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ソポクレス『オイディプス王』甲南読書会vol.14

読書会概要

甲南読書会vol.14
課題図書:ソポクレス「オイディプス王」(岩波書店、光文社、新潮社ほか)
開催日時:2024/02/27 13:00~15:00
開催場所:甲南大学iCommons 4F Book Cafe
参加者:16名(院生2名、学部生6名、教職員2名、学外6名)

甲南読書会vol.14「オイディプス王」チラシ

あらすじ

危機に瀕する都市国家テーバイを救うためオイディプス王は神託を請う。結果は、「先王ライオス殺害の犯人を罰せよ」だった。真相が明らかになるにつれ、みずからの出生の秘密を知ることになる彼を待ち受けていた運命とは? 後世の文学、思想に大きな影響を与えたギリシャ悲劇の最高傑作。(光文社古典新訳文庫の裏表紙から引用)

読書会の記録

出版社ごとの違い

岩波文庫(藤沢令夫訳)…最初に家系図と地図。土地の位置や距離感がわかりやすくて良いと評する人も。表紙にギリシャ時代の赤絵壺の絵が刷られている。

光文社古典新訳文庫(河合祥一郎訳)…家系図は最後。孫訳(英語版からの訳)。底本はサー・リチャード・ジェッブ。オイディプスがテーバイの王に迎え入れられた経緯の説明が短すぎるという指摘も。スフィンクスの謎の答えも書いていないので、スフィンクスのくだりはみんな知っている前提で書かれているように見える。

新潮文庫(福田恆存訳)…家系図なし。孫訳(英語版からの訳)。底本はリチャード・クレイヴァハウス・ジェブ。劇が始まるまで長い。最初にネタバレ+アンティゴネ。表紙にギュスターヴ・モロー《オイディプスとスフィンクス》が刷られていて、かっこいいという声も。

「あれってオイディプス王から…?」って思った作品の例

・「スターウォーズ」
・「リア王」(王が大きな過ちを犯す点、盲目の者が真実を見通す点。コロスと道化がリンクするようにも見える。)
・村上龍の小説「愛と幻想のファシズム」
・「エヴァンゲリオン」(前エディプス期)
・映画「灼熱の魂」(イオカステが主人公。母が遺書に「子供と夫を探してくれ」→探しに行くが、同一人物だった。)
・手塚治虫「火の鳥」(母を冷凍保存するシーンがある。子宮としての存在。偶像としてのマザー)
・「源氏物語」(近親相姦、母の幻影を求める点)

人物像

【オイディプス】
・スフィンクスの謎を解いたから頭がよさそうに見えるけれど、自分についての知識は実はなかった。
・知識ある王、でもカッとなって父を殺そうとする、というはじまり。沸点低い。

【イオカステ】
・人のためにいろいろがんばる。国より息子を優先する点が母らしい。

感想

・エジプトのスフィンクスは荘厳な感じ⇔ギリシャのスフィンクスは怪物感

・全体的に、リアリティーを求めてないように見える。王と民衆が普通にしゃべってるけど…?

リアルだという意見も(理不尽な運命や、どうしようもないことは、現実世界でも存在する点)

・60行「私ほどつらい者はおるまい」のように、皮肉っぽい台詞がよくある。突っ込みたくなる
・テュケー(運、成りゆきを意味する)、理由なく父を殺す悲劇性、でも観客からは必然
・盲目であることの意味=神秘性、真実を知っている
・「オイディプス王」の続編といえる「アンティゴネー」では、アンティゴネーとの旅でオイディプスはいいお父さんに
・最後にクレオンに「こども奪わないで」って言っちゃうオイディプス
・「后を葬ってくれ」→クレオン何も言わないが、何かジェスチャーしてた?

●イオカステはいつ真実に気づいたのか?
742行(イオカステによる、ライオス王の風貌についての説明)で。くるぶしに傷、で確定?
770行~?神託の話
真実に気づいて動揺する838行
のイオカステの台詞「その人(ライオス王の元召使いで、今は羊飼い)が来たら、どうなさろうというのです。」で真実に気づいている?
857-8行のイオカステの台詞「ですから、これからは預言を気にしてあれこれ考えたりなど、私でしたら致しません。」=なかったことにしようとする、自分に言い聞かせている

今でもみられるテーマ。近親相姦、父殺し、自分探しなど
男性は母が好き。「ブラックジャック」では、患者を整形する時、綺麗な女性の顔=母の顔に似せていた
「銀河鉄道999」母と理想を重ね合わせる 幻想への欲望、おぞましい
男性の欲望がおぞましいのに、女性がおぞましいと勘違いする男性
知ろうとしすぎはあまりよくないという教訓?

