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24歳、無職の僕を救ってくれた二人の女性からの手紙

24歳のとき、定職に就くことができずに困った。

その頃、二人の女性から手紙をもらった。
その手紙に救われて、いまの自分があると思う。

一人は祖母。

当時、僕は滋賀にある祖母の家に一年間、居候をしていた。大学を卒業する頃になっても就職活動はせず、フリーライターで食べていくと決めていたが、何の実績もない僕に、ライターとしての仕事など簡単に入ってくるはずもない。

周りの友人には体のよい理由をつけて言い逃れをしていたが、居心地のよくない実家から、祖母の家へ逃げ込んだというのが実のところかもしれない。ともかくも、その頃の祖母の家は、僕の防波堤になってくれていた。

そして祖母もまた、孫との初めての暮らしが突然訪れたことを、珠の外、喜んでくれているようだった。

祖母の家で大切に育てている畑にも、いっしょに野菜の世話に行く。それが終わればともにお茶をすすり、「一緒に飲むとおいしいなぁ……」などと言いながら舌鼓を打つ。そんな平穏な日々を重ねていた。

だが、そんな日々は長くは続かない。

僕は出版の本場といわれる東京に出て、自分自身を鍛えてみたくなった。

祖母にそれとなく思いを伝えると、「東京なんて怖いとこ、なんで行かなあかん??」「ここでずっと暮らしてたらええやん」と、まったく気乗りしない様子。でも僕の思いは変わらなかった。

その後、祖母は体調を崩し、しばらく入院することになった。僕は求人募集をしていた東京の編集プロダクションに面接に行き、急遽、翌週からアルバイトをさせてもらえることが決まった。病床の祖母への挨拶もそこそこに僕は上京した。

東京での生活を始めてしばらくしてから、祖母に手紙を送った。元気にしているから心配しないでほしい。早く元気になってほしい。そんな内容だった。

祖母からはなかなか返事が届かなかった。端から期待もしていなかったが、祖母の手にちゃんと渡ったかどうかも疑わしく感じ始めた頃、手紙が届いた。そこにはこんなことが書かれてあった。

「御免ね。手紙頂きながらおそくなって許してね。手紙拝見しておばあさんも一そう元気になりました。おばあさんも生まれて初めての病院生活で大変困りました。元気でいることが何よりの幸福と思いました。

(略)

立派な東京人間になって、社会の荒波を越えてがんばって下さい。自分の身の為、出世してください。おばあさんの念願はそれですよ。先づ体に気を付けて“がまん”、心棒して、人生、前向きに、たのしい希望を持って、がんばって下さい。

もう少し元気が出ないので読みにくいでしょうが、御免ね。お盆には、お互いに、元気な顔でお会いしましょうね。先づお体に気をつけてがんばって下さい。立派な東京人間、社会人になって下されん事を、病室よりお祈りしてお別れしましょうね」

僕はてっきり、東京なんて所からは早く帰ってこい、こっちも寂しくしているから、といったことが書かれてあるはずだと思っていたが、祖母はそんなことは一切言わず、ただ、立派な東京人になれ、と言って僕を励ましてくれた。

だが、そんな祖母の願いとは裏腹に、東京での就職活動は思うようにいかず、やがて編プロでのアルバイトも辞め、再びフリーライターになる決意をした僕は、事実上7か月間、無職の時期が続いてしまう。

こうしていま起きて息をしているだけでも、家賃や光熱費が刻々と奪われていく。食費を少しでも浮かせようと、もやしだけを食べる生活を続けていたが、やがてそのもやしを買うことさえ勿体なく思え、何も動かないことで、お腹をすかさない工夫をしたりしていた。

そんなとき、アパートに来てくれたのが妹だった。

妹は、就職先の研修が1か月間、東京で行われるという理由で上京し、僕のアパートで寝泊まりしていた。けれど、ご馳走をしてやるお金もない僕は、何ひとつ兄らしいこともしてやれないまま、妹は帰郷の日を迎えた。

その翌週、小さな包みがアパートに届いた。妹からだった。中を開いてみると、観葉植物が入ってあり、こんな手紙が添えられてあった。

「この間はお世話になりました。ありがとう!下町ムードがよかったです。うちにあるアイビーを同封しておきました。買ってから1年以上経つけど、いまだに新しい葉っぱが出てくる、タフなヤツです。小さいコップや瓶に水を入れてさして下さい。水と日光だけで生きます。そのたくましさをもらってください」

いつの間にこんなに成長していたんだろう……。誠に情けない限りの兄ではあったが、そんな兄を思う妹の気持ちに、思わず胸を熱くしたことだった。

あれから17年の月日が過ぎた。

祖母は6年前に亡くなり、もうこの世にいない。
妹は嫁ぎ、いまは二児の母親だ。

24歳のとき、僕を救ってくれた二人の女性からの手紙。
17年経ったいまも、僕の心を離れずにいる。