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ひゃくにちめ

休職してから100日目の備忘録(ほぼ日記)
いつかの自分が読み返して、変化を感じてくれたらな〜と思って始めたものの、読み返すことなんでほんと稀。

今日は今日のことじゃなくて、この100日間のことを書くって今決めた。
そしたら約12000字に及ぶ超大作になった。マジかよ。



うつ病

僕は博物館で学芸員として仕事をしている。
去年の12月ぐらいから職場や通勤電車の中で過呼吸を起こしたり、集中力の低下、休みの日に何もできなかったり、特に5月下旬からの不眠と食欲の無さに悩まされていた。
一番困っていたのは、職場の人とコミュニケーションができなくなったことだった。
朝のあいさつもしんどい、朝礼で10人ほどの集まりがあると顔をあげていられない。
雑談も続かず、お昼ごはんは休憩室が混む時間を避けてなるべく独りで食べるか、外に出てしまう。
仕事で必要なミーティングでさえしんどくて、頭が働かないので言葉がしどろもどろになるし、ミーティング後はどっと疲れて動けなくなってしまう。

なーんかやばいなぁ、と思っていた6月上旬。
その日曜日、担当のイベントが終わった後に上司に呼び出された。
体調悪いのは自覚していたし、周囲も気にしているんだろうなーって思ってたんだけど。まだ頑張れるんじゃないか?って思ってて。
上司に言われたのが、夏の担当イベントの主担当を外れる、ということ。
体調不良、周囲が心配している、渉外先に迷惑をかける、という理由から。
これ以上担当を任せられない、という意味で僕は言葉を受け取った。ごもっともだと思う。僕に「嫌だ」という資格はなくて、気の許せる上司だからこそ散々嫌味を言い返してしまった。(上司ごめん)
他にもいろいろ言われたことはあったけど、あんまり覚えていない。
思えば、そこから自分の「やばさ」に自覚して、病院に行くまでは「他人に迷惑かけないように」とひたすら気を張っていた感じ。

そして6月24日、予約していた心療内科へ診察を受けにいった。
先生にかかる前に、心理テストやいろんな検査をして、看護師さんによる予診があった。
心理テストの項目を読んでいるうちにしんどくなり、予診の時にはすでに泣いていた。
頑張ったのになぁ、なんでだろうなぁ!という気持ち。
診察室に入り先生と簡単にお話をして、心理テストの結果を聞いて、先生から「うつ病です」と言われた。
まじか。と。
なんか適応障害とかそういうことかなって自分で思ってたんだけど、これは「うつ病」らしいと。
特に睡眠が取れないことや食欲がないことは危険らしく、入院しますか?とまで言われた。入院はしなかった。
診断書には今すぐに休職を、という旨が書かれていた。

そっか、うつかーーと思いながら、すぐ上司に連絡。
心療内科にかかることは事前に知らせていたので、上司もすぐに対応してくれた。
診断書を持って職場へ。
「明日からすぐに休職しよう」と、上司。もう何も言い返せねえ。


仕事の引き継ぎ

6月上旬、上司に呼び出された日から、仕事の引き継ぎをしてきた。
終わらせられる仕事は終わらせてしまい、担当を外れた仕事は引き継ぎをし、主任業務は副主任に年間の流れと一緒に引き継ぎをした。
幸いなことに5ヵ年計画を昨年作っており、また詳細な年間計画もあったので、それを元に適宜柔軟に対応すれば大きな問題はないだろうと思えた。

もともと繁忙期以外は残業をほとんどしなかった。繁忙期だってどんなに忙しくても20〜30時間しか残業していない。
(世の社畜・ブラック企業に勤める人たちからしたら、弊社はどえらいホワイトだと思う。会社の話はここではしないけど)
(民間指定管理で博物館運営をしているので、僕は民間企業のサラリーマンです)
意識的に残業減らして、たまに半休もらったりして、とにかく自己管理できる状態に戻ろうと努力もした。

もちろん完璧にできたわけじゃないけど、まあ後は職場の人たちがフォローしてくれるだろうなって思って。
もともと「僕がいなくなっても、誰も困らない仕事をしたい」と思っていたし。

そして手元の仕事が減っていく中で、自分が望んだ状態に近づきつつある中で、
「別に僕がここにいる必要ないんじゃね?」と思ってしまった。
そのまま診察へ、そして休職となった。


