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私たちの心に棲む山姥とは④ 「米福と粟福」女性の心の発達と山姥の関わり

今回の山姥シリーズ④は、米福と粟福という二人の姉妹の物語です。

山口素子著「山姥、山を降りる~現代に棲まう昔話」に取り上げられたこのお話は、女性の心の発達という視点で姉妹の対比が大変興味深く描かれています。少し長くなりますが、ご興味持たれた方は、ぜひお付き合いくださいませ。

あらすじ
米福と粟福という姉妹がおり母親と3人で暮らしていました。母親は米福にとっては継母であり、粟福にとって実母となります。あるとき母は、米福には穴だらけの袋を,粟福には穴の開いていない袋を渡し、栗拾いに行かせました。粟福の袋はすぐに一杯になりましたが、米福の袋は少しもたまりません。みかねた粟福の提案で山のお堂の爺様に袋の穴を繕ってもらいようやく米福の袋もいっぱいになりましたが、そのころにはとっぷりと日が暮れてしまいました。

ふたりは山の中にみつけた婆様(山姥)の家に泊めてもらうことになりました。人食い鬼の息子たちが帰ってきたら、食われてしまうので、食われないように婆様の腰元に入っているよう言われます。ふたりは言う通りにして婆様の腰元でぐっすりと眠りました。寝ているあいだに人食い鬼の息子たちが帰ってきて「人臭い」と言いましたが、婆はうまくごまかします。息子たちは夜明け前に家から出ていきました。

翌朝、婆様は娘たちに頭のシラミを取ってくれと頼みます。婆様の頭にはカナヘビみたいな大きなシラミがうじゃうじゃといます。粟福は恐ろしがって取りませんでしたが、米福はシラミを取ってやり、取ったシラミを火にくべました。婆様はたいそう喜んで米福には小さな宝箱をあげました。粟福には炒り豆をあげました。そして人食い鬼の息子たちに見つからないように早く帰れと家を出しました。

しかし途中で人食い鬼たちに気付かれてしまい、あやうく捕まりそうになりました。粟福はもらった炒り豆を後ろに投げるとそこにこんもりと山ができ人食い鬼たちの行く手を阻みました。また追いつかれそうになり粟福はもう一度炒り豆を投げます。すると今度大きな川となり、それでようやく家まで逃げ切ることができました。

母親は娘たちが拾ってきた栗をゆでて、粟福にはよい栗を食べさせ、米福には虫食いの栗ばかりを食べさせました。粟福は母親が見てない隙によい栗を米福に分けてやりました。
それから母親は、米福に目籠で風呂に水を汲んでおくこと、粟を十石搗いておくよう言いつけて粟福を連れて祭りに出かけていきました。
米福が目籠でいくら水を汲んでも漏れてしまい困っていると旅の和尚が現れて、衣の袖を割いて籠を包んでくれました。そのおかげでなんとか水を汲むことができました。
それからたくさんの粟をどうやって搗こうか途方に暮れていると雀がきて手伝ってくれてなんとか搗くことができました。

そこへ隣の娘がやってきて祭りに誘ってくれたので行くことにしたのですが着ていく着物がありません。米福は山姥からもらった箱を思い出し開けてみたところ綺麗な着物や足袋が入っていたので、それを着て祭りにでかけました。

粟福は米福をみかけて、母に「あそこに姉さんが来ている」と言いましたが、母は「たくさん仕事を与えたから来るはずはない」と言います。米福は粟福に饅頭の袋を投げてやりました。粟福は「饅頭くれたから姉さんに違いない」と言いましたが、母は「米福はあんな綺麗な着物持ってないから人違いだ」と言ってききませんでした。

家に帰ってから、米福を嫁にしたいという男がやってきました。母は米福は汚いし、嫁入道具もないので、かわりに粟福をもらってくれるよう言いましたが、男はどうしても米福がよいと言います。米福は山姥からもらった箱を出すとそこには嫁入道具がちゃんと入っており、米福は嫁入の着物を着て籠に乗り嫁に行きました。

粟福は姉を羨んで、「おらも籠に乗って嫁に行きたい」と言いましたが、誰ももらい手は現れず、母は臼に乗せて田んぼの畔を引っ張っていったところ、臼が転げてふたりとも田んぼに落ちてしまい、そのまま水に沈んでうらつぶという貝になってしまいました。

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このお話は、世界中でみられる継子迫害物語のひとつです。最初の頃にnoteでとりあげたロシアのお話「麗しのワシリーサ」や、誰もが知る「シンデレラ」などもこうした類です。

継子迫害物語では、母性の二面性が表されています。すでに亡くなった実母は肯定的な側面を、継母は否定的な側面を表しています。さらに森の奥や山の中で出会う魔女やババヤーガ、山姥などは、さらに心の深い層にあるグレートマザー元型(太母元型)そのものです。

私たちは人生の最早期、母子一体の感覚で生きています。母は子にとって別のものではなく、自分の一部であり(母にとっても子は自分の一部という感覚が強い)、子の自我はまだ芽生えておらず、母なるものに融合している状態です。この場合の母とは、個人を超えた元型としての母なるものです。

