私にヨガの先生はできません!【第二十八話】七夕の夜に
「笹永さん。笹永さーん」
一ノ瀬さんの声に、はっと飛び起きる。
「え? あれ? 私……。眠ってました、よね?」
カウンターテーブルの上に伏せていたスマホをひっくり返し、慌てて時間を確認する。
九時五分。
閉店時間を過ぎている! あたりを見渡すと、他にお客さんは誰もいない。
「はい。ぐっすりと」
一ノ瀬さんが笑っている。
「ほんっとうにすみません!!!」
「いいんですよ。お疲れなのかなと思って、あえて起こさないでいたんです」
はらりと肩からなにかが落ちて、フローラルの香りがふわりと舞った。それは、ブランケットだった。お客さんの足元が冷えないようにと、このカフェにはいくつか置いてあって、自由に使っていいことになっている。
きっと、一ノ瀬さんがかけてくれたんだろう。
「あ、これ。ありがとうございます」
「気休めですが、風邪をひいては大変ですからね」
そう口にすると、一ノ瀬さんは何かを考え込むようにして黙ってしまった。
「あの、どうしました?」
私が質問すると、彼は顎に指先を当てて小さく唸る。
伝えようかどうか迷うようなそぶり。
「変なことを聞くようですけど……。笹永さんって小さいとき、お母さまから、はーちゃんって呼ばれていましたか?」
「はい! 笹永いと葉なので、最後の文字をとってはーちゃんって。でもなぜ……」
そこまで言いかけて、私はさっきまで見ていた夢の内容を思い出した。
もしかして……。
「笹永さん、ひょっとして昔『流星の里公園』の近くにお住まいでした?」
その質問を聞いたとたん、目の前にいる一ノ瀬さんと、夢の中のお兄ちゃんの姿がぴったりと重なった。
「そうです! あ! じゃあ、あのときおんぶしてくれたお兄ちゃんは、一ノ瀬さんだったんですね?!」
私は叫ぶように言った
「どうやら、そのようですね。先程、寝言で「逆上がり」という言葉をおっしゃっていたので、ひょっとしたらと思ったんです。これまでも、たまに面影が重なることはあったのですが、なにせかなり前のことですから、人違いかなと」
「寝言?! やだ、恥ずかしい。忘れてください!」
「その一言だけですよ」
「そ、そうですか? でも、びっくり。それに、嬉しいです」
私の実家や『流星の里公園』があるのは、こじんまりとしたのどかな街だ。
ここから車で一時間くらい。辺鄙な場所というわけじゃないけど、高校卒業や就職のタイミングで、このあたりの都市部に出てくる人は多い。私も、カレンもそのタイプだ。だとしても、おんなじビルで働いているだなんて、凄い偶然だと思う。
「僕も、まさかまたお会いできるとは……。ずいぶんと大きくなられましたね」
一ノ瀬さんが目を細める。
「そんな、親戚の人みたいなこと、言わないでくださいよ」
私は笑う。
「ははっ。たしかに今のはそう聞こえますね」
「それにしても……。私、あのときはかなり負けず嫌いというか……。諦めの悪い子でしたね。絶対に、逆上がりができるようになってやるって思ってましたもん」
私が言うと、一ノ瀬さんは目を丸くさせた。
「あのときは……ですか?」
彼は相変わらず、きょとんとしている。
「え?」
「ははっ。笹永さんは面白いですね」
一ノ瀬さんが笑い出す。
「ええ?! 今のどこに笑う要素がありました?」
「いやいや、失礼しました」
そう口にするものの、一ノ瀬さんの頬はまだ緩んでいる。
「もう!」
「すみません。違うんです。……笹永さんはいつだって一生懸命ですよ」
そう言った彼の目がやけに優しくて、私は妙に気恥しくなる。
「自分ではあんまりわかりません」
「わかりますよ。僕には」
柔らかな笑みを浮かべたまま、一ノ瀬さんは言った。
ふと、記憶の中の寂しそうな表情をする彼を思い出す。私が母に引っ張っていかれる様子を見ていたときの、あの顔が忘れられない。
「あの……。一ノ瀬さん。言いたくなかったらいいんですけど」
「はい。なんでしょう?」
「一ノ瀬さんは、どうしてあのとき公園によくいらっしゃったんですか?」「あー」
彼の表情が一瞬、曇る。
「あ! ごめんなさい、変なこと聞いて」
「いいんですよ。……お恥ずかしい話なんですけど、昔の僕は、家に母の恋人がいるときに、ああやって公園に逃げてたんです。相手の男性は、機嫌が悪いと、すぐに当たってくる人でしたから。当時はまだ小学校六年生で、対処方法がわからなかったんです」
一ノ瀬さんは淡々と言った。
「そう、だったんですね。すみません、私、踏み込んでしまって」
「もう、過去のことです。それに、僕が中学生になる頃には、母はその人とは別れて、べつの男性と付き合っていました。正しい選択だと思います。まあ、そしたら今度は、母が男の家に入り浸りになってしまったんですけどね」
やれやれ、というように一ノ瀬さんは首を振る。
「そんな……」
「でも、悪いことばかりじゃなかったですよ」
