見出し画像

卑小な世界 —井坂洋子の詩「ビーダマ屋」について—

 今回は、詩人・井坂洋子の詩「ビーダマ屋」について見ていきます。 


   ビーダマ屋 井坂洋子

  侮蔑の笑みを浮かべる唇を
  息をつめてみつめるビーダマ
  たかがビーダマ
  と思えば気も軽くなりましょう
  高い塀に座り
  桃色の舌で
  体中の痛点をなめる黒猫の目もビーダマ  

  おとなりの墓地は汚れた闇を洗濯し
  墓石のうえに
  日ごとあたらしい文字が記されるが こちとら
  死から引き算される光量のとぼしい商売

  看守のビーダマを盗み
  囚人たちが夢のなかで散歩している道の
  はじにも店をだして
  住んでいる
  太陽が大地の下をさまよう間
  わが店舗のにせの灯が連携している


 この詩は、人間や猫などの眼球のことを、「ビーダマ」と表現しています。第一連の「息をつめてみつめるビーダマ」や、第三連の「看守のビーダマを盗み」などの「ビーダマ」は、明記されてはいませんが、それぞれ、眼球を指しています。
 そのことを確認した上で、作品を見てみましょう。冒頭には、

  侮蔑の笑みを浮かべる唇を
  息をつめてみつめるビーダマ

 とあります。ここで、「侮蔑の笑み」を「唇」に浮かべている人物、また、その「唇」を「息をつめてみつめ(てい)る」人物について、これらは一体誰を指しているのか、という問題が生じます。結論から先に言うと、「侮蔑の笑み」を浮かべている人物は、語り手を指すのではないかと考えられます。また、「息をつめてみつめ(てい)る」人物とは、語り手に侮蔑の表情を浮かべられて凍りついている人であり、具体的には、世間の人一般であると推測されます。
 このように考える根拠を、以下に示したいと思います。まず、「侮蔑の笑み」を浮かべている人物の正体が語り手自身であると考える理由についてです。それは、作中の語り手による話の内容には、人々を皮肉る態度が窺えるからです。例えば、まず、人間の眼球を、「ビーダマ」であると考えること自体、人を食った態度であるように感じられます。人間の眼を、その表面に何も写さない、空っぽの「ビーダマ」であると考えることは、人間の一人一人に具わった人格というものを全く無視する、失礼千万な話です。また、第一連の「体中の痛点をなめる黒猫の目もビーダマ」という一行についても、「体中をなめる黒猫の目もビーダマ」と述べればよいところを、わざわざ「痛点」という言葉を挿入して、悪趣味な表現を生み出しています。これらのことから、この語り手は皮肉好きという性格の人物であると考えられます。したがって、「侮蔑の笑み」を浮かべているのは語り手ではないかと推測されるのです。
 次に、その語り手の浮かべる、侮蔑の表情を、「息をつめてみつめ(てい)る」人物の正体について考えたいと思います。これについては、まず、語り手が馬鹿にし、蔑んでいる当の相手であると考えられます。なぜなら、この箇所で、「息をつめてみつめるビーダマ」と表現された上で、「たかがビーダマ/と思えば気も軽くなりましょう」と語り手は言っているからです。語り手の侮蔑の表情を、相手が見つめ、さらにその相手の見つめる目を語り手が「ビーダマ」と考えることで、再び相手を馬鹿にしているのです。つまり、ここでは、語り手が、「息をつめてみつめる」人物のことを、とことん馬鹿にしている、と読み取ることが求められています。そう読まずに、「侮蔑」の対象の相手と、「みつめ(てく)る」相手のことを別であると考えると、話がややこしくなります。このように、語り手の「唇」を「息をつめてみつめる」人物とは、語り手の蔑みの対象となっていた人物ではないかと考えられます。その上で、この「息をつめてみつめる」人物は、世間一般の人を指すと考えているのですが、この根拠については、また後ほど説明したいと思います。
 ここで、語り手の特徴について纏めましょう。語り手は、皮肉好きな性格をしている人物で、人や猫などの目のことを「ビーダマ」と呼ぶ人物でした。この時、タイトルの「ビーダマ屋」という表現に注目して下さい。作中に「商売」という単語が登場することから、「ビーダマ屋」とは語り手のことを指すのではないかと考えられます。しかしここで、重要な事実に突き当たります。普通、「ビーダマ屋」というと、ビーダマを売っている人のことをイメージしがちですが、この詩の場合、どうやら語り手はビーダマを売る商売をしているわけではないようだ、という事実です。つまり、こういうことです。「ビーダマ屋」の「屋」とは、必ずしも、「八百屋」、「魚屋」などの商売を表す「屋」ではなくて、むしろ、「気分屋」、「理屈屋」などの、人の性格を表す言葉としての「屋」なのではないか、ということです。このように、「ビーダマ屋」は、人の性格、あるいは態度を表す言葉ではないかという可能性が浮上します。ここでは、語り手の、皮肉っぽい態度を指していると考えられます。その上で、「ビーダマ屋」の「屋」には、商売を表す言葉としてのニュアンスも含まれていることを指摘したいのです。というのも、もちろん、基本的には、「ビーダマ屋」の「屋」は、人の目をビーダマとして認識するような、語り手の人を食った態度を表す言葉です。しかし、作者は同時に「ビーダマ屋」という語を、架空の「商売」の名前として機能させています。ただし、それは、お金を稼ぐことを目的とした、人間世界の「商売」ではなく、たとえば創造主のような存在から任じられた、この世の働きの大切な一角を引き受ける「商売」であると想像されます。
 このことについて、詳しく説明しましょう。語り手の人を食ったような、皮肉っぽい態度(作品はこの態度を「ビーダマ屋」と呼んでいます)は、一見したところでは、ただ、悪趣味な性格であるとしか感じられません。しかし、この性格は、どうやら、この世の大切な部分を担っているようなのです。その根拠は、

