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【遊郭短編小説】招き猫

 私はあの娘が好きだ。仕事が終わるといつも優しく笑って私に頭を下げる。

 あの娘のことは禿(かむろ)の頃から知っている。卑屈になったり投げやりになったりせず、いつも従順で他人を思いやる気持ちを忘れない娘だ。
 艶やかな黒髪は流れ落ちるように真っ直ぐで、触れれば手から零れ落ちてさぞかし気持ち良いだろう。
 白いもち肌は少しふくよかで、思わず手を伸ばしたい衝動に駆られるほどだ。吸い付くようなその肌は、やはり抱き心地もいいらしい。客からの人気もあり、いつ身請けされてもおかしくないと楼主が話しているのを聞いた。

 それなのに他の遊女たちは「ぼうっとしているくせに欲深い」だの「他人の客を隙あらば奪おうとしている」だのと陰でこそこそと話をしている。私は廓の玄関口にいなくてはいけないという立場上、彼女に何も望むことはできない。しかし、それでも常に見守り、必要とあらば役に立ちたいと思っている。

 そんなある日のことだった。

 夜明けとともに泊まり客が帰り始め、それを見送る遊女たちが愛想笑いを振りまき玄関口までやって来た。
 その中に彼女の姿を見つけ、私はそっと溜息を吐く。
 好きな娘が余所の男を見送る光景を、朝日が差し込み始めた頃に見ていなければならないこの気持ち。
 できることならその間に割り込んで彼女を攫っていきたいと、思わない日がなかったわけではない。嫉妬という感情を押し殺し、見ていることしかできない自分の非力さに、何度落胆しただろうか。
 そんな溜息すら吐くことのできない私の前を過ぎ、彼女は客の男に寄り添って廓を出ていった。恐らく大門まで見送りに行ったのだ。私は玄関口に残る人々を眺めながら彼女の帰りを待つ。

「あの旦那、あたしが狙ってたのにまたあの子に取られたわ」
「いやだ、あんたも?」

 客がいた時とは打って変わって慎みなど微塵も感じさせない遊女が二人、襦袢の裾が翻ることにもお構いなく大股で歩いてくる。
 そして私の前で立ち止まると密談でもするかのように、ひそひそと話し始めた。

「一度思い知らせてやりたいね、どうしてやろうか」
「そうね、噂じゃあの子、故郷に恋人を残してきているそうよ。早く借金を返して帰りたいとか」
「馬鹿だね、売られた女を待つ男なんているもんか」
「だけどあの子は帰るつもりでいるみたい」
「じゃあ、こんなのはどうだい」

 更に声を潜めて話し始めたので私には聞き取ることができなかったが、どうやら「あの子」というのは私の想い人のことらしい。しかも良からぬ企みであることは、雰囲気からして明白だった。
 一体彼女に何をするというのだろう。故郷に残してきた恋人の話はさておき、私の大事なあの娘に面倒をかけさせないでもらいたい。私にその企みを阻止することはできないだろうか。
 示し合わせたように意地悪く笑う遊女たちが私の前から立ち去ると、やがて彼女が襦袢の上に着た羽織の胸元を、寒そうに押さえて帰ってきた。

「ああ寒い。やっぱり明け方は冷えるわね」

 そう言って履き物を脱ぎ玄関に上がり込む。そしていつもの日課のように私の前に来ると、にこりと笑った。小走りで帰ってきたからだろう。いつにも増して頬が淡い紅色に染まっていてとても可愛らしい。

「ようやく店への借金を返すことができるの。だからあんたとももうすぐお別れ。いつも見守っててくれたよね、ありがとう」

 私は彼女と視線を合わせた。お別れと言った彼女の言葉の意味を、即座に理解することができない。
 やはり彼女は借金を返し終えさえすればここを出ていってしまうのか。故郷で待つ男の元へ帰ってしまうのだろうか。

 禿と呼ばれる幼い頃からここで暮らし、遊女になって二年ほど。彼女はその体を売って金を儲けてきた。
 私はここを終の棲家として生きる女を見てきたし、ここを出て河岸見世に落とされた女も見てきた。身請けされ、建前上とはいえ幸せを掴んだ女もたくさんいる。 
 けれども、彼女はまだ若い。これから先もこの廓で暮らしていくのだと思っていた。どれだけ無理をして男の相手をしてきたのかはわからないが、借金を返すほど稼いだことは本当にすごいことなのだろう。
 だが、幼い頃に生き別れた男が今も故郷で待っているとは、彼女をひいき目に見ている私にも考えにくい。
 だからと言って「ここにいてほしい」とは、彼女の仕事内容を考えるととてもじゃないが言うわけにもいかず。
 かと言って、私が彼女の手を取ってここから出ていくことなど到底できるはずもなかった。
 私には話すことも、この手を伸ばして彼女の頭を撫でてやることもできない。

