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存在の孤独 —井坂洋子の詩「柿の木と」について—

 今回は、詩人・井坂洋子の「柿の木と」という詩について見ていきます。


   柿の木と

  きょう 柿の木は
  枝と枝のあいだに
  星がひとつ見えた
  土の深い底のことを考えても
  高所恐怖になりそうな神経が
  口紅をつけて
  立っていた

  木の習慣には興味がなかった
  ある
  と言う人達のほうを盗み見る

  擬体が媚態を呼び込む
  柿の木にも
  わたしの柿 などと言う
  深呼吸しに夜の中に立つと
  なにもかも
  もう あきあきする、と
  すがすがしい、が
  ほとんど同時だ

  明日は水をかけてあげよう
  わたしには関係のない水を
      もっと しっかりと


 noteでは表示できませんでしたが、第三連三行目の「わたしの柿」という表現の「わたしの」という箇所に、テキストでは傍点が振られていることを断っておきたいと思います。
 さて、この詩の内容について、第一連から順番に見ていきましょう。
 第一連には、まず、「きょう 柿の木は/枝と枝のあいだに/星がひとつ見えた」とあります。この三行の意味は分かるとして、次の「土の深い底のことを考えても/高所恐怖になりそうな神経が/口紅をつけて/立っていた」とは、一体どういう意味でしょうか。これについて、まず、「口紅をつけて/立ってい(る)」存在として登場するのは、一人の女性であると推測することができます。その上で、最後の連には「わたし」という一人称があるため、語り手の性別は女性ではないかと考えられます。だから、この「口紅をつけて/立ってい(る)」人物は、語り手自身であると推測されるのです。その、化粧をして立っている語り手は、どのような心理状態でいたかについての説明が、「土の深い底のことを考えても/高所恐怖になりそうな神経」という記述になるわけです。これを、「きょう 柿の木は/枝と枝のあいだに/星がひとつ見えた」という三行の内容と繋げて考えると、「柿の枝と枝の間に、星が一つ瞬いているのが見えたが、その「星」と自分との間の距離のあまりの遠さに、思わず、高所恐怖症の人が起こすような、目眩を感じてしまった」となります。つまり、語り手自身と、空に瞬く星との距離の遠さについて、ここでは語られているわけです。
 次に、第二連について見てみましょう。今度は、先ほど語り手が、星が枝と枝の間から見えることに気づいた、その「柿の木」の話題に移ります。木というものの「習慣」(“性質”の意味でしょう)には興味が無かった、と語り手は、自分自身の、植物に対する無関心を打ち明けます。そして、世の中には、植物や園芸に興味を抱いていると自称する人がたくさんいるという事実を踏まえた上で、語り手はなぜか、その人たちに対して批判の目を向けるのでした。
 ここで、語り手がなぜ、木に関心を抱いていると自覚する人々のことを白い目で見ているのか、考えてみましょう。それについては、おそらく語り手は、「人は何かに対して本当の意味で関心を持つことなどできはしない」という考えを抱いていたからではないかと推測されます。最後の連を見ると、「わたしには関係のない水」という表現が登場しています。このような表現は、語り手が、自分と「水」というものの間には何の関係もない、と考えていることを表しているようにも取れ、このことから、語り手が、「人が何かのモノに対して、本当の意味で興味を抱いたり、関係を築いたりすることは不可能だ」と考えているのではないかと推測できます。
 この、語り手の考えをより強調しているのが、自宅の庭に植わっている柿の木を、「わたしの柿」と表現する人々に対しての、語り手の批判的態度です。この「わたしの柿」という言葉に代表されるような、所有の関係性は、人と柿の間には成り立たない、と語り手は言いたいのでしょう。いや、そもそも、どんな関係性も、本当は、自分と他者の間には存在しないのだ、とさえ、彼女は考えているに違いありません。たしかに、モノとモノの間には、本来、どんな関係性も存在しないのかもしれません。一つ一つが、個別の運命を生き、死んでいくこと、それこそがモノが在る、ということなのでしょう。
 このように、自分と、他のモノ(他者)の間には、なにも関係性がないのだということ、これがこの詩のテーマであると考えられます。しかし、それでは、第一連の、「星を見て目眩がした」というエピソードは、このテーマとどのように関わってくるのでしょうか。
 それを解くための鍵は、“距離”という概念です。語り手は、第一連において、自分と星の間にある“距離”のあまりの遠さに、思わず目眩を感じたのでした。ここで言及されている“距離”とは、語り手と星の間の、実際の(具象の)距離です。一方で、彼女はまた、自分と、「柿の木」あるいは「水」との間に、無関係さを感じてもいます。この互いに無関係な二つの存在の間には、抽象的な“距離”があるとは言えないでしょうか。その“距離”は、自分と他者との間に、無限に伸びていて、実際の“距離”と同じように、語り手に目眩をおこさせる性質のものなのではないでしょうか。
 しかし、一方で、語り手はまた、自分と、「柿の木」あるいは「水」の間の実際の距離は、一般的に“近い”と言われるものであるということも承知しています。このように、彼女は、身の回りのモノに対して、実際の“近さ”を感じていますが、同時にまた、抽象的な“遠さ”を感じてもいるのです。そのことを表すのが、

  なにもかも
  もう あきあきする、と
  すがすがしい、が
  ほとんど同時だ

 という四行です。「あきあきする」というのは、身の回りのモノたちの、実際の“近さ”に対してうっとうしく感じる気持ちであり、「すがすがしい」というのは、それらのモノの、抽象的な“遠さ”を肯定的に受け止めている気持を指していると言えます。
 このように、この詩は、自分と他者の間に広がる無限の“距離”を指摘するものでした。モノが存在すると言うことは、本来、とても孤独なことであると、この作品は教えてくれます。



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