周りの人に伝える

まずは家族。
ちょっと前提を置いておくと、僕は母親と弟が身近な家族としている。
父(母の再婚相手)は17歳の時に自死しており、心療内科の診察券を持っていた。
2学年下の弟は7年くらい前から家を出て一人暮らしをしており、5年くらい前から地元を離れて転勤を繰り返している。
母は去年の9月に脳出血で入院・手術をし、軽い後遺症を持っている。
母は長いこと専業主婦なので、僕の収入=世帯収入となる。弟が仕送りしてくれるけど。
そんな感じ。

6月上旬に上司に呼び出された日、一人で残った職場から母に電話をした。
対面で話すと喧嘩になるなって分かっていたので。
 最近こういうことがあって、体調が悪かったんだー
 職場でもうまくできなくてね、みんなに迷惑かけてしまったんだ
 今日上司に呼び出されてこういうことがあってね
 だから今度、心療内科にかかろうと思うんだ
 もしかしたら仕事休むことになるかもしれない、ごめんね
 あと、今日は帰ったら部屋に引きこもるから、そのつもりでお願いね
という感じで。
母もなんとなく、母親として優しく接してくれた。

そして診断書をもらい、休職することになった日。
母には「適応障害」「不安障害」と、ふんわり濁して話をした。
というのも母は感情的になりやすい人で、感情的になると人の話を聞いてくれなくなり、母の話に終始してしまうことが多々ある。
そうなると結局辛くて塞ぎ込んでしまうのは僕で、ただ負担にしかならないと判断した。ゆっくり打ち明けていけばいいや、くらいに。
父の自死のことも、すこし僕の頭の中にあった。
休職については、「1ヶ月くらいでしょ、命に関わることだから気にしなくていい」とのこと。
(最初の診断書は1ヶ月休職だった。その後、伸びたけどね!)

弟には、うつと診断されたことをきちんと伝えた。
僕に何かあった時に、彼ならきちんと対処してくれるだろうと信頼しているからである。
母の脳出血の時も、遠方にいながらフォローしてくれた。
弟が家を出た理由の一つに、母親があって。
うちの母親、僕は「マイルドな毒親」と表現している。あとは想像してほしい。
「うつの原因だろう母親と一緒にいるのは大変かもだけど〜」と、弟。
いや、原因の一つかもしれないけれど、今のところは仕事なんだよ〜〜とお返事。
そう、たぶんうつの原因は仕事で、根本的な原因は僕自身なんだ。

その後、弟は僕宛にノートパソコンを送ってくれた。
今使っているMacBook。なんとM1チップ搭載の新しいやつ!
「仕事関係で購入したけど昔のやつで十分だし、Adobe使う姉貴の方が使いこなせるだろ」
と、イケメンな発言をした。イケメンだった。
このノートパソコンが、後々僕の100日を大きく助けてくれたと思っている。

友達。
長らく地元に住んでいるので、子供をもった友人や、地元の友人が職場に遊びに来てくれたり、飲みに誘ったりしてくれる。(コロナ禍だったので、だいぶ頻度は減ったけれど)。
自分から連絡することはせず、連絡が来たら返事する、という感じだった。
付き合いが長い友人ばかりなので、そこはおおらかに受け止めてくれたと思う。
友人と接している時間は、僕自身も穏やかに過ごせている。

職場の関係者。
休職の予感はしてたんだけど、おもったよりも即日休職ということになり、方々への連絡が不十分なままだった。
とはいえ担当引き継ぎしていたし、副主任と情報共有していたし、社外への連絡は上司にも報告をしていたし、先方が僕個人に連絡をしていなければ、ほぼ独りで抱え込むような状態にはしていなかった。
また弊社には日報があり、毎日の業務や進捗状況を上司に報告していたので、それも助けになったのかなと思う。
社用PCを持って帰ることはしなかったので、休職中の社用メールは確認できない。何件か個人携帯の連絡先を教えていたところはあるものの、休職中はほとんど連絡が来なかった。
ということで、僕が直接「休職中である」と自分でお伝えしたケースは2件くらい。
他は、おそらく会社の方で上司や同僚が対応してくれているんだろうなと思う。

