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過去の出来事は語り手の“解釈”によって描写される

昨日は「新解釈三國志」という映画をみた。なんとなんと、映画に出ている俳優さんたちがとても豪華。朝のニュースでも紹介されていた映画なので妻と2人で食い入るようにみていた。

コメディなので世の中で語られている歴史に面白おかしい話を交えたストーリー。でも決して嘘には感じず「本当は映画のと同様だったのかも」と思うことができる。過去の出来事が歴史なのだが、過去を語る時って語り手の「解釈」が入る。そして語り手によって解釈も微妙に違ったりする。今学校の教科書でも歴史が書き換えられたりしてるけど、本当の事実って体験した人でないとわからないし、体験した人でも自分の解釈で再現していることが多いのではないか。

映画の中で諸葛亮が出てくるんだけど、私が知っている諸葛亮は切れもので、三國志のゲームでも強者だ。それが映画では、実は妻が切れ者なだけで諸葛亮本人は全然切れたのではないように描かれてる。妻の采配のおかげで諸葛亮が凄い人物になっているのが面白かった。本当はそうだったのかもしれない。教科書に書かれている歴史も異なる見方をすると面白いかも。

映画を見ていて過去の出来事の描写は語り手の解釈によるということ考えたけど、私たちの生活でも言えること。誰が何を語ったかは、その人自身の解釈も混ざっており真実なんて本当のところは分からないことが多いのではないか。だから私たちは人の話だけを鵜呑みにするのではなく、自分の目で確かめることが真実を認識する上で必要なのだろう。その真実も私自身にとってのものだろうが。

特に自分が何かを判断する、決断する時には聞いた話だけでなく、自分が一次情報を取りに行くことが大切なんだと思う。新解釈三國志を見ていて、事実は見た人によって如何様にも変わるし、色んな解釈が生まれるということを考えられた。

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