見出し画像

山崎るり子「別れ」について —“死”を獲得する—

   別れ 山崎るり子

  飛べない鳥もいましたねぇ
  飛べない鳥もいました 歌わない鳥も
  さようなら
  たくさんのいろいろな鳥たち
  見えなくなって来ました
  さようなら 光
  だれかいるのですか
  あたりがしんとして もう何も
  ここにいますよ
  ここにいますよ
  もう何も
  さようなら 言葉

  そんなふうに一つ一つにお別れをして
  横たわるものになっていく時

  時間は止まったか
  籠の中でひしめきあっていた鳥たちは
  開けはなされた窓から
  飛んで行ったか
  飛べない鳥も 一ぴき残らず
  飛んで行ったのだろうか
  もう 何もない

  それでも夜明けはやってきて
  ちぎれた闇のような鳥が一羽
  朝焼けの空を
  鳴きながら


 この詩を一読すると、主人公が鳥籠の中にたくさんの鳥を飼っている、という内容が読み取れる。たしかに、どうやら主人公は実際に鳥をたくさん飼っているようでもある。しかし、この主人公が飼っている鳥は、ただ生き物の鳥としての役割のみを果たしているわけではないと、私は思う。
 この鳥の一羽一羽は、実は人間が死んでいく際に手放していく一つ一つの事物を表しているのだ。例えば、「光」や「言葉」などが、その“事物”に相当する。作中の主人公は、今まさに死のうとしている。タイトルにもあるように、この世に“別れ”を告げようとしているのだ。その時、まず「光」を、次には「音」を、そして「言葉」を、最後に「時間」を、主人公は失う。
 ここで、この詩では二つの情景が描き出されていることについて指摘したい。一つは、死んでいく主人公を取り囲む、現実の風景だ。そして、もう一つは、今指摘したような、抽象的な世界での情景、つまり、主人公が一つ一つ事物を失っていく、という情景である。一つ目の、現実の風景を描き出す記述においては、主人公は、自分の飼っている鳥たちが飛び去ってしまったのかと勘違いする。その中には「飛べない鳥」も混ざっていた。「飛べない鳥」が翼を広げて籠から飛び去っていくわけがないため、この「鳥たちが逃げた」という現象は、実はただ主人公が視力を失い、鳥たちのことが見えなくなっているだけのことに過ぎない(しかし、抽象的な情景の方では、この「鳥たちが飛び去る」という描写は意味を持っている)。そして、主人公は息を引き取る。第四連には、

  それでも夜明けはやってきて
  ちぎれた闇のような鳥が一羽
  朝焼けの空を
  鳴きながら

 とある。ここで、主人公が死んでも、「夜明けはやってきて」、「ちぎれた闇のような鳥が一羽/朝焼けの空を/鳴きながら」飛んでいくという、主人公の不在の世界での出来事が語られている。この「ちぎれた闇のような鳥」とは、黒い鳥であるため、カラスのことを指すと推測される。
 さて、ここで、二つ目の、抽象的な世界での情景について説明したい。先程触れたように、飛び去ったたくさんの鳥たち(現実の風景においては「飛び去った」というのは主人公の勘違いだが)は、主人公が手放していく一つ一つの事物を表しているのだった。では、最後の、「朝焼けの空を/鳴きながら」飛んでいく、「ちぎれた闇のような鳥」とは、一体何だろうか。もちろん、現実の風景においては、これは先に述べたように、カラスを表している。しかし、抽象的な世界の情景においては、一体何を表しているのか?
 —私は、これは、「死」という事象を表しているのだと思う。たくさんの鳥たちの一羽一羽が、例えば「光」や「時間」を表すのならば、この「ちぎれた闇のような鳥」は、「死」の象徴として読めるのではないだろうか。たしかに、「闇のような」という表現が、不吉なイメージを喚起して、いかにも「死」の象徴らしく感じられる。
 そして、作中には、「それでも夜明けはやってきて」とある。この「それでも」という逆接を、どう理解すれば良いのか? —私はこれを、人は死ぬ際に、あらゆる事物と“お別れ”するけれど、全てを失うわけではなくて、「死」という事象を獲得するのだ、という意味に捉えた。そう、この詩は、人は死ぬ際に、全てを手放さざるを得ないが、それでも最後に、「死」というものを手に入れることができるのだ、というテーマの許に書かれた作品なのである。
 つまり、第四連の、「ちぎれた闇のような鳥」が「朝焼けの空を/鳴きながら」飛んで行く、という描写も、二つの意味を持つ。現実の風景において理解すると、一羽のカラスが朝焼けを背景に飛んで行く、という日常的な光景であるが、抽象的な世界の情景として考えると、これは、主人公が「死」を獲得したという意味なのである。ここで、「死」を“獲得”したと言えるのは、「それでも夜明けはやってきて」の「それでも」という逆接の表現にその根拠がある。「それでも」によって、全てを失う“喪失”の物語から、“獲得”の物語へと、この詩は舵を切っている。
 以上より、一般に、全てを失うことであると考えられがちな、人間の死という現象は、実はその最後の段階において、「死」そのものの獲得という工程を踏んでいるという指摘をすること。それが、この詩の成し遂げたかったことであると、私は考える。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?