できなくなったこと

「うつになったからできなくなった」というよりは、「できなくなったことの結果、うつと診断された」という感じ。

まずは手帳へのライフログ。
僕は17歳から手帳やジャーナリングノートを使っていて、ここ数年はライフログを残していた。
24時間バーチカルの手帳に、何時から何時まで睡眠していたとか、どんな本を読んでいたとか、ネットフリックス見たり散歩に出たりとか…けっこう細かく記録していた。
その日のタスク管理とかも手帳で行い、手帳に向き合う時間が生活の一部として当たり前だった。

しかし2020年12月の中旬、ちょうど30歳になったころから、手帳への書き込みがぱたっと止まった。
これまでに3日くらい記入をサボることはあったし、仕事の繁忙期には2週間くらいまともに書けないこともあった。でも、必ず再開していた。
それが2月になっても3月になっても再開する様子がなく、最初の頃の「書かなきゃ」「なんかおかしいな」という感覚もなくなり、「もう無理」になった。
長年の習慣だったことがパッタリと止まってしまったことが、なんか怖いなと思いつつも、仕方ないや(なにが?)という気持ち。

そして休日の過ごし方。
多趣味ではあるものの、インドア派でアクティブではないので、基本家で過ごすことが多い。
コロナ禍以前は博物館や美術館に行くこともあったけど、まぁ世間が落ち着くまでは県外に出れないだろうなと思っていた。
散歩は好きで、音楽を聴きながら3時間くらい歩ける。途中で本屋さん寄ったり、文具屋や雑貨を見たりするのも好き。あとコーヒーを飲みに行くとかも。
自分の部屋で本を読んだり、ネトフリで映画やアニメを見たり…というのが基本的な休日の過ごし方だった。

それもパタっとできなくなった。
まず、休日の午前中はほとんどベッドの上から動けない。
やる気が出ない。けれど眠れないので、イライラする。
気分転換に散歩行こう、と思えるのがお昼頃。それでも30分歩けば疲れるので、すぐに帰ってしまう。

集中力の無さ。
もともと併読するタイプなのだけど、本をじっくり読んでいることができない。
特に仕事の性質上、読書が仕事に関連することも多く、途中で苦しくなって読むのをやめてしまう。
好きな本がほとんど読めない、読むことにとても苦労するというのがしんどかった。
映画も中断しながら見る、または挫折することが増えた。
集中して楽しめない、何も感じない…となってくると、自然と手が動かなくなる。本や映画を選ぶことができなくなり、ベッドの上で横になるしかできない。

一番苦労していたのが、食事と睡眠。
もともと食が細く、執着が少なかった。体型も学生時代からずっと痩せ型で、夏場は夏バテで痩せ、冬に太って…年間平均42〜3kg。身長は157cm±1。
ところがこの冬はなかなか太らず、例年44kgくらいまで太るのに、42kgより増えなかった。
仕事の日は特に食欲がなく朝ごはんやお昼ご飯を食べないので、必然的に夕飯のみの1日1食となった。
気がつくと6月上旬には40kgとなり、診断書の出た日は38kgとなった。
急激な体重減ではないため、気づくのが遅くなった。
休職してもしばらく食欲は出ず、8月くらいまでは40kgあるかないかをフラフラ。
9月くらいから1日3食きちんと食べられるようになり、10月現在は42kgまで増えた。

睡眠。
もともとロングスリーパー気味だった。7時間は眠らないと、夕方ごろから疲れてくる感じ。
これも12月ごろから途中覚醒が増えて、5月ごろからは夜眠れない日々が増えた。うとうとしても、すぐにハッと目が覚める。呼吸が浅くなるような、心臓がドクン!とはねるような感覚で目が覚める。
睡眠時間が短くなれば、必然的に日中の効率が悪くなるわけで。
仕事柄、不定休で週末は遅番(午後出勤)もあり、生活リズムは崩れやすかった。それは自分がそういう職場を選んだので、仕方ないこと。
なので結構自覚して、生活リズムをコントロールしようと思って生きていた。
ただいつからか、それよりも今日活動することに精一杯だった気がする。

コミュニケーション
もともと人見知りとか無く、割といろんな人と話したり行動をすることが得意な性格だった。
まとめ役をすることも多かったし、会議とかでも発言するし冗談も言えるタイプだった。
それが春頃から徐々に、職場の人を中心にコミュニケーションができなくなった。
単純に挨拶ができない、目を見て話すことが怖い。
5人以上集まると動機が激しくなり、呼吸が浅くなる。はやく終わらせたい。
雑談もできず、同僚のもちかけた話にまともに返事ができなくなり
「わたし、なにかした?」と相手を不安にさせたこともある。たぶん、自覚している以上に周りを不快にさせていたと思う。


