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手を引っ張るのではなく、背中を押すような教育

父はエリートで、ストイックで、それでいて先進的な価値観を持った人だった。
柔軟に時代に適応できる人だった。

けど、そんな父が私や兄に施した教育は、決して良いものとは言えなかった。
自分で決めて始めたことは、極めるまでやり抜きなさい、という方針のもと、習い事の練習を毎日強制された。
最初はやってみたいとわくわくしていたピアノやバレエも、すぐに苦痛になった。

おまけに、そんなに身につかなかった。

母は、学歴のないパート主婦で、好奇心に任せていろいろなことに手を出しては、失敗したり飽きたりしてやめてしまう人だった。

そんな母を、子供のころは少し馬鹿にしていた。

なんでも器用にこなせた私にとって、不器用で要領の悪い母は、正直尊敬できなかった。

手芸やお菓子作りなど、一緒に新しいことに挑戦しては、自分よりも下手な母を見下していた。
うまくできる自分が心地よく、飽きるまで熱心に取り組んだ。


有能な父と、無能な母の、対照的な子供への接し方。
おとなになって思った。
教育者って、案外無能な方がいいんじゃないか。
その方が子供は自信をもって、のびのびと成長できる。

それもそうなのだけれど、教育者は無能がいい、というのは、本質ではない感じがする。
父が無能なふりをしておけば、より良い教育ができた、なんてことはないだろう。

父と母の、もっと根本的な違いは何だったか。

父は私たちを前へ進ませるために、強く手を引っ張った。
そして母は、私たちが前へ進めるように、背中を押したのだ。

マラソンのラストスパートでしんどい時、手を引っ張られるのと背中を押されるの、どちらがより力になるだろう。

背中を押される方ではないか。

手を引っ張られたら、転んでしまうことさえあるかもしれない。
背を押されれば、支えにもなるだろう。

教育というのは生徒の主体性が肝心だ。
どんなに教師が努力しようと、生徒が何もしなければ結果は出ない。
誰かの成長を支える時、前へ前へと引っ張るのではなく、後ろから後押しするような支援を。

そんなおとなに、なれたらいい。

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