「わたしには何もなかったけど、あんたがここにいてくれたおかげで頑張ることができたよ。くじけそうになるとあんたと目が合うんだ。そしたらもうちょっと頑張ろうってね。うん、本当にありがとうね」

 満足げに優しく微笑む彼女を見て、私は何故表情すら変えることができないのかと自分に問うた。
 私は何もしていない。ただここにこうしているだけだ。
 そして今も、せめて先程の遊女たちの話を彼女に伝えたいと思っていながら何もできない自分がいる。この娘はそんな私を心の支えにして、今までやってきたというのに。

 気をつけて。

 そう心の中で強く念じるけれど何かが起こせるはずもなかった。娘が小さく息を吐き出して「それじゃあね」と言い踵を返すと、そこには先程の遊女二人が立っていた。

「ねぇ、もうすぐここを出て行くって本当?」

 にやにやと怪しく笑う二人を見て、彼女は悪意から滲み出る黒い空気を感じ取ったのか、すかさず身構える。

「借金を返すために随分けちけちと貯め込んでたみたいだけど、いいかい? 人気があるってことはそれだけ稼いでるってことだろ?」
「それが、なにか・・・」
「他人が狙ってる客まで横取りして稼いだんだ。その分、おこぼれを頂かないとねぇ」
「だからなんなの」

 遊女の一人が隠し持っていた赤い布の包みを差し出す。それを見て彼女の顔はみるみる赤くなり、怒りに打ち震えた。

「返して!」

 一際鋭い声を発して彼女は遊女たちに向かって手を伸ばした。しかし女たちはおもしろがって、その小さな包みを二人の間で投げ合い、彼女を翻弄する。

「お願い返して! やっと貯まったの! 病気の母様が待ってるの!」
「嘘ばっかり! 故郷で男が待ってるらしいじゃないか。散々男を食い漁っておいて、あんただけ幸せになろうなんざ、許されるわけがないんだよ!」
「男なんて待ってない! 飢えて死ぬよりはましだって、母様が一人で、先に死んだ父様の借金を背負ってくれたんだ。無理がたたって病気になって、もう長くないんだよ」

 あっちへ行ったりこっちへ来たり、彼女は私の前を包みに釣られてうろうろしながら、必死になって手を伸ばしている。
 と、その指先がようやく包みに触れたと思ったら、女は包みを広げて布をひらひら振って見せた。彼女の動きが止まる。 

「残念、もうないの。この廓で働く人間全員に酒を振る舞うように今さっき酒屋に注文して支払ってきたから」
「え、」
「あんたが悪いんだよ。調子に乗って男をがつがつ食っちゃうから!」
「か、返してよ! わたしのお金返して!」

 彼女は一人の遊女に飛びかかったが、もう一人の女に突き飛ばされ私の横にある壁に打ち付けられた。どすんと大きな音がして私の体も僅かに振動で揺れる。
 むくりと身を起こすと彼女は女たちを睨み上げ、そして日頃の彼女からは想像もできないほど大きな声で怒鳴った。

「この、泥棒!」
「泥棒だって! そりゃ自分のことだろ! この泥棒猫!」

 ひらりと赤い布が宙を舞う。恐らく貯めていた金をあの布に包んでいたのだろう。中身を失った布は一度高く舞い上がると、ひらひらひらりと落ちていく。

 取っ組み合う三人の遊女を眺めている私の目の前に、ふわりとその布が舞い落ちた。
 私の頭に落ちたのだ。視界が赤く遮られ、あっと思ったその瞬間、私の体はまるで空を飛ぶように軽くなり、直後にがつんととてつもない衝撃が走った。

「きゃああああああ」

 女の悲鳴が上がる。開けた視界に写ったものは私の手を掴み、女の頭を殴りつけた彼女の姿と、殴られて頭から血を流す女、そして割れてばらばらになった私の体だった。

 息を荒げる彼女を、割れた破片となった目で見上げる。目に涙を溜めて青ざめていく彼女の濡れた唇は、小さく震えていた。

 慌ててやってくる楼主たちがばらばらになった私を見て「誰か掃除しろ」と叫ぶ。まるで今ようやく私の存在を思い出したかのようだ。

 そう、私は招き猫。金運を呼び込む縁起物だと言われていても、玄関先にただ座っているだけの私を誰も気に留めやしなかった。
 この廓を取り仕切る楼主でさえ見向きもしなかったというのに、彼女はいつも私に頬笑みかけ、うっすらとでも埃が積もり始めるとその手で払ってくれていたのだ。
 その度に想いは募り、彼女のために何かできやしないかともう何日も、何年も願い続けてきた。

 私は嬉しかった。ようやく彼女の役に立てたのだ。ここで果ててしまうことになったとしても、長年の願いが叶ったのだから何も言い残すことはない。
 言い残す口さえ割れてしまって、どこに飛んでいったのか、もう知る由もない、けれ、ど。