今思うといちばん怖いのは、気づかないことだった。
食欲や睡眠の変化、コミュニケーションの不全。日常的にしていたことができなくなったことに、ものすごく鈍感だった。
いつか回復するだろう、年末年始〜年度末〜GWまでの約半年は毎年忙しいし、今はそういう時期なんだ…と自分で勝手に納得していた。
体の不調があっても「体力が衰えたんだな」とか「年齢かな」と思っていた。実際、そうなのかもしれんけど!

でもそれが心身からの緊急事態宣言とは気づかず、まだできると思い込んでいた。
自分が自分の状態を理解できないことが、異常だった。

休職し、自分が何かしら心身異常であることを前提に生活をし始めると、徐々にまたできるようになったこと、まだできないこと、やり方を変えたこと…が出てきたと思う。


この100日間にしたこと

きちんと備忘録を読み返して書きたい項目だったんだけど、なんかまだ怖くてできなかった。
記憶の中にある分で記していこうと思う。うろ覚えだけど。

おちつけ
休職した直後、6月下旬はまだ混乱半分だったと思う。
現状が理解できない、自分は仕事行かずに何をしているんだろう…という感じ。
調子のいい時は本を読んだりもしたけど、やっぱり集中力が続かないのでひたすら横になっていた。
意外と救いになったのがネットフリックスで、だらだらとアニメを流し見していた。特に深く考えず、画面が動いていくのを見ている感じ。
今思うと虚しい時間だなって思うけど、目に見える変化が近くにあるのはありがたいことだった。

備忘録とノートパソコン
7月からは、備忘録と称したnoteを書き始めた。
少し落ち着き始めた頃…というか、何かしなくてはいけないと焦っていた頃かもしれない。
ずっと中断していたライフログやジャーナリングを再開する気にもなれず、でも自分の中のセルフトークを自分自身の中に閉じ込めておくと、どんどん気持ちが重くなっていってしまう気がして。

noteを書くにあたり弟が送ってくれたPCがとても役にたった。
べつにiPadにキーボード繋げてもよかったんだけど、やっぱりこっちの方が慣れている。MacとWindowsの違いはあるけれど。

備忘録はおかげで、7月1日から続いている。
最初は毎日だったんだけど、自分の負担を増やさないようにしようと思って、1記事に1週間分、毎日書き足して行った。
ちょうど13週連続投稿したとき、もう少し日々の記録を丁寧に書きたいな(だらだら書くの楽しいな)と思うようになり、9月下旬から毎日投稿するようにしている。

またもともとAdobeのソフト(IllustratorとかPhotoshopとか)を使っていたので、それが家でも安定してできることが、行動の目標に繋がった。
これまで制作してきた仕事でのデザイン、仕事以外で制作してきたイラストなんかも、そろそろまとめてポートフォリオにしたかった。
いまの会社に入って5年間、いろいろやってきたのにまとめられなかったから。
これは地道に、自分のポートフォリオとして成果が出てきている。

またこの備忘録のサムネイルも、毎日投稿にしてから自作していくようにしている。いつかネタが、アイデアがなくなるんじゃないかと思いながら…!
でもIllustrator、Photoshopの練習になっているので良かった。


Netflix
ネトフリで映画や海外ドラマを見る時間が増えた。
基本的には午前中、もしくは寝る直前。おすすめしてもらった映画を見たり、マイリストの中に登録しっぱなしだったものを見たり。
見たものを簡単に記録することもできるようになった。

学芸員という仕事をしているからか、魅力的な表現方法を見ると仕事に反映させたくなる。こういう言い回しをすると理解してもらいやすいとか、こういう図にすればイメージしやすいかな?とか。
映画や海外ドラマから、そのヒントをもらったような気がした。

この100日間のネトフリで印象的なのは、キアヌの映画を見たこと。
「マトリックス」「レプリカズ」「コンスタンティン」と見た。過去には「ジョン・ウィック」も見てた。まだ見てないキアヌ映画もある。
なんかキアヌ、格好いいなーと素直に思った。なかなか笑顔のシーンはないけど、ネットで見るオフショットの笑顔は好きだ。
いちばん好きな俳優は、ベネディクト・カンバーバッチだけど!