子どもはその元型的母イメージを実際の母に投影していきます。自発的に動き始め、自分の一部と感じていた母がどうやらそうではないことや自分の感じている世界と実際の世界のギャップを感じ始め、葛藤が生じるようになります。それとともに融合的な一体感は薄れ、自我が芽生えてくるのです。この最初の原初的融合的段階をユング派の分析家E・ノイマンは「自己保存の段階」と呼んでいます。

さて、お話に戻ると、実母を亡くし、継母に冷たくされている米福の状態は、原初の母なるものと融合した一体感はすでに失われています。一方で、粟福はいまだ原初の母なるものにどっぷりと浸かり融合した状態です。

粟福は米福に対していじわるどころかとても親切です。粟福にとって母は優しい肯定的な母であり、粟福は否定的な母の側面を知らず、無知で無垢な心の状態といえます。それゆえ母親に対して葛藤を持つこともありません。心理発達的にはさきほど述べた「自己保存の段階」に留まっています。この段階に留まる限り、意識は発達せず、未成熟なままです。一方母性の否定的な側面にさらされている米福は、自身の内にある女性性との肯定的な繋がりを失ってしまいそうな危うい状況です。

母性の否定的な面に晒され続けると、自分のなかの女性性をも否定してしまいかねず、女性である自分自身を受け入れられなくなり、生きづらさを抱えてしまう、カウンセリングの現場ではそうした女性たちに出会うことも少なくありません。

自分の女性性を否定している限り、逆にその力に振り回されてしまいます。
「母が嫌い」「母のようになりたくない」、カウンセリングのなかで、母を否定し続けるうちに、忘れていた母との良きエピソードをふと思い出したり、母が抱えていたであろうしんどさや辛さに思い至り、ひとりの女性としてありのままに眺める視点を持つ場合があります。そうしていくうちに自身の女性性にも向き合えるようになり、新たな意識的な女性性に辿り着く場合があります。まさに怖さと戦いながら心の深層にいるグレートマザーに会いに行き、そこから新たな力を得て戻ってくるプロセスを辿っているように感じます。

昔話では、主人公が必要に迫られて、山奥や森の中の魔女や山姥に出会い、そこでなにごとかを成し遂げて帰還するストーリーが多く見られます。

米福もまさに、そうです。
人食い鬼の息子たちから守ってもらったかわりに、今度は、山姥の頭に湧いた恐ろしいシラミ取りを頼まれ、米福はそれを行います。

山姥の頭のシラミは、無意識の世界に蠢く、原始的で暗い心の側面を表しています。シラミをとるためには、それを直視する勇気と行動力が必要です。 米福は自分の内側にある未知の心の領域に逃げることなく向き合い、それによって未熟なアニムス(女性の心のなかの男性性)を成長させることができたのでした。一方で粟福は恐怖に勝てずこれを行うことができず、現状に踏みとどまったままです。

山姥は、やり遂げた米福には綺麗な着物の入った宝箱を授けます。綺麗な着物は成長した女性の証であり、彼女が纏うのにふさわしいものです。シラミ取りを怖がってできなかった粟福に対しても罰することはなく、炒り豆を授けます。
これは後々、人食い息子たちから逃げるために必要な魔法の贈り物だったのですが、もしも粟福がこの贈り物を潔く手放すことができず、しがみついたままであれば、山姥の否定的な悪の側面に飲み込まれて命を失ってしまったことでしょう。
粟福は、再度山姥に試されていたのです。しかし粟福は、炒り豆を正しく使い、無事に生き延びることができました。

こうして母の元に帰ってきた姉妹ですが、継母はあいかわらず、米福に冷たく、酷い扱いをします。
しかし、米福はどんな困難な仕事を与えられてもやり遂げました。
お話では、旅の僧侶や雀が助けてくれるのですが、僧侶は米福の無意識にある成熟したアニムスを、雀は本能的な知恵を表しています。つまり米福の心は一段と成長し、自身を内側から支える力を身につけ、さまざまな困難を自分の力で乗り越えていけるようになったということです。
そして嫁に欲しいという男性の元へ嫁ぎ、新たな人生のステージを迎えます。ここでの結婚は、心のなかの肯定的アニムスとの結合を意味し、成熟した心の状態に達したことを表していると言えます。

一方で、粟福は姉に優しい良い子ではあったのですが、依然母の世界のなかに留まったままであり、自分の見たもの、感じたものを信じる強さはなく、母の言うなりになっています。そしてそういう自分になんの疑問も感じていません。

「一卵性母娘」という言葉をちょくちょく耳にします。結婚しても母娘の結びつきが強く、夫との関係性よりも母娘の関係性の方が優先してしまう。親離れ子離れできない精神的に未熟な母娘の関係性を指します。まさに粟福と母の関係です。

粟福は米福が嫁いでいくのをただ羨むだけでありました。自分の意志で自分らしい道を見出し生きていこうとするまでの自我の強さは育たないまま、羨望の影の力に飲み込まれて彼女の成長の可能性は水の中に沈んでいったのでした。

守られ過ぎると居心地のよい世界から抜け出すことができず、成長していくことができない。グレートマザーの両面性は、生まれたものを成熟させ、旅立たせるという、自然の摂理そのものであり、私たちの心の成熟のかなめであることを改めて思い知らされます。


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