私にヨガの先生はできません!【第九話】ひとりぼっちのポスティング
どんなに気持ちが下がっていても、ちゃんと仕事はしなくちゃいけない。
あの後、カレンから「ごめん。話がしたい」というようなメッセージが届いていたけど、返信はしていない。
まだうまく会話ができそうにないから……。
昨日、彼に送ったメッセージには、ずっと既読マークすらついていない。
「あ! いと葉。ポスティングの期限、明日までよ」
あと少しで退勤できる、というときに、えりかさんが言った。
「はい。今日中に終わらせます。明日はまた雨が降るみたいですし」
そう答えると、えりかさんは回転式のイスに座ったまま、くるんとこちらを向いて首をかしげた。
「いと葉、なにかあった?」
鋭い、と思った。
カレンのことも、彼のことも、気になることはありまくりだけれど、首を横に振る。
「なんにもないですよ。へんな顔してましたか?」
へらっと笑って見せると、えりかさんは一瞬だけ、形の良い眉をひそめた。
「……ならいいんだけど」
「はい! あ、時間だ。じゃあ、ポスティング行って、そのまま上がりますね」
えりかさんとアルバイトのスタッフ二人にお疲れ様ですと挨拶をして、逃げるようにエレベーターに足を踏み入れる。いつもと同じはずの四角い空間は、やけにキンと冷えているような気がした。
ふう、とため息を吐く。
ショルダーバッグからスマホを取り出してタップする。
カレンから着信が一件。
彼からは、電話どころかメッセージも届かない。
「とりあえず……」
今は、ポスティングだ。私は歩きながら、チラシが詰まった紙袋に視線をやった。
無機質な銀色のポストがずらりと並ぶマンションの一角。そこに立ち、端から順番にチラシを入れていく。ポスト口が揺れるカコン、カコンという音が響き渡る。
いつも一人でしていることだけれど、今はどうしてかひとりぼっちで仕事中なのだということを強く実感してしまう。
もともと、私にとって、ポスティングはあんまり好きじゃない業務だ。
冬は冷たい空気のせいで手の甲が真っ赤になるし、夏は全身から汗が噴き出して、歩いているだけで体力を奪われる。チラシは一枚だと一ミリもなくてぺらぺらだけど、束になるとずしりと重い。だから、紙袋の取っての紐が腕に容赦なく食い込む痛みにも耐えなきゃならない。おまけにチラシを突っ込むたびに、ポスト口に爪の表面をがりがりと削られるときた。せっかくお気に入りのマニキュアを塗っても、ポスティングの翌日には剥げていることも……。
「はあ」
何度目かわからないため息をつきながら、一心不乱にポストにチラシを入れていく。まるで、自分の身を削りながら、得体のしれない生き物にエサやりをしているような気分だ。
とはいえ、ポスティング業務にもメリットもある。
それは、シンプルな作業だから難しくないってこと。他のことをあれこれ思考しながらできるという部分は気に入っている。
でも今は、そのせいで、考えたくもないあれこれを勝手に思い出してしまう。
ふいに、ポケットの中でスマホが震えた。
「カレンかな?」
そろそろ、一通くらいはメッセージを返した方がいいかも。私はマンションのエントランスを出て、道の端に寄りスマホを開いた。
「あ……」
彼からだった。
そこに書かれている「別れたい」という素っ気ない文字を見たとたん、体中から力が抜けていくような気がした。
私の指はすぐさまアプリ上の着信ボタンを押していた。
「どうして、どうして……」
出てくれないの。ついさっきまで、このメッセージを打ち込んでたんでしょ! スマホは手元にあるんでしょ!
心の中で責め立てる。
いくら待っても彼の声は聞こえてこなくって、むなしく呼び出し音が鳴り続けるだけだった。頭に浮かんできたのは、着信を知らせるスマホ画面からだるそうに目を逸らす彼の姿。迷惑そうに顔を顰めながら、ソファへと乱暴にスマホを放り投げてしまう。
ただの被害妄想? ううん、十分にあり得そう。
「……せめて」
電話くらい出てよ。
そうしたら、自分の気持ちを伝えられたのに。
とっくに手遅れかもしれないけど、できることをやりきって断られたのなら、その方が諦めがつく。こんな、一方的にあっけなく終わるなんて……。本当に最悪だ。私がいくらそう思っても、彼から折り返しの電話がかかってくることはない。
「はあ」
とにかくポスティングを終わらせよう。そう思い歩き出すも、足取りがふらつく。高熱のときのように、足が重い。
彼との楽しかった日々が走馬灯のように駆け巡ったかと思うと、すぐにぷつりと消えた。鋭いはさみにちょん切られるかのようにあっけなく。
思えば、一緒に過ごした時間はそんなにないんだ。
どの時点で何をすれば、この結末を回避できたんだろう。歩きながら一人で反省会をするも、あのとき、ああすればよかった、こうすればよかったという思いがとどめなく溢れてきて、余計に辛くなるだけだった。
そして、はたと気づく。
このお別れパターン、今回だけじゃない、と。
勢いに押され、流れで付き合ったりするものの、長く続かないこの感じ。
ああ、もう! 自分がほんっとうにイヤになる。
なにもかも投げ出したい!