休職してからも、本を安定して読めるまでは時間がかかった気がする。
そもそも知識に囲まれることが好きで、本を読むことも学芸員として仕事をすることも、僕の中では似たことだった。
家の中には仕事に関する本がたくさんあって、読んでいると仕事のことをダイレクトに思い出してしまってしんどい。
映画を見ているときよりも、仕事のことを思い出したり自分が情けなくなる感じがして、とても辛い。
仕事以外の本を読んでも、やっぱり連想させてしまう。言語学の本や哲学の本も読むんだけど、なんか連想しちゃうんだよな。学術を扱うって点で、かな。
そんな感じで、なかなか好きな読書を安心しながら集中して行うことができなかった。

きっかけになったのが、たぶん「生まれてこない方がよかったのか?」という本。

反出生主義をテーマにした哲学の本で、ショーペンハウアーやシオラン、仏教についても触れられていた。
この本、なぜか一気に読めてしまい、これがきっかけで「次の本も読もう!」と思えるようになった気がする。
備忘録に読んだ本の記録を残そう、と思ったのも、この本を読了したという達成感が影響している気がする。
この後、なんだかんだ毎日本を読んでいる。


友人との通話
これがいちばん、安らぐ時間だったかもしれない。
高校時代からの友人。すでに子どもがいて、僕とはライフステージが変わってしまった。それでも時々連絡をしていて、僕が子どもを預かってみたり、一緒に遊んだり、友人と長々と電話して憂さ晴らしをしたりしていた。
休職中にも時々そういった場面があり、それがとても心地よい時間だった。
コロナ禍でなければ、カフェでお茶しながら…というシーンもあったかもしれない。

もう一つ、Twitter経由の友人。
「話をしてみたい」と声をかけてくれたフォロワさんがいて、2週間おきくらいに長電話をしていた。
直接対面で会ったことはないけど、同級生でお互いの仕事のことや経験してきたこと、映画の話や本の話、とんでもなくくだらないことで何十分も話したりしていた。
学生時代の、だらだらとしたあの時間を思い出した。

友人たちとの通話を通して、人と触れる時間について考えた。
仕事中は超不特定多数の人と接して、過去には100人を目の前に解説をしたことだってあったのに。
休職してからは、人と会うこと・話すことがほとんどなくなった。
そのせいか、8月から参加した心療内科のデイケアで苦労した。

通院とデイケア
8月まではほとんど1週間おきに通院していた。少し調子が良くなり、8月からは2週間おきに通院している。ほとんど。
毎月心理テストがあり、8月まではとても低迷状態だった。
毎日服用する抗不安剤、睡眠薬も調整しながらだった。心身ともに調子よかったり悪かったりを繰り返していた。
9月のテスト、突然調子がよくなった。先生からも「神経症と健康な人との境目ぐらいな結果になっている」とのこと。

8月中旬くらいから、病院のデイケアにちょこちょこ参加していた。
復職に向けて人前に出る練習、復職した際に再発しないように練習するため。
その成果?がテストに出たのかもしれない。
最初は10人以上の人前に出ることが久しぶりすぎて、すごく緊張した。その日はすごい疲れたし、看護師さんの前で泣いてしまった。
具体的な復職プログラムは難しいので、体を動かすプログラムから参加し始めた。
ヨガとか、ストレッチとか。
そこで体を動かすことが気持ちよくて、家でもするようになった。
朝起きたら20分のストレッチ、日中に肩甲骨動かすストレッチ、寝る前に体を伸ばすヨガ、そして瞑想…なんて感じで。

その後はワクチン接種の関係で診察を伸ばしているけれど、10月中に一度職場へ行くことができればいいな、と思っている。
通院とデイケア参加は、社会と僕を切り離さない手段だったと思う。


絵を描くこと

学生時代から絵を描き続けてきた。大学卒業後、本格的に作品を制作することはなかった。今も。
時々イラストを気まぐれに描くぐらい。それでも、休職してからはじっくりと一枚を描くことができるようになった気がする。
背景を描いてみようとか、色塗りを勉強してみよう…とか。
Youtubeで絵師の添削動画を見てみたり、とか。(らしくない!)


