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てのひら小説集

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本当に短くて、小説の種のようなお話たちです。どこかで必死に生きている誰かの人生の一瞬を切り取って書いたつもりの掌編小説集です。
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記事一覧

掌編小説「誰かのハッピーエンド」

  ロング缶にそのまま口をつけ、ほんのり甘く炭酸を含んだアルコール飲料を喉から胃に流し込む。はぁああ。体に染みわたるアルコールに力んでいた節々が緩む。噛み締めていた奥歯、こめかみ、首筋、肩、背中、腰。一日張り詰めていた筋肉がゆっくりとほぐれてゆく。もちろん、実際の筋肉はアルコールでほぐれたりはしない。だからそれは私の心が緩んで、結果体に入っていた力が抜けているだけのことだ。お酒を飲まないと力を抜けない。体も心も張ったままになってしまう。じわじわと酔いが染み渡り、少しずつふにゃ

掌編小説「ゴミ屋敷の幽霊女」

 長い坂の下にその家はある。    古い木造家屋で、幽霊が住むゴミ屋敷と呼ばれている。  広い庭には大きな木々が手入れもされずに生い茂っている。その木々の間を縫うように多種多様な雑草が我が物顔にのさばっている。植物に侵略されたようなその庭に、これまた多種多様ながらくたが所狭しと置かれている。  長い髪を腰まで垂らし、真っ白なファンデーションを塗りたくった顔に真っ赤な口紅をつけた、頭のおかしな幽霊みたいなばあさんが一人で住んでいると噂で聞いたけれど、まだ見たことはない。   「

掌編小説 「てのひらの」

 それはほんの偶然だ。  小さな台所のシンクの前に立って、落ち着こうとして、震える手で無意識に掌の中の小さな画面をいじっていた。眺めているだけで読んでなどいなかった。なのに、小さな画面にもう何十年も思い出すことのなかった彼女の名前をみつけた瞬間、時間と空間は一気に遡った。  一緒に自転車で並んで走った海沿いの道。  中学の放課後のざわめきと体にまとわりつくあの頃に特有の空気。  溶けて流れたアイスクリームの甘い匂い。   「誰とつきあいたい?」 「えー悩むけんど、慎吾くん

掌編小説 「ユタのあとがき」

 小説のあとがきは不要派だとユタは言う。 「俺が夢中で読んできたストーリーについて、実はこういう気持ちで書いていたとか、こんなきっかけで書き始めたとか、あれが最後へ繋がる伏線だったとか、そんなこと終わってから言われても、俺がずっと感じて考えてたことと全然違ったらどうなるんだよ。えーそんな意味だったの?とか知りたくないんだよ。百歩譲って作者の近況とか内容に関係ない話だったらいいけど、でもそれはそれで本の雰囲気とか世界観とか浸ってたのに急に現実に戻されるっていうか。作者の魅力と

掌編小説 「満ちる」

 巨大なモンスターを技を駆使して次々と倒してゆく。自分の体より大きい剣を奮う男の筋肉は隆々と盛り上がり、その全身からはオーラが出ている。七色の輝く光。その殺戮に意味なんてない。ただ、気持ちよくなるために、全能感に浸って恍惚とするためだけに、ゲームの中では絶対悪であるモンスターやゾンビを無心になって殺す。新しいのを買えなくて同じゲームを何度も繰り返してるからすっかり強くなって気持ち良くやっつけることができる。気が付けばすっかり日が暮れて昏くなった部屋でテレビの画面だけが明るい光

掌編小説 「揺らぐ」

 部屋にはベッドと小さなテーブル。収納に入るだけの服や靴。僅かな化粧品。一口コンロの小さなキッチンに作り付けの小さな冷蔵庫。洗濯機置き場はなくて近くのコインランドリーに行く。一人暮らしを始めてからずっとここで暮らしている。真生は先月二十七才になった。  朝9時45分に家から徒歩十分の古本屋に出勤する。高齢のオーナーは体調が悪く最近店に来ない。埃臭い店を開け掃除し仕入れた本を並べたら、たまの接客以外は基本的に読書の時間になる。大きな地震でもきたら大変だなと思う天井まで届きそう

掌編小説「愛をおしえて」

   五日前に別れたはずの男に睨み付けられて美優は戸惑う。 「もう男がいるって本当かよ」  聞かれて正直に頷く。別れた次の日に今の彼と付き合い始めた。 「もう、したのかよ」  男の言葉に美優は首を傾げる。 「寝たのかって聞いてんだよ」  美優はびっくりしながら頷く。  つきあい始めたその日のうちに抱き合った。 「やっぱりお前は誰でもいいんだな」  睨み付けている目が少し濡れているように見えた。 「俺を愛してたわけじゃない。試してみて正解だったよ」  男はつぶやくようにそう言う