チラシの詰まった紙袋が、いつもの何倍も重く感じられた。石でも詰めているのかってくらいに。
「あのう」
放心状態でアパートのポストにチラシを入れているときだった。背後から誰かに呼びかけられて肩を揺らす。
「え? はい?」
返事をしながら振り返ると、そこには四十代くらいの男の人がいた。人の気配があることにすら気付かなかった。
このアパートの住人? え、ここってポスティング禁止の物件じゃないよね? 私は慌てて、壁のあちらこちらに視線を走らせ「チラシお断り」の紙が貼っていないかを確認する。
「そのバイト、どこでできるんですか?」
私が手に持っている紙袋を指差して、その人はぼそぼそとした声で言った。
思わぬ問いかけに、私は一瞬、ぽかんとした。
「バイト……。ポスティングのことですか?」
「ポス……? 今、あなたがされていたチラシをポストに入れる仕事です」
男性の視線が私の持っている紙袋に向けられる。マスクをしていて表情は読めないけれど、純粋にただ知りたいだけのように思えた。
「あー。これ、バイトじゃないんです。うちの会社の広告なんで」
「あっ。そうなんですか。すみません」
私が事実を伝えると、男性は相変わらずの小さな声で謝り、静かにアパートから出て行った。
その背中を見ながら、ポスティングに興味があるんだな、とぼんやり思った。私にとっては、失恋と友人との喧嘩のダブルパンチを食らっているときには、避けたい仕事。
正直、やらなくていいなら、今は本当にしたくない!
そう思ったとき、ふとひらめいた。
「あ、あの!」
私は気づくと、その人の背中を追いかけ、道端で声を掛けていた。
「なにか?」
男性はまさか追いかけてこられると思わなかったのだと思う。一体何事だろうと、首をかしげた。
「もしよかったら、このチラシの分、働きませんか?」
紙袋を軽く持ち上げるようにして、私は尋ねた。
「え?」
「えっと、そうだな、一枚あたり五円でどうですか? ここに残っているのは、六百枚くらいなので三千円お支払いします」
ポスティング業務をするスタッフさんの報酬は、一枚あたり二円から五円くらいだと聞いたことがある。
決して、悪い提案じゃない。
「今、ですか?」
男性があっけにとられる。
「あ、今すぐにしたいわけではなかったですか?」
しまった、と思った。
すぐにポスティングをやってもらいたいというのはこっちの都合で、この人が今仕事を求めているのかどうかまではわからない。
「いえ。できるなら、単発でもありがたいです。以前からちょっと興味があったので、まずは少しだけ試してみたいって思ってました」
「なら、ぜひ。あ、でも、内密にお願いします」
そう言って、私はショルダーバッグから財布を取り出した。
「わかりました。誰にも言いません」
私はうなずき、三千円を渡し、紙袋を差し出す。それから、ポスティングチラシを配布するエリアをしっかり伝えて、男性と別れる。
見知らぬ男性のおかげで重たいチラシの束がなくなって、ちょっぴり解放感。
なのに、心も体もちっとも軽くはならなかった。
駅の改札口を通り、重い足取りでプラットホームを歩いていると、サラリーマンのグループとすれ違った。
「あー、やっべ。今思ったらミスってるわ。明日は説教コースかあ」
一人のそんな嘆きが耳に入る。
ふいに、さっきの男性の姿を思い出す。
「……大丈夫かな」
ちゃんと、伝えた通りのエリアに配布しているかな? そんな不安を押しやるように首を振る。真面目そうな人だったし、問題ないはず。
それに、仮に違うエリアにポスティングしていたとしても、そこに住んでいる人への宣伝にはなるのだ。
気にする必要はない。
それよりも……。
「カレンに返信しなきゃ」
そう思い、スマホを取り出す。
わかってる。
カレンが悪いわけじゃない。彼女の言葉に傷ついたのは本当だけど、よくよく考えてみれば、私が勝手に相談ごとへの対応を期待して、その通りにならなかったから、怒ってその場を飛び出しただけ。
あらためて思い出すと、大人げなくて恥ずかしい。
謝らなきゃ、と思うのに、なんと送っていいのかわからない。「ごめんね。急に飛び出して。私、冷静じゃなかった。もしよかったら、またあらためてご飯でも」そんな文章と絵文字をいくつか打ちこむ。
大体、大人になってからの喧嘩になんて慣れていないから、どうやって仲直りすればいいのかわからない。これでいいんだろうか、と思いながらもメッセージを送信する。
「彼の方は……」
大きくため息を吐く。
今は、何もできなさそうだ。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?