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不条理に満ちたこの世界 —三木卓の詩「勘定」について—

 今回は、詩人・三木卓の「勘定」という詩について見ていきます。


  勘定 三木卓

  ぼくらの悲惨と うまくつりあう
  よろこびは どこにあるだろう?
  憂うつなぼくの友人が つぶやいた
  ぼくがこどもを失った気持と
  きみがこどもを得た気持はつりあわない
  鞭の下にいる気持と
  鞭をふる気持はつりあわない
  しかし われらの宇宙は
  エネルギー恒存則に支えられているのだ
  してみると おれたちは きっと
  どこかの星雲とつりあっているのだね
  わが友人は憂うつそうに言った


 この詩には、語り手とその友人が登場します。友人の方は、もしかしたら、自分の子供を亡くしたばかりなのかもしれません。友人は語り手に問いかけます。「ぼくらの悲惨と うまくつりあう/よろこびは どこにあるだろう?」と。その上で、「ぼくがこどもを失った気持と/きみがこどもを得た気持はつりあわない/鞭の下にいる気持と/鞭をふる気持はつりあわない」と、その問いかけの意味を説明します。
 しかし、彼はまた、こうも言います。「しかし われらの宇宙は/エネルギー恒存則に支えられているのだ/してみると おれたちは きっと/どこかの星雲とつりあっているのだね」。我々の悲惨とつりあうよろこびは見当たらない、としながらも、しかし我々の宇宙は全てがつりあうようにできているのだから、我々の不幸は、きっとどこかの星雲で息づいている別の文明とつりあっているのだろう、と言うのです。
 さて、この詩のテーマは、一体何でしょうか。詩の内容を素直に読めば、「我々の悲惨とつりあうよろこびがどこかには存在しているはずだ。なぜなら、宇宙にはエネルギー恒存則というものが存在しているからだ」というものになります。しかし、この詩の言いたいことは、本当にそのようなことなのでしょうか。
 この作品が、エネルギー恒存則の絶対性を謳うものでないということは、作品の結末部分を見れば分かります。結末で、語り手の友人は、相変わらず、「憂うつそう」な顔をしています。もし、彼が本気で、自分の悲惨はどこかの星雲に住む宇宙人のよろこびとつりあっているのだと考えているのならば、自分の不幸が報われたような気分になるため、少しは嬉しそうな顔をするはずです。しかし、実際には、彼は「憂うつそう」な顔をしています。このことから、彼は実はエネルギー恒存則を信じているわけではないのだと断言することができます。
 ここで、友人が「自分の悲惨はどこかの星雲とつりあっている」と言ったのは、その正反対である現実を皮肉を込めて語るためであったのだと分かります。つまり、彼は、エネルギー恒存則を主張しているのではなく、むしろ、悲惨とよろこびがつりあわない、不可解で不条理なこの世のありようを訴えているのだと言えるのです。その際、「どこかの星雲とつりあっている」などという無理な論理を提示することにより、逆に、「エネルギー恒存則」というものが成立しないこと、この世が不条理なものであることを強調していると言えるでしょう。
 このように、この「勘定」という詩は、私たちの生きるこの世界の不条理を言い当て、心の内に鋭い痛みを抱える人々に寄り添う作品になっています。


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