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会社に飼い慣らされる —三木卓の詩「虐殺室」について—

 今回は、詩人・三木卓の「虐殺室」という詩について見ていきます。


   虐殺室 三木卓

  いっせいに自動ドアがとじる。
  プラットフォームをすべりだす
  長い密室に
  黒い洋傘を持った男たちが腰をかけて
  だまったまま慣性で
  かたむく。
  室内は 銀色にひかる
  まがった管によって構成され
  中央の鉄棒は 上下に
  鉄の環がはめられている。

  連結器をわたって
  赤い帽子をかぶった少年の一群が
  ひそひそと語りながら部屋に入る。
  かれらは 火のようなヘア・ブラッシを握り
  窓硝子をこすり
  すきまはないか点検する。
  やがて 一人がジャンバーのチャックをひらき ひきずりだす
  歯をむきだして怒っている幼児を。

  火花を散らして弧をえがく
  無数のヘア・ブラッシ。少年たちは
  おしだまって 幼児を焦す。
  幼児は ゴム管を吐き始め しだいに
  肌がしわでたるみを帯びる。
  カーヴ。
  鉄扉にあたってはねかえり
  うすくゴムを張った床に崩れ
  溜った雨水に潰かる。

  点検。
  少年たちは かたむいている男たちの
  まぶたをひっくり返して ポケットの
  ラムネ玉を入れる。
  洋傘の中に手を入れて
  要の金具を外して 勲章にする。
  男たちの頬を微笑が走る。

  いっせいに自動ドアがひらく。
  少年たちはコマアシャル・ソングを合唱しながら
  乗換駅へ降りて行く。
  いっせいにとじる自動ドア。
  黒い洋傘を持った男たちが腰をかけて
  だまったまま慣性で
  かたむく。
  見ると 幼児の四肢が
  もう銀色の管に成長しはじめ
  床に吸着点を求めて
  動きまわっている。


 この詩は、一見して、謎の多い作品に感じられます。
 幼児はなぜ「歯をむき出して怒っている」のか? また、幼児の四肢はなぜ、「銀色の管」に成長するのか? あるいは、洋傘を持った男たちの存在は、一体何を意味しているのか? さらに、「虐殺室」というタイトルだが、何のためにこの室は存在するのか?—などの疑問を、この詩を読み終わった私たちは抱きます。
 しかし、この作品をよく読むと、一つの事実に気づくことができます。それは、この「虐殺室」と称される「長い密室」は、電車というものに酷似している、という事実です。「自動ドア」や、「プラットフォーム」という単語、また、手すりを想起させる「鉄の環」や車両を繋ぐものとしての「連結器」という表現、さらには、「乗換駅」という決定的な単語の存在から、そのようなことが言えます。そして、その電車に酷似する「虐殺室」に乗っている「洋傘を持った男たち」は、まるで、日常的に電車に乗って会社へ通勤する、サラリーマンのような存在ではないかと考えられるのです。特に、彼らが「勲章」を貰って微笑むという描写から、そのような可能性が浮かんできます。
 それでは、この詩に登場する幼児は、一体何を意味しているのでしょうか。—それについては、サラリーマンの「怒り」の象徴であると考えられます。なぜなら、幼児は、登場した際、「歯をむき出して怒っている」からです。つまり、幼児とは、サラリーマンの、会社に対する怒りが具現化されたものなのです。会社は、そこで働く人に理不尽を強いることもあるでしょう。そうでなくても、自分たちを朝から晩までくたくたに働かせる会社という存在に、サラリーマンが怒りを覚えるのは理解できます。
 しかし、そうした怒りの象徴としての幼児は、「ゴム管」を吐き、その四肢を「銀色の管」へと変化させるのでした。こうして、幼児は、電車の一部へと変化してしまうのです。これは、言い換えれば、サラリーマンの会社に対する怒りが、消されてしまうことを意味します。そうした、サラリーマンの反抗心が殺されていくという意味で、この詩には「虐殺室」というタイトルが冠せられているのです。この「虐殺室」という言葉からは、例えば、ナチスがユダヤ人を大量に殺したガス室などを連想することができます。
 ところで、この詩に登場する少年たちは、サラリーマンの怒りを殺してしまう電車という場を管理する、架空の存在であると考えられます。彼らは、あちこちに隙間がないか点検しています。これは、ガス漏れを予防しているようで、まさにガス室を想起させる行動です。彼らはまた、サラリーマンのことも点検します。サラリーマンの瞼をひっくり返して、ラムネ玉を入れたりしているのは、サラリーマンの眼に、真実が何も映らないようにしているのでしょう。その上で、勲章を与えることで、サラリーマンを喜ばせているのです。これらのことから、この場面には、作者の主張が込められていることが分かります。褒賞のために仕事に勤しむサラリーマンは、会社に飼い慣らされていることにまるで気づいていないのだという主張です。
 このように、この詩は、サラリーマンが通勤のために毎日乗る電車を、「虐殺室」に喩えている作品でした。会社に飼い慣らされているのにそのことに気づいていないサラリーマンは、知らない内に自分たちの怒りを殺されているのです。

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