Youtube
これ、休職中もっとも時間を割いていることな気がする。
春先ぐらいから水族館のチャンネルでアザラシの動画をみることにハマり、それがさらに沼った感じで毎日見ている。
あとは推しのゲーム実況者の動画は毎日見ているし、ストレッチやヨガの誘導もYoutubeに頼っている。
お笑い芸人の漫才やネタも公式が配信してくれるようになったので、助かっている。チーモンは更新してくれ!!
本を読んでいる時もBGMにYoutubeを使うし、虚無時間(何もしたくない・できないとき)にはYoutubeをだらだら見ていた。

前の備忘録にも描いたけど、過去にもメンタルが凹んだことがあった。
その時、どうしようもないくらいくだらない(失礼)ゲーム実況の動画に救われたことがあって。
「だらだら時間を消費するコンテンツ」と理解はしているけど、「何もできなくなる一歩手前で引き止めてくれるコンテンツ」でもある。


転職のこと

実は休職の直前、5月ごろから転職活動をぼちぼち始めていた。
民間指定管理期間が3月末で一区切りし、業務を分担したりと少し落ち着いたタイミングだった。
気になっていた博物館が求人を出してあり、それが転職エージェント経由でしか応募できなかったことがきっかけだった。

希望していた1社をダメ元で応募してみればいいや、という気持ちだったのだけど、エージェントさんとお話をしていくうちに、転職も一つの道なんじゃないか?と思った。
そのまま、なんとなく続けていた。

5月末締め切りの、デザイン会社の求人があった。
広告代理店的な業務だけでなく、まちづくりのプロデューズなどを実績にするデザイン会社だった。
とても興味があり、これもダメ元で履歴書を出したい…と思っていた。
けれどやっぱり仕事が繁忙期でコロナ禍の影響もあり、なかなか履歴書の準備ができなかった。
ついに締め切りの日を何もせずに過ごしてしまい、6月。とても後悔した。
ダメ元とはいえ、自分から行動することを諦めてしまった…と。

休職に向けて業務引き継ぎをしていた時も、そのことが頭の中にあった。
今の仕事は大好きだし、可能な限り続けていきたい。でも今、僕が・この職場が、お互いにお互いを必要としているか?という疑いが僕の中にあった。
自分勝手なこと言ってるのはわかってるんだけどね。

休職してからも、なんとなく続けている。
何件か書類選考すら通らなかったところもあるし、面接までいったものもある。
今も、最終選考の結果待ち状態。


職場の理解があったからの100日間

この一言に限る、と思う。
正直、転職活動はとても後ろめたい。

学生時代から博物館学芸員に憧れて、経済的に難しい中で大学進学を選び、資格を手にした。
卒業後はすぐに正職員として採用してもらえず、学芸員補助として非正規で2年間1従事した。
6年前に今の博物館、民間指定管理の会社に入社できて、入社後から一生懸命頑張ってきたつもり。
憧れ補正では補いきれないこと、苦しいこともたくさんあった。
でも来館者と宇宙の話をしている時はやっぱり楽しかったし、嬉しかった。
大きな結果は出せなかったと思っているけど、自分の企画が実現できたときは本当に嬉しかった。
主任業務を与えられた時も、新人研修の一部を任された時も、社会人としての自覚を得られた。
いまでも、早くあの場所に戻りたいと思う。

休職中は、通院日に上司と連絡をとっている。
管理部の人とも書類の話をすることもある。
一度休職直後に、寄せ書きみたいなものを送ってもらったことがあった。その時はまだ自分の感情をコントロールできずに直視できなかった。今も、まだちょっと無理かもしれない。
上司も管理部の人も同僚も、気にかけてくれているんだ、とだんだん実感してるつもり。

そもそも、僕が即日休職できたこと、心療内科で診断書をもらうようにしてくれたのも、会社や上司の理解があったからだ。
「精神疾患なんて」と言わず、まともにコミュニケーション取れない状態の僕の言葉を受け止め、管理者としてきちんと休職に対応してくれた。
(当然と言えばそうなんだけど、その当然が守られていない会社もあるとおもうと、本当に今の会社で良かったと思っている)

きっと僕が知らない間に、会社や上司・同僚にも大きな迷惑をかけていると思う。
特に夏季長期休暇の直前〜最中の、年間でもっとも忙しい時期に休職してしまった。申し訳ないと思う。
(僕がいくらここで綴っても、本人に伝わらなければ意味がない)

