところから、文学作品は生まれてくるのだと、私は思います。ともあれ、この語り手は、どんなことに対しても、「なぜ」という疑問を抱いている。そのような語り手の眼には、「世界」は不思議に満ちた場所として映っているのではないか、と思われます。そして、本当は、「不思議に満ちた世界」というのが、この世の実像の一つなのではないでしょうか。そうした世界の実像に、人は、子供の頃は気づいているけれど、大人になったらそれを忘れてしまうのではないでしょうか。
このように、この詩は、この世界が、「なぜ」と問いたくなるような、不思議に満ちた場所であることを教えてくれます。この詩から、「世の中の人」と「語り手」の対比構造を読み取ることは大切です。世の中の人は、この世界が不思議に満ちた場所であることを忘れているという指摘、それは重要な人間批判であると言えますが、その指摘は、世の中の人の生き方を、語り手のそれと対比することによって、初めて浮かび上がってくるものだからです。