見出し画像

私にヨガの先生はできません!【第二十八話】七夕の夜に

第二十七話「カフェ・くじら座で見る夢は」はこちら 
第一話「無理です!」はこちら

【第二十八話:七夕の夜に】

笹永ささながさん!」
 一ノ瀬いちのせさんの声に、はっと飛び起きる。
「え? あれ? 私……。けっこうがっつり眠ってました?」
 あたりを見渡すと、他にお客さんは誰もいない。
慌てて時計を確認する。
九時五分。閉店時間を過ぎてしまっているではないか。
「はい。ぐっすりと」
 一ノ瀬さんが笑っている。
「すみません!!!」
「いいんですよ。お疲れなのかなと思って、起こさないでおきました」
 はらりと肩からなにかが落ちて、柔軟剤の香りがふわりと舞った。それは、ブランケットだった。お客さんの足元が冷えないようにと、このカフェにはいくつか置いてあって、自由に使っていいことになっている。
 きっと、一ノ瀬さんがかけてくれたんだろう。
「あ、これ。ありがとうございます」
「気休めですが、風邪をひいては大変ですからね」
 一ノ瀬さんはそう口にすると、何かを考え込むようにして黙ってしまった。
「あの、どうしました?」
 私が質問すると、彼は顎に指先を当てて小さく唸る。
伝えようかどうか迷うようなそぶりだ。
「変なこと言うようですけど……。笹永さんって小さいとき、お母さまから、はーちゃんって呼ばれていましたか?」
「はい! 笹永いと葉なので、最後の文字をとってはーちゃんって。でもなぜ……」
 そこまで言いかけて、私はさっきまで見ていた夢の内容を思い出した。
 もしかして……。
「笹永さん、ひょっとして昔『星々の里公園』の近くにお住まいでした?」
「そうです! じゃあ! もしかして、あのときおんぶしてくれたお兄ちゃんは、一ノ瀬さんだったんですね?!」
 私の声は自然と大きくなる。
「そのようですね。先程、寝言で「逆上がり」という言葉をおっしゃっていたので、ひょっとしたらと思ったんです。これまでも、たまに面影が重なることはあったのですが、なにせかなり前のことですから、人違いかなと」
「寝言?! やだ、恥ずかしい。忘れてください!」
「その一言だけですよ」
「そ、そうですか? でも、びっくり。それに、嬉しいです」
 私の実家や『星々の里公園』があるのは、こじんまりとしたのどかな街だ。
ここから車で一時間くらい。辺鄙な場所というわけではないけれど、高校卒業や就職のタイミングで、このあたりの都市部に出てくる人は多い。私も、カレンもそのタイプだ。だとしても、おんなじビルで働いているだなんて、凄い確率だと思う。
「僕も、まさかまたお会いできるとは……。ずいぶんと大きくなられましたね」
 一ノ瀬さんが目を細める。
「そんな、親戚の人みたいなこと、言わないでくださいよ」
 私は笑った。
「あはは、たしかに今のはそう聞こえますね」
「それにしても……。私、あのときはかなり負けず嫌いというか……。諦めの悪い子でしたね。絶対に、逆上がりができるようになってやるって思ってましたもん」
 私が言うと、一ノ瀬さんは目を丸くさせた。
「あのときは……ですか?」
 彼は相変わらず、きょとんとしている。
「え?」
「ははっ。笹永さんは面白いですね」
 一ノ瀬さんが笑い出す。
「ええ?! 今のどこに笑う要素がありました?」
「いえいえ、失礼しました」
 一ノ瀬さんはそう口にするものの、まだ頬が緩んでいる。
「もう!」
「すみません。違うんです。……笹永さんはいつだって一生懸命ですよ」
 そう言った彼の目がやけに優しくて、私は妙に気恥しくなる。
「自分ではあんまりわかりません」
「僕にはわかります」
 一ノ瀬さんは柔らかな笑みを浮かべたまま言った。
 私はふと、記憶の中の寂しそうな表情をする彼を思い出した。私が母に引っ張っていかれる様子を見ていたときの、あの顔が忘れられない。
「あの……。一ノ瀬さん。言いたくなかったらいいんですけど」
「はい。なんでしょう?」
「一ノ瀬さんは、どうしてあのとき公園によくいらっしゃったんですか?」
「ああ。僕の家、少し特殊で。家に母の恋人がいるときは、ああやって公園に逃げてたんです。機嫌が悪いと、すぐに当たってくる人でしたから。僕もまだ小学校六年生で、対処方法がわからなかったんです」
 一ノ瀬さんは淡々と言った。
「ごめんなさい。そう、だったんですね」
「もう、過去のことです。それに、僕が中学生になる頃には、母はその人とは別れて、べつの男性と付き合っていました。正しい選択だと思います。まあ、そしたら今度は、母が男の家に入り浸りになってしまったんですけどね」
 一ノ瀬さんはやれやれ、というように首を振る。
「そんな……」
 小学生や中学生のときにそんなことがあっては辛すぎる。
「でも、悪いことばかりじゃなかったですよ」
 一ノ瀬さんは、私の心境を読んだかのように、明るいトーンで言った。