  太陽が大地の下をさまよう間
  わが店舗のにせの灯が連携している

 という二行にあります。この「にせの灯」とは、月のことを指すのではないかと想像されます。日が沈んでしまった後は、太陽に代わって、月が辺りを照らすからです。この「月」こそが、「ビーダマ屋」の店舗の灯りだというのです。ただし、それは、「にせ」の灯で、本物の灯ではありません。この世を照らす本物の灯は、あくまで太陽である、ということなのでしょう。そして、ここで重要なのは、「連携」という言葉です。世界を照らす太陽、つまり、世界を形作る「本物」の価値観の裏には、月の存在が、つまり、「にせ」の価値観の存在がある。この「にせ」の価値観というのは、<表側>ではない<裏側>の価値観、と考えてもよいでしょう。この<表>と<裏>、二つの価値観は、互いに連携して、この世を支えているらしいのです。
 <表>の価値観というのは、おそらく、建設的な考え方を指します。<裏>の価値観というのは、非建設的な考え方なのではないでしょうか。ここで、「非建設的」と言うと、たとえば「死」や、それにまつわる「弔い」を指すのではないか、と考える人もいるでしょう。しかし、「弔い」は、あくまで建設的な、<表>の価値観に含まれます。
 なぜなら、作中には、

  おとなりの墓地は汚れた闇を洗濯し
  墓石のうえに
  日ごとあたらしい文字が記されるが こちとら
  死から引き算される光量のとぼしい商売

 という四行が挿入されているからです。「ビーダマ屋」と同じように、暗いイメージのある「墓地」は、一見、非建設的な<裏>の価値観を担っているように思われます。しかし、作品は、実は、「弔い」によって、人の汚れた一生は清算され、かつ、死者はどんどん更新されていくため、それは建設的な、<表>の価値観なのだと説いています。表層においては暗く見える「死」という現象は、実は明るい、建設的な価値観の側に含まれているのです。一見暗く見える「死」よりもなお暗い、ということで、「光量のとぼしい商売」と、語り手は自分の「ビーダマ屋」を説明しています。
 ここまで来ると、「ビーダマ屋」とは、ただ単に皮肉な態度を指しているだけではないということが明らかになってきます。もちろん、皮肉な態度であることは間違いないのですが、それを徹底的に貫いた姿勢、ということになるでしょう。
 ところで、ここで、「ビーダマ屋」が、どんな種類の「皮肉屋」なのか、考えてみましょう。最初に戻ると、「ビーダマ屋」とは、人や猫などの目を「たかがビーダマ」と考える、世の中を小馬鹿にした態度のことでした。その箇所を見てみると、

  たかがビーダマ
  と思えば気も軽くなりましょう

 とあります。ここで、語り手は、一体誰に話し掛けているのでしょうか。それについては、読者に語りかけているのだと考えられます。つまり、語り手は、読者の我々に向かって、「ビーダマ屋」という態度の真髄にあるものについて、教えてくれているのではないかと推測されるのです。その上で、「たかがビーダマ/と思えば気も軽くなりましょう」と語り手が言っているということは、人や猫などの目を「ビーダマ」と考えるという方法は、あくまで、読者の我々のために、語り手が考え出してくれた、人を見下すための方法なのだと言えるのではないでしょうか。つまり、語り手は、人の目を人の目と認識したままで、相手のことを馬鹿にできる、「皮肉屋」のプロなのですが、プロではない我々のために、試しに人の目をビーダマと思ってみたらどうか、と提案してくれているのだということになります。
 このことについて、よく考えると、語り手は、「たかがビーダマ」と思わなくても、最初から、「たかが人間」、「たかが猫」と思って、相手を馬鹿にしているのでした。この、「たかが○○」の「○○」の部分には、何でも代入できるのではないでしょうか。「たかが神」、「たかが世界」、「たかが宇宙」、……。このように、普通の人が巨大だと思って畏怖の感情を抱いているものに対し、語り手は、いとも簡単に、それを矮小化してみせるのだと思われます。なぜ、そのようなことが可能なのか? ——それは、語り手が、この世の全ては、いや、この世そのものが、取るに足りないものだと知っているからではないでしょうか。語り手の目は、拡大鏡ならぬ、“縮小鏡”のようになっていて、全ての物事を卑小なものとして映す。しかし、本当は、その縮小された像こそが、この世の実相であると考えられるのではないでしょうか。このように、この語り手は、全てが卑小なものであると知っているがゆえに、全てを嘲笑っているのでした。だからこそ、「息をつめて」語り手を「みつめる」人物は、語り手によって嘲笑われる全ての事物を代表した、人間一般なのだと考えられるのです。
 さて、この詩は、全てを「取るに足りないもの」として嘲笑う語り手が登場する作品でした。語り手の目は、この世の実相を写していますが、それは「非建設的な態度」として、人々からは退けられています。ちなみに、

  看守のビーダマを盗み
  囚人たちが夢のなかで散歩している道の
  はじにも店をだして
  住んでいる

 という四行は、この世のどこをめくっても、その裏側には、語り手の価値観が存在していることを示しています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?