見出し画像

これが愛だとでもいうのだろうか

いつかの自分が変化を感じるための備忘録、兼日記。
日々の出来事とか考えたこととかを書いている。

↑この2行はコピペではなく、毎回書いている。
半ば自分に言い聞かせるためでもある。

今日は健康診断の後、お仕事の日。
朝が早かったため、とっても眠たい。疲れた。採血怖かった。


最近、この備忘録を読み返すことがおおい。
「この日はこんな感じだったんだな」とか、これは偽ってるなとか、こんなことあったんだな〜とか思いながら読んでる。
あとめちゃくちゃ誤字脱字が多い日がある。直そうかと思いつつも、すぐ忘れるので結局やってない。
とりあえずMacの変換のせいにして、Google日本語入力を入れてやろうかなと思う。他責。

読み返すようになったのは、本来の目的を達成するため。
そろそろうつ病と診断されて一年が経ち、気がつけば復職して5ヶ月が経ったから。
なんかの本で読んだ「承認欲求は、結局自分自身にいちばん認めてもらいたい気持ち」みたいな言葉がずっと引っかかってて、なんだか僕自身を認めるというか生きていることを肯定してあげようかなぁと思ったから。


そしたら今日、帰りの電車の中で読んでいた本に「愛」の話が出てきた。
読んでいるのは、おとといくらいから読み始めたこの本。

コピーライターさんが言葉やコミュニケーションの話をする中で「愛」を持ち出したのは、

本書を手に取ったみなさんは、既に「愛に触れている」ことをお伝えしたかったのです。自分のことを伝えたい、わかって欲しい、の先には前述の「他者とわかり合いたい」という愛の感情が必ず入っています。真に愛のない人は、他者とわかり合いたいなどとは思わないものです。

『つながるための言葉〜「伝わらない」は当たり前〜』第3章より

と、いうことらしい。
言葉を使う上で、「相手に伝えたい、理解して欲しい」という気持ちは、愛なのだと僕は理解した。

ということは、僕の「自分自身を認める」ために言葉を残す(備忘録を毎日記す)ということは、僕から僕へのコミュニケーションであって、この著者さんのお話だとこれが「愛」になる……。
ううん、この備忘録を過去の僕からの愛として受け取るべきなのか。


いや、この違和感は僕のひねくれた性質から来てるんだろうな。
やっぱ「愛」とかいうものがよくわからん。自分自身含め身近な人ほど、「愛」の伝え方も受け取り方もわからない。
家族、特に祖父母にはたくさん愛してもらったと思うんだけどなぁ。


教職課程を出て、学芸員として解説の仕事をしてきたからか、たぶん人よりも「コミュニケーション」とか「伝える/伝わる」「理解を促す」「傾聴」とかに向き合ってきた時間は多かったと思うんだ。
教師であっても学芸員としての解説であっても、やっぱり「伝えたい」という気持ちは根本的にある。これは「愛」なんだろうか。
僕から誰かへの愛、というよりかは、自分が社会の歯車のひとつであるという自覚なんじゃないかなぁ。
僕だけにモーターがついている歯車じゃなくて、誰かの力を借りて僕も回ってて、その力が誰かの歯車を回していて、その力がまだ誰かを……みたいな。


とか。
なんかモヤモヤ〜〜と解決もしなさそうなことを考えていた。
相変わらず思考がとっ散らかっている。

ひとまず僕は自分が残してきた備忘録を見て、「ああ生きてんだな」と思ったし、
他人との付き合い方に関しては、31歳になってもよくわかってないんだな、と思った。どういうスタンスで関わっていくかも不確定!


ここ3日くらい、本から受けた影響の話してるな。
出勤しても本読んでる時間(これも業務の一貫)が多いからだろうなぁ。
業務中に読書ができるなんて、いい職場だなぁ。
(今日も転職サイトからの連絡はくるけれど)


明日は、お仕事の日。明日も。
健康診断、検査項目はまだそんなに多くないけど、やっぱり疲れる。
今日は早めに寝て、明日に備えよう。朝早く起きれたら、ちょっと絵をかくか、やりたかったデザインを作成してみよう。

サポートしていただいたものは、毎月のAdobeCCのお金にあてさせていただきます。頑張ってデザイン・イラスト制作するよ!