一ノ瀬さんは、私の沈んでいく心境を察したかのように、声のトーンを明るくした。
「いいことも?」
「はい。中学生になってからは、お金だけはもらってましたから、近くの喫茶店によく行っていたんです」
「喫茶店、ですか? それって、『流星の里公園』の近くのですか?」
あのあたりには、いくつか昔ながらの喫茶店があった気がする。
「あ、僕、中学に上がるタイミングに、こっちの方に引っ越してきていたので……。ここから一駅先のところです。その喫茶店を運営している老夫婦に可愛がってもらっていました。話を聞いてくれたり、こっそりジュースをおまけしてくれたり。僕、実の祖父母には会ったことがなかったので、すごく嬉しかったんです」
一ノ瀬さんは懐かしむように言った。
「へえ! 一駅先の距離なら、一度行ってみたいです」
「残念ながら、もう……。先月、常連さんから、奥さんが亡くなったと聞いて僕も葬儀に参列させてもらいました。八十七歳だったので、天寿を全うしたのだと思うようにしています。悲しいですけどね。旦那さんも、二年ほど前に亡くなっています」
そういえば、珍しく一ノ瀬さんがお休みの日があったことを思い出す。えりかさんにここで相談にのってもらっていたときだ。
あの日に、お葬式に行っていたのかもしれない。
「それは、残念ですね」
「でもですね、彼らの味はまだ残っているんですよ」
一ノ瀬さんは、まるで大きな秘密でも伝えるかのように、静かに言った。
「あ、まさか!」
私はメニュー表の方へと視線をやった。
「正解です。僕がカフェで働きたいと思ったのは、老夫婦のお店がきっかけです。それで、ここをオープンさせる前に、報告に行きました。そうしたら、フードのレシピやコーヒーの淹れ方、食材の仕入れ先を教えてくださったんです。手探り状態でしたから、本当に助かりましたよ」
「じゃあ、さっきのサンドウィッチも、その方々直伝なんですね!」
「その通りです」
「ほんとに美味しかったですよ」
「ええ。僕も昔、何度も食べました。どれも好きなんですけど、とくにサンドウィッチが好みです」
一ノ瀬さんが笑う。
「どこか、優しい味でした」
「そうなんです。当時、イヤなことがあったときも、あの喫茶店であのサンドウィッチを食べるんだ! って思うと、心がいくらか落ち着いていましたから」
「思い出の味でもあるんですね」
「そうですね。そして、僕も、そんな風に誰かを癒せるお店を作りたいって常々思っています」
一ノ瀬さんはそう言って、店内を愛おしそうに見渡した。つられて私も視線をあちこちへと走らせる。
人のいない空間はがらんとしている。
でも、閑散とした感じはない。
木製のイスとテーブルも、アイボリーカラーの壁も、天井でゆっくりと回転しているシーリングファンですら、静かにそこにあって、人を温かく迎え入れる準備をしているよう。
いつでも、おいで。
そう言ってくれているみたいだ。
切なくも温かい一ノ瀬さんの過去。それが、このカフェ・くじら座へと繋がっているんだ。このお店が存在しているわけ。そのもっと裏側に触れたことで、見える世界の解像度が一段と上がったような気がした。
疲れたときにこそ、ここが恋しくなる理由も、やっとわかった。
「一ノ瀬さん。もう、とっくになっていると思います。人を癒せるお店に」
まっすぐに彼の目を見て、私は言った。
「そうだったら、嬉しいです」
そのとき見た一ノ瀬さんの笑顔は、どこかいつもと違っていた。笑っているけど、油断すると泣いてしまいそうな、そんな顔。
私は胸がぎゅっと締め付けられるような気がした。
もうしばらく、ここに居たいけれど、なにせ閉店時間は過ぎている。これ以上、迷惑はかけられない。
「あ、すみません。長居してしまって」
足元の荷物ケースに手を伸ばし、バッグを手繰り寄せながら、私は言った。
「いえいえ、こちらこそ、昔話に付き合わせてしまって申し訳ないです。はじめてです。誰かに過去を話したの」
一ノ瀬さんの言葉に、動きが止まる。
私、今、どうして嬉しいだなんて思ってるんだろう。
「そうだったんですね! お話、聞かせてもらってありがとうございます。……それから、あのときのお兄ちゃんが、一ノ瀬さんでよかった」
「僕もです」
今度は満面の笑みで、彼は言った。
お金を支払い、心安らぐ空間に名残惜しさを感じながらカフェ・くじら座を後にする。
ふと、空を見上げると、紺色の空で星がちかちかと光っていた。ビルがずらりと立ち並ぶここらでは、そこまで美しい夜空は見えない。
でも私には、たくさんの小さな星たちが一生懸命に輝こうとしているように見えた。
「あ、今日って……」
私は人知れず、呟いた。
七夕だ。
一年に一度、彦星と織姫が出会える日。
晴れて、よかった。
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