「いいことも?」
「はい。中学生になってからは、お金だけはもらってましたから、近くの喫茶店によく行っていたんです」
「喫茶店、ですか? それって、『星々の里公園』の近くのですか?」
 あのあたりには、いくつか昔ながらの喫茶店があった気がする。
「あ、僕、中学に上がるタイミングに、こっちの方に引っ越してきていたので……。ここから一駅先のところです。その喫茶店を運営している老夫婦に可愛がってもらっていました。話を聞いてくれたり、こっそりジュースをおまけしてくれたり。僕、実の祖父母には会ったことがなかったので、すごく嬉しかったんです」
 一ノ瀬さんは懐かしむように言った。
「へえ! もう今は、閉店してしまったんですか? 一駅先にあるなら、一度行ってみたいです」
「残念ながら、もう……。先月、奥さんが亡くなったとの連絡を受けて、僕も葬儀に参列させてもらいました。八十七歳だったので、天寿を全うしたのだと思うようにしています。悲しいですけどね。旦那さんも、二年ほど前に亡くなっています」
 そういえば、珍しく一ノ瀬さんがお休みの日があったことを思い出す。えりかさんにここで相談にのってもらっていたとき。
 あの日に、お葬式に行っていたのかもしれない。 
「それは、残念ですね」
「でも、彼らの味はまだ残っているんですよ」
一ノ瀬さんが静かに言った。
「あ、まさか!」
 私はメニュー表の方へと視線をやった。
「正解です。僕がカフェを開きたいって思ったのは、老夫婦のお店がきっかけです。それで、ここをオープンさせる前に、報告に行ったんです。そしたら、フードのレシピやコーヒーの淹れ方、食材の仕入れ先を教えてくださったんです。手探り状態でしたから、本当に助かりましたよ」
「じゃあ、さっきのサンドウィッチも、その方々直伝なんですね!」
「その通りです」
「ほんとに美味しかったですよ」
「ええ。僕も昔、何度も食べました。どれも好きなんですけど、とくにサンドウィッチが好みです」
 一ノ瀬さんが笑う。
「どこか、優しい味でした」
「そうなんです。当時、イヤなことがあったときも、あの喫茶店であのサンドウィッチを食べるんだ! って思うと不思議と心が落ち着いていましたから」
「思い出の味でもあるんですね」
「そうですね。そして、僕も、そんな風に誰かを癒せるお店を作りたいって常々思っています」
 一ノ瀬さんはそう言って、店内を愛おしそうに見渡した。つられて私も視線をあちこちへと走らせる。
 人のいない空間はがらんとしている。
 でも、閑散とした感じはない。
 木製のイスとテーブルも、アイボリーカラーの壁も、天井でゆっくりと回転しているシーリングファンですら、静かにそこにあって、人を優しく迎え入れる準備をしているよう。
 いつでも、おいで。
 そう言ってくれているみたいだ。
 一ノ瀬さんの切なくも温かい過去。それが、このカフェ・くじら座へと繋がっているんだ。このお店が存在しているわけ。そのもっと裏側に触れたことで、見える世界の解像度が一段、上がったように感じた。
私は疲れたときにこそ、ここが恋しくなる理由がわかったような気がした。
「一ノ瀬さん。もう、とっくになっていると思います」
 私はまっすぐに彼の目を見て言った。
「そうだったら、嬉しいです」
 そのとき見た一ノ瀬さんの笑顔は、どこかいつもと違っていた。笑っているけど、油断すると泣いてしまいそうな、そんな顔。
 私は胸がぎゅっと締め付けられるような気がした。
 もうしばらく、ここに居たいけれど、なにせ閉店時間は過ぎている。
「あ、すみません。長居してしまって」
 私は手繰り寄せながら言った。
「いえいえ、こちらこそ、昔話に付き合わせてしまって申し訳ないです。はじめてです。人にこのこと話したの」
 一ノ瀬さんの言葉に、動きが止まる。
 私、今、どうして嬉しいだなんて思ってるんだろう。
「そうだったんですね。お話、聞かせてもらってありがとうございます。……それから、過去のお兄ちゃんが、一ノ瀬さんでよかった」
「僕もです」
 今度は満面の笑みで、彼は言った。
 私はお金を支払い、心安らぐ空間に名残惜しさを感じながらカフェ・くじら座を後にする。
 ふと、空を見上げると、紺色の空で星がちかちかと光っていた。ビルがずらりと立ち並ぶここらでは、そこまで美しい夜空は見えない。
 でも私には、たくさんの小さな星たちが懸命に輝こうとしているように見えた。
「あ、今日って……」
 私は人知れず、呟いた。
 七夕だ。
 一年に一度、彦星と織姫が出会える日。
 晴れて、よかった。

第二十九話:「祝日プログラム」へ

この連載小説のまとめページ→「私にヨガの先生はできません!」マガジン

この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?