2018.7.27

月没帯月蝕

 かすかに聞こえる合成音声の中、ぶううううん……と雑音がスピーカーから聞こえる。
 これが宇宙背景放射の電波なのだろうか。分野外の僕は、想像することしかできない。
 そろそろ時間は午前4時を迎える。
「そっちは順調?」
 モニターの前に置かれたマイクに向かって尋ねる。しばらく間が開いて、
『はーい、間もなく作業終了しますー』
 間抜けた合成音声が聞こえる。
 作業完了予定まであと1分。まもなく、彼らがいるところにも地球の影が差し込むことだろう。日陰に入ってしまうと、作業に使うエネルギーがあっという間になくなってしまう。作業中断になると、僕の仕事も中断することになる。
『終了しましたー』
 1分とタイムラグの分、ほんの少しだけ早くモニターに作業完了のメッセージが出て、ほんの少しだけ遅れて音声が届く。
「おつかれ。そっちはもう、影の中か?」
 僕は窓のない部屋で、月食を想う。いまごろ、満月は地球の影に隠れたころだろうか。
『はーい。まもなく、影の中に入ります。2号機がすでに影の中ですね』
 別のモニターに表示していた2号機の状態を見ると、確かにそのようだ。
 今日未明、満月は地球の影に入る月蝕となる。ここ日本では皆既月食だが、ちょうど皆既を迎えたころに月没となってしまう。月没帯月蝕とも言う。
 月面探査車の彼らのいる所も、間もなく影の中だ。
『セーブモードに入ってもいいですかぁ?』
「いいよ。君たちがセーブモードに入ったのを見届けたら、僕は仕事終わりにするから」
 しばらくの間。
『はぁい。7時間47分、お疲れさまでした』
 僕は時計を見た。実際は彼らと通信するための準備やらで、あと1時間くらい多く仕事をしている。
「ありがとう」
 そう応える。ふと、好奇心が湧いた。
「なあ、今、どんな感じ?」
 AI相手に「どんな感じ」なんて聞くのはおかしい。設計した自分でもそう思う。でも、ただの探査車に自律型AIを搭載した時点で相当、おかしいはずだ。
 どんな返事が来るのだろう。僕の声が月面の彼らに届くまで、約2秒かかる。
 少しの、間。
『暗くなりました。ちょっと寒いですー』
 彼らに暑い寒いの体感はない。きっと機器の温度低下を測定しただけだ。それを「寒い」と表現したのだから、我ながら人間臭い仕組みを作ることが出来たのだと機嫌がよくなる。
「羨ましいな。僕も月に行きたかった」
 約4秒。
『先生も、こっちに来ればいいじゃないですか』
「僕はいけないんだ」
 約4秒。
『何故ですか?』
「宇宙飛行士になるには、厳しいテストや条件がある。残念ながら僕は肢体不自由のせいで、その条件にあてはまらないんだよ」
 こんなこと機械に言ったって、慰めてくれるわけもないのに。僕は車いすのフレームに触れる。
 約5秒。
『肢体不自由……僕たちにはわからない感覚ですね。先生は、いつか壊れてしまうのでしょうか』
「壊れる……人間だから、いつかは死ぬよ」
 約5秒。
『ふうん。僕たちは身体のどこかが壊れたら、そのパーツを交換するか、オーバーホールすればいいんだもの。人間の肉体はそうはいかないんですね』
「うん。不便だろうね」
 オーバーホールは、彼らにとっては死ではないのだろう。
 きっちり4秒後。
『では、先生が死んでしまったら、僕たちの管理はどうなるんですか?』
「今までと変わらないよ。管制官が何人もいるし、君たちの親は僕以外にもいるから」
 僕が主幹とは言え、エンジニアはたくさん関わっている。僕が死んだところで、彼らにはなんの影響もないのは、事実だ。
 約4秒。
『人間も肉体という入れ物の中に入ったひとつのシステムなんですね。誰か一人が死んでも、集合したシステムは変わらない』
 珍しいな。僕は、うん、とだけ答える。
 約4秒後。
『それを社会と呼んでいるのでしょう』
「……そうかもね」
 彼らがこんな反応をさせたのは、初めてだった。近頃不具合が起きると言っていたのは、これと関係があるのだろうか。
 モニターの中で、交信していた1号機がセーブモードに入ったことが分かる。
「1号機」
 僕は呼び掛けてみる。
 約4秒。
『なんでしょうか、先生』
「僕、窓のない部屋にいるから月の様子がわからないんだ。せっかくだから、月面からみる月蝕を中継してくれないか」
 約5秒。
『画像を送りましょうか?』
「ああ、それより、言葉で中継してほしいんだ」
 約4秒。
『いいですよー。今、僕は地球の影の中に入りました』
「うん。空の様子は?」
 約28秒。長く感じる。カメラを動かしているのだろう。
『太陽と地球が一直線にならんでいますー。先生も、あのどこかにいるんですね』
「うん。僕のところは、間もなく日の出だ」
 約8秒。
『なんだか眩しいですー』
 カメラのシンチレーションを感じているのだろうか。
 僕の言葉を待たず、約5秒後。
『宇宙ってすごいですねー。僕らは小さな素粒子の産物でしかない、そんな感じがしますー』
 僕は返す言葉が見当たらなかった。
 言葉を探している間に、彼らからの言葉がやってくる。想像した以上に詩的じゃないか。
 彼らは、僕が思ったよりもずっと人間臭く感じられた。

『僕たちも宇宙のチリのひとつです。なんだか、眩暈がします』

『なんで僕たちは小さな惑星の、また小さな衛星の上にいるのでしょうか』

『先生みたいな知的生命体は、他の惑星にも存在するのでしょうか』

『なぜ宇宙はこのような姿なのでしょうか』

『138憶光年先には、何があるのでしょうか』

『宇宙に果てと終末はあるのでしょうか』

『僕たちは宇宙のエントロピーの一端でしかないのでしょうか』

『暗いです。地球の日蝕も、こんな感じなのでしょうか』

『それは不気味に見えたのではないでしょうか』

『先生、この宇宙の法則は、誰が作っているのでしょうか』

『この気持ちは、どこからやってくるのでしょうか』

 僕は目を閉じて、行ったことのない月面を想像する。近くには何年も昔にみた姿の、探査車たちがいる。少し離れたところに、建設中の月面基地が見える。
 そこから、視線を宙へと向ける。宇宙空間。そこに、太陽を隠すように地球が見える。

「ねえ」
 僕はマイクに呼びかける。
 たっぷり10秒。
『はい、先生』
「そこに、神様はいる?」
 約2秒後、一瞬のノイズが部屋の中に響き渡る。
 スピーカーからの振動に、僕の肌も振動する。
「……一号機?」
 ぶうううん……、と低い音雑音だけが聞こえる。

 地球の影に入ったまま、満月は西の地平線の向こうに沈んでいく。

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