●おもしろさはどこから?
・観客と登場人物の知っていることの違い=劇的アイロニー
・運命的、予定調和的
・犯人捜しが自分探しになる点

様々な絵画での描かれ方

・父殺し

ヨーゼフ・ブランク《ラーイオスを殺すオイディプス》1867年、個人蔵

仔馬に引かせた車に乗って一人の男がやって来るのに出遭った。その車の前を歩いていた先触れと、車に乗っていた年配の人物とが、乱暴にも私を道から追退けようとするのだ。当然、こちらは腹立ち紛れ、私を押退けようとした馭者をその場に打ちのめしてやった。それを見ていた年配の男は私が馬車の横を通りすがるのを見すまし、車の中から、先が二つに分れている棒で、私の頭をしたたかに打った、が、それは忽ち返礼を受けた、この手に持った杖の鋭い一撃で、その男は車から転げ落ち、大地に仰向けに倒れてしまい、私は怒りにまかせて、他の者どもも、みんな打ち殺してしまった。

福田恆存訳、ソポクレス『オイディプス王・アンティゴネ』(新潮社、1984年9月)p64

三角形構図で描かれた劇的な絵画。画面左下に胸を抑えて倒れているのは馭者で、車に乗り、身体をのけぞって倒れかけている男がライオス王だと思われる。ライオスが落とした「二つに分れている棒」、ライオスの右腕、その下にいる家来の三辺でも三角形が作られている。
杖を振りかぶるオイディプスは虎の毛皮を被っている。ライオンと同様に「野蛮」「死」の象徴か? ちなみに虎は古代ペルシアのヒュカルニア地方でも見られたという。


・オイディプス王とスフィンクス

ギリシャ時代の赤絵壺 前470年頃

女の顔、獅子の身体、鳥の羽を持ったスフィンクスが、オイディプスになぞなぞを出している場面。
イオニア式の柱の上に座るスフィンクスは、意外と小さく描かれている。
オイディプス王は四角い何かに腰掛けている。
先ほどのヨーゼフ・ブランクの絵と比較するとオイディプスが理性的に描かれている。
このオイディプスがしているポーズを実際しようとすると難しい。


フランソワ=グザヴィエ・ファーブル《オイディプスとスフィンクス》1806-08年頃、Dahesh Museum(ニューヨーク)

お互い真剣なまなざしで見つめ合うが、スフィンクスは小さいし、オイディプスのポーズは謎やし、引きのショットで画面も明るいからどこか滑稽。

けれど、整った秩序のある画面と古典的な肉体美が光る一枚。オイディプスを典型的なギリシャの英雄として描き、三本の指を伸ばして劇的に身振りをさせ、美しく演出された新古典派の風景の中に置いている。まさにオイディプスが謎を解く場面を通して、理性の勝利を謳った絵画と言える。

最近の研究で、スフィンクスの後ろの小さな領域が黒く塗りつぶされていることが判明した。そこには、もともと人間の頭蓋骨とその下の骨格の一部があったそうだ。[1]

ファーブルは、新古典派の画家ジャック=ルイ・ダヴィッドの弟子である。

同じダヴィッドの弟子であるジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルも「オイディプスとスフィンクス」の題材を扱っている。

[1] ダヘッシュミュージアムオブアートの公式サイトhttps://www.daheshmuseum.org
最終閲覧日2024年2月26


ドミニク・アングル《スフィンクスの謎を解くオイディプス》1808年、ルーブル美術館

先ほどのファーブルとは違い、真横から当てられた光によって平面化した身体は平面的で浮き彫りのような印象を受ける。アングルのこの独特な平面化は当時の新古典派とは一線を画す、ロマン主義的な革命性が見られる。

ソポクレス『オイディプス王』には出てこない右下のおじさんは、フランス古典主義の巨匠ニコラ・プッサン(当時のアカデミアでよくお手本とされていた画家)の絵画から着想を得たらしい。

謎を解かれてしまったスフィンクスはあわてふためき、表情には戸惑いが見える。対するオイディプスは理想的なプロポーションの男性裸体像として描かれ、古代彫刻のように堂々と自信にあふれている。スフィンクスは画面端の陰の部分に、オイディプスは中心の明るい部分に置かれ、謎とみにくさに対する理性と美の勝利を描いたともいえよう。

鈴木登紀子編『世界美術全集 西洋編19・新古典主義と革命期美術 19』(小学館、1993年9月)

この絵画でもファーブル《オイディプスとスフィンクス》と同様、『オイディプス王』の題材を利用して、理性の勝利を謳っている。両者の体格の差からもあらわれている。


ギュスターヴ・モロー《オイディプスとスフィンクス》1864年、メトロポリタン美術館

モローがアングルのオイディプス像を意識していたことは、準備習作で《スフィンクスの謎を解くオイディプス》同様に二本の槍を持たせていたことからも明らかである。[1]