この100日間、家族や友人、そして職場の人たちの理解によって大きく支えたれたんだなと、今ここまで書いて思った。
もちろん僕もいっぱい努力したけど、周りの人たちの理解がなければここまで回復することも、これからのことを見通すこともできない状況だったんじゃないかな。


原因はなんだったんだろう

「うつ」と診断された時、原因は間違いなく仕事だ、と思っていた。
5年間今の会社で頑張って、3年前からは兼任の業務も行っていた。残業こそほとんどしてこなかったんだけど、キャパオーバーだったと思う。単純に。
忙しくって余裕がない。だんだん自分の本質を見失っていく。誰に助けを求めていいのか分からない。そんな状況が、長く続きすぎたんだと。

100日休職した今、仕事だけが全ての原因ではない、とはっきり言える。
そもそも僕自身の「受け取り方」が根本だったんだ。

自分を責めるとしんどくなるので、あまり明確化しないようにしているんだけど。
もともとの長女気質と完璧主義とが、マイナスの相乗効果を発揮してしまったんだと思う。
(長子すべてが同じ気質とは思わないけど、イメージはしやすい?)
自責もすごい得意だった、これは小さい頃から。
余裕がなくなると塞ぎ込んでしまうところも、いざという時に他人に頼れないことも、どこか本音をさらけ出したくないところも。
仕事に限らず、家庭でもそう。

自己流で原因を断定して対策するには、まだ時期が早い
と主治医や心理士に言われているので、これ以上は名言しない。
(なんか新しい思い込みを作っちゃうかもしれないんだって)


これからの100日間

そろそろ、この後のイメージをつくって、それに向かって努力していく自分になりたいと思う。
博物館も好きだし、働くことが好きだから。
(休職中、やることがないのも嫌なのでアルバイトをしたい、と本気で考えていた。傷病手当もらえなくなるのでやめた)

デザインのスキルアップ。
学芸員としてのスキルアップよりも、今はデザインや動画制作のスキルアップをしていきたい気持ちが強い。
アイデアを出す練習、それを具体化する練習をしたい。

そして転職活動。
今、最終審査の結果を待っている会社がある。
そこで採用となれば、地元と学芸員の仕事から離れることになる。
でも、挑戦したいと思う。
ただ正直、めちゃくちゃ自信がない。
もしダメだった…考えたくないけど、もう少し転職活動を続けてみようかなと。
大きな移動や新しい環境に、年齢的に対応できるのはそろそろ期限が来る気がしている。(人生100年、ライフシフト時代に弱気な!!)

復職、業務引き継ぎの準備を
転職活動を続けるということは、少なからず今の仕事を離れる心算があるということだ。
休職直前に引き継ぎをしてきたものの、自分がやってきた5年分の仕事全部ではない。まだ十分でなかったところもあるし、きちんと伝えておきたい人たちもいる。
週5日のフルタイムの出勤は難しいかもしれないけれど、少しずつ出勤して、その準備をしていきたい。
(机も片付けたいし!!一番汚い机だとおもう)
もしかしたら、また学芸員の仕事に熱が出てくるかもしれないし…
そうだったとしても現状キャパオーバーなので、やっぱり業務量ややり方を見直さなきゃいけないと思う。
学芸員をやっている自分も、やっぱり大好きだから。欲張り。


まとめ(まとまらない)

まさかここまで長くなるとは思わなかった。
約12000字のnote、誰が最後まで読むだろう。分割して書けば良かった。いつかの僕、反省として思い出してね。

記念すべき?100日めは、特になにもせず。
午前中に図書館行って本返して借りて、終日かけてこの記事作成して。
午後はちょっとゲームして、夕方は推しの動画見て。
シャワー浴びて夕飯作って食べて…という感じ。
この記事アップした後、ツイキャスをする。それくらいかな。

100日を振り返ったところで、今後の行動が伴わないと、僕はまた似たような100日を過ごすことになるかもしれない。
まだ薬に頼るし、時々強い不安や過呼吸が思い出したようにやってくるけど、
6月25日よりかは確実に良い方向へ進んでいるはず。
そしたら100日後は、もう少しなにか変化があるはず。たぶん、おそらく。

元に戻らないものもあると思うけど、のんびりやっていこうぜ。
明日もぼちぼちやるよ。



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