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太字の実験と練習を流し読まれたい【雑記】

メモ帳にたまった書きたいフレーズを眺めては、「これって1000字2000字も書けるかなぁ」と思っている。

なんてったって、その時は凄い熱量だったのに今となっては140字に収まりそうなほど熱量がない。といってもまあ、これは文章を書く時の脳の使い方に切り替えるための無駄なエンジンの段落で、メモ帳に書いている以上は書く気がある。
本筋と全く関係ないことを書いて消すたびに、書く理由がそもそも喋ったことを聞いてほしいだけだから勿体ないと思ってしまう。
今度書こうかな、自分の日記のエンジン部分と思考部分と記憶描写部分をカラーマーカーで振り分けて解説する雑記。

ここまでダラダラと書き続けたから、むしろこのテーマで書くことにしよう。
「太字の実験と練習」だ。

僕はもともと太字が多用されている読みやすくわかりやすい記事が好きだ。noteに来てから2か月ちょっとで、やっぱり太字があるとわかりやすいなぁと思っていた。
もともとは使っていたのだ。
思考して「ここだけは読んで」という部分を作って流し読みでも感想が言えるほどに、要約しやすい状態で文章を書くほうが実際よく読まれる。
中学3年生で初めてネットに長い文章を書いていた。そのゲームの考察攻略ブログではそうしていた。

ということで、この記事は流し読みのために太字を使っていく。

なんで使ってこなかったかって、シンプルに面倒くさいからだ。
あと太字で流し読みする層に対応するほど、自分の思考だけの文に期待してないからだ。
そもそもこんな面倒な素人の文章を読み漁る人間って、太字じゃなくても辿り着くべきフレーズに自分でアンダーラインを引いている。と思う。本当に刺さる時は自分自身で心に留めるだろうし、こっちが「これが要約ですよ~」っていうのも思考に関しては違うと思って。

誰だったかクイズタレントが「教科書は全部大事なことが書いてあるから、むしろ蛍光マーカーは使わない」と語っているのを見たことがある。いけ好かないけど、それで自分が納得しているならカッコよさはある。そもそも発言としてはカッコつけだろう。文章もそれくらい無骨なほうがカッコよさがあると思っていて、僕も結局カッコつけかも。
発言元はロザン宇治原だったような気がするけど、違った場合ロザン宇治原が悲しむから適当なこと書くのはやめておこう。でもロザン宇治原はわざわざこんな文章読まないか。あとロザンの芸人としてのネタみたことない。相方誰?

どうしてこんなにダラダラ書いているかって、意図的に読まなくていい部分を作れる状態にハシャいでいるからだ。

喋り放題も喋り放題、正しくは書き放題だ。
かなりダラダラ前書きというかエンジンを書いている段階でピッタリかも~!と思っていたが、流石にタイピングし放題で面白すぎる。
実は今寝起きで、これだけに集中している。こちら側だけ圧倒的な熱量で語れるの、サンドバッグを目の前にしたボクサーと同じだ。

オタクは得てしてそういうところがあって、自分の熱量だけで大きく語るから社会問題になっている。いやコトを大きくしすぎた。主語がデカいと嫌われる。主語デカ。しゅごキャラみたいな。これも凄い無駄を書いている自覚がある。
社会問題っていうか、普通にオタクがなぜ嫌われるかで言えば圧倒的にコミュニケーションに思いやりが足りないからだ。ほかにも色々理由はあるが。
というかもうオタク趣味と一括りにできる状態にないほどサブカルが活発だし、「そういうコミュニケーションのヤバい人」のレッテルが貼られる蔑称が「オタク」になっていてもおかしくない。
僕は文章のオタクなのかもしれない。
2022年M1の敗者復活戦、令和ロマンのドラえもんのネタ面白かったなあ。ドラえもんが一方的に使う秘密道具のすごいところを語り出して、「あぁ、ごめん僕ばっかり盛り上がっちゃったね」と急に気づいたくるま扮するドラえもんが反省しだす。それをツッコミのケムリが「かなしっwこういうことあるよな……w皆さんもあるんじゃないですか?w自分ばっかり熱量あって周りにひかれちゃうことw」みたいなツッコミをする。それがやたら新しくて、急にこちら側に共感を投げかけてくるものだから面白さに震えた。今年決勝に行ってくれてよかった。youtubeチャンネルも面白いし。

じゃなくて。
書いている最中はここを太字にしようとか太字にしながら書き進めようとかしていないから、あまりにも適当に書いてしまった。
だいたいからして、「太字と流し読みの実験記事」とだけ下書きに留めてあるのは後の自分に期待しすぎじゃないか。これはどうやって着地するんだ。

これだけただお喋りを一方的にした記事で、2000字は余裕そうなのが面白い。音声入力で一度だけ実験的な雑記を書いたけど、やっぱりこっちのほうが直感的に多く物事が語りたくなるし多く書いてしまう。シナプスが活性化、みたいなやつだろうか。タイピングという意味のある手の動きがちょっとした刺激になるのかもしれない。

今のこの文章も、どの部分を太字にしているんだろうか。少し後の自分どころか、直後の自分にすら丸投げしている。
無責任で雑なところが文章にもにじみ出ていて、それをあとからできるだけ修正しようという心意気だけでずっと生きている気がする。
全く意味のない文章は、気を抜くと自己啓発や自己治療的になるから不思議だ。取り繕っているわけでもないのに、これじゃダメだと思ってしまう。

そろそろ文章を終わらせたいな。

要所を太字にすることで要約はしやすくなるし、人に読んでもらううえで最低限度の清潔感みたいなものが保たれる。誰かに真剣に説法や広告的お得情報として語りかけるなら、太字が要る。

ただお喋りな僕が拾って真に共感されたいのは、太字にしていない無駄の部分だ。タイトルこそ流し読まれたいと書いたけど。
太字にしない選択はこだわりでもあり、ただのワガママでもある。ほぼカッコつけだし。
これからそのこだわりが消えていくかもしれないけど、今のところは太字を使わないままでもいいと思っている。

これも味というか。苦いけど苦しくはないよと、君は酸っぱいけど悪くはないよと、そう言いたいわけですよ!僕はね、僕は、他人の文章を楽しむ時に、僕はどうしても”味”という言葉を使ってしまうわけですよ。心の声と、あなたの憎しみと、裏切りを、味と呼びたいわけですよ!!!
味と!平和!味と!平和!味と!平和!悲しみで花が咲くものか!!!

新しい日々の僕達は 高鳴る予感がしてるのさ
君と僕が 夢を叫ぶ 世界はそれを待っているんだぜ



これを全部読ませるのは確かに酷か。
平成の曲のパロディを組み合わせて、ついて来れる人だけついて来いじゃ読める人減っちゃうよね。あのね、RADWIMPSの君と羊と青の歌詞と、サンボマスターの世界はそれを愛と呼ぶんだぜのセリフ部分をもじったものです。連想のボタンがあれば手当たり次第連打してしまった。ごめん。

ということで、本当に要約してでも伝えたいことがある時は太字の使用やコラム的なですます調、独り言は太字を使わない・だである調。
そうやって使いわけも今後してみるか、と考えている。

なんて書いて、この記事は見るからに独り言なんだけど。
太字にする部分の選択も久しぶりで難しかった。
正直もうあんまりしたくない。

こなまるでした。


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