しかし、アングルと決定的に異なるのは、「一方の側の圧倒的勝利ではなく、男の英知と女の獣性、敵対し合いながら惹かれ合う男女」[2]とも解釈できるように描いている点だろう。挑発的で魔性の女(ファム・ファタル)を象徴させるスフィンクスに対し、身体をのけぞらすオイディプスは「無力な青年」として描かれている。理性の勝利を謳った新古典派の絵画とは反対に、世紀末における非理性的なものの勝利を示しているとも言える。

モローを含めた象徴主義の画家は、『オイディプス王』などの歴史画(物語画)を題材に、神秘的で謎めいたファム・ファタルを多く描いた。以下の絵画もその例である。

[1] 千足伸行編『世界美術全集 西洋編24・世紀末と象徴主義 24』(小学館、1996年1月)

[2] 千足伸行編『世界美術全集 西洋編24・世紀末と象徴主義 24』(小学館、1996年1月)


・その他

マックス・エルンスト《オイディプス王》1922年、個人蔵

煉瓦の壁にあいた四角い穴から胡桃を持った巨大な手を突き出している。鉄の矢や鋭い鋼鉄の器具がその手や胡桃を貫いている。松田和子は、その不穏な情景を去勢不安抜きには語れないとし、《オイディプス王》をエディプス・コンプレックスとの関連で論じている。[1]

右手前にいる鳥はエルンストがよく用いるモチーフである怪鳥ロプロプだろう。幼少期のとき、飼っていたインコが死んだと同時に妹が生まれたことに大きなショックを受けた。エルンストは妹が鳥の精気を吸収してこの世に生まれたと思ったらしい。それ以前に母のおなかが膨らんでいたことに疑問をもたなかったのかと突っ込みたくなるが、少年だったからこその発想だろう。その出来事以降、この鳥のモチーフを絵画に用いているが、ここでは「死」の象徴としても見られるのではないだろうか。

[1] 松田和子『シュルレアリスムと手』(水声社、2006年12月)p240


安部公房「エディプス」(『別冊世紀群 世紀画集1』、一九五〇年)所収
安部公房「エディプス」(『別冊世紀群 世紀画集1』、一九五〇年)所収

一九五〇年一二月に『別冊世紀群 世紀画集1』が完成し、そのなかに収録されているのが安部公房「エディプス」(図版8)である。桂川寛は安部の「エディプス」について以下のように証言する。

安部の「エディプス」は、その名の語源どおり「足を大きく腫らした人」が目玉をくり抜いたところを描いて、なかなかユニイクな面白い作品であるが、くり抜かれた眼球を囲む放射状のこまかい線描はみな私が描き写してガリ版を切った。

桂川寛『廃墟の前衛』(一葉社、二〇〇四年一一月)

 画面左上にあるのが「くり抜かれた眼球」(視神経を二本の指でつまんでいるのが見える)であり、木目のように放射状の円が広がる。画面右側には植物が地面に対して垂直に生え、桂川寛が「足を大きく腫らした人」と称した存在も木材っぽい質感と茶色で塗られていることからも植物のように見える。安部公房の小説「デンドロカカリヤ」のように植物への擬態ともとれる。画面左下には、解剖刀が垂直に刺さり、直立の姿勢で仰向けになっている人が描かれている。非常によく似たモチーフが「挿画10」に描かれている(向きは逆に描かれている)。「エディプス」を版画におこす際に協力したことも大きいだろう。「世紀の会」のなかで二人が共有したイメージが再び『壁』で再現されている。まさしく「相互浸透」による産物と言っていいだろう。一つの空間に、テクスト内の異なる時間が配置されているだけではなく、テクスト外の異なる時間も同時に配置されている。書物の外側にある時間まで持ちこんだ「新しい空間」が描かれている。


・参考文献
ソポクレス(福田恆存訳)『オイディプス王・アンティゴネ』(新潮社、1984年9月)
鈴木登紀子編『世界美術全集 西洋編19・新古典主義と革命期美術 19』(小学館、1993年9月)
千足伸行編『世界美術全集 西洋編24・世紀末と象徴主義 24』(小学館、1996年1月)
松田和子『シュルレアリスムと手』(水声社、2006年12月)
桂川寛『廃墟の前衛』(一葉社、二〇〇四年一一月)
鳥羽耕史『運動体・安部公房』(一葉社、二〇〇七年五月)
『勅使河原宏展 限りなき越境の軌跡』(埼玉県立近代美術館・財団法人草月会発行、二〇〇七年)
池田龍雄『夢・現・記:―画家の時代への証言』(現代企画室、一九九〇年五月)
岡田温司『聖書と神話の象徴図鑑』(ナツメ社、2011年11月)
ジェイムズ・ホール『西洋美術解読辞典』(河出書房、1988年5月)

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