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私たちの心に棲む山姥とは⑤「蛇婿入り」 女性の心の発達と姥皮の役割

「山姥」シリーズ5回目は、「蛇婿入り」というお話です。今回も「山姥、山を降りる ~現代に棲まう昔話~」(山口素子著)をテキストにしながら女性の心の発達と山姥の関わりを見ていきたいと思います。少し長くなりますが、ご興味持たれた方はぜひお付き合いください。

あらすじ
昔、あるところの長者に3人の娘がいた。ある朝、田んぼの水を見に行くと水が干上がっていて、稲は干し草のようになっていた。長者は困って「この田に水くれた者さ、娘のどれだかひとりを嫁っこにするんだがなあ」と独り言を言った。

次の朝、田んぼに行ってみると、田には水がなみなみと漲っていた。それで長者は、水くれた者に娘をひとりやらねばならねえと思っていると、田んぼの真ん中を大蛇がのろのろ這っていた。「はあ、これだな水くれたのは」と思って、びくびくして家に戻ってきて、飯も食えないほど悩んでしまった。

長女に大蛇の嫁に行くことを話したところ、それだけは勘弁してと逃げていった。次女もいうこと聞いてくれなかった。末娘に頼んだら、「お父様の言うことならなんでも聞きますから、どうかご飯をお上がりください」と引き受けてくれた。父は喜んで飯食って、欲しいものはなんでも買ってやると言うと、娘は「針千本と瓢箪千個、真綿千枚買ってください」と願った。

いよいよ嫁入の日が来て、末娘は買ってもらったものを持って大蛇のいる沼へ行った。娘は瓢箪千個に真綿を詰め、針を刺して、沼に投げ入れた。そして「瓢箪すべて沈めた者の女房になる」と言った。
大蛇が出てきて、瓢箪を沈めようと泳ぎ回っているうちに針が刺さって、大蛇は血だらけになって死んでしまった。

娘は家には戻らず、山を越えて行った。すると山の中から地響きが聞こえ、みたこともない婆様が出てきた。婆様はこう言った。「吾はこの山のガマ(蟇)のぎゃろでござした。あの大蛇のため、陽の目を見たことがありません。孫子なんぼ食われたかしれません。おかげでこれから安心して暮らせます」と礼を言い、そして「おまえ様のようなきれいなあねさま、一人で旅してたら危えねから、これあげます。これは山姥の皮で、これ被れば婆になりますけえ、この皮被っていきなされ」と姥皮をくれた。

娘は姥皮被って旅を続けた。途中で山賊に遭ったが、「汚い婆に用はない」と行ってしまった。そして、ある村に辿り着き、そこの長者の家の掃除女として雇われた。朝から晩までよく働いた。

ある晩、長者の息子が婆の部屋を覗くと、見たこともない綺麗な娘が本を読んでいた。不思議なこともあるものだと思っているうちに、長者の息子は恋の病にかかってしまった。いくら医者に診せても治らなかった。あるとき、医者が「家にいる女みなに、息子のところへ膳を運ばせ、その膳を食ったものを嫁っこにすれば治る」という。

ひとりひとりに膳を持たせて息子のところに行かせたが、息子は誰の膳も食わなかった。あとにはただ婆がひとり残っていた。「婆も一応女だし」と言ってあまりに汚いので湯に入れ、着物を着換えさせた。そしたら綺麗な娘になって、みんな驚いた。お膳を持って行かせたら、息子は起きて膳を食べた。そこで娘は長者の息子の嫁になって安楽にくらしましたとさ。

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登場人物として父親と娘3人が出てきますが母の姿はすでにそこにはありません。水が涸れ、田は干上がっています。心の発達の観点からは、この状況はすでに母娘結合の時代は終わり、次の段階への移行期かと思われます。生命の源である母なるもののエネルギーは枯渇し、危うい感じです。

心の発達の移行段階では、どんなことが内側で起こっているのでしょうか。

思春期の子どもたちが、成長過程で、自分の両親をおぞましいもの、恐ろしいものと感じるときがあります。それは現実の両親そのものではなく、その背後にある元型的イメージ、「母なるもの」、「父なるもの」の投影によるものだと考えることができます。元型的イメージに飲み込まれ、圧倒され、自我が壊されてしまうのではないかという恐れが無意識の中で膨らんでいます。親への反抗が強く現れたり、心が不安定になる思春期の難しさの背景にはこうしたことも関係していると思われます。

さてお話に戻ると、父親は水をくれたものに娘のひとりを嫁がせると思わずつぶやいてしまいます。あろうことか水をもたらしたのは大蛇でした。この大蛇は、個人的な父親を超えたところにある父なるもの、男性性の元型イメージと捉えることができます。
姉ふたりは父の頼みをきっぱりと断りますが、末娘は父親の頼みを受け入れ、元型的イメージと対峙する選択をします。この時点ですでに末娘は個性化の道へと踏み出していると考えられます。

大蛇の出現は、ユング派分析家E,ノイマンの「父権的ウロボロスの侵入」を彷彿とさせます。ウロボロスとは自分の尾を噛む蛇のことで、心理学では、心の発達の原初の段階を表すものとされています。

ノイマンによれば、女性は母娘結合の次の段階として、父権的ウロボロスに侵入され、それに圧倒され、魅了され今までの自己を放棄せざるをえなくなると言います(自己放棄の段階)。自我は一時的にフリーズ状態になりますが、徐々に侵入者を受け入れていきます。その過程のなかで意識は発達し拡大するため、女性の心の発達に不可欠だとノイマンは言っています。

父権的ウロボロスに囚われて自己放棄の段階に留まり続けると女性は自らの身体との関係を失い、自然な女性性の発達を妨げられ、自分自身を生きられなくなり、父なるものに自分を捧げる「永遠なる父の娘」として生きることになります。そうならないためには自己放棄の段階から脱しなければなりません。

竜や魔物に囚われた娘を英雄が救い出し、娘は新しい意識の光をもたらした英雄と結婚するというパターン、あるいは魔物と「死の結婚」をしますが、相手を完全に受け入れた瞬間に魔物にかけられた呪いが解けて麗しい王子の姿に変わり、真の結婚に導かれるというパターンが西洋のお話に多く見られますが、それはまさしく、自己放棄の段階からの脱出を物語っています。

「蛇婿入り」では、上記のようなプロセスを辿っていないのが面白いところです。父の頼みを受け入れたものの、最初から嫁ぐ気はなく、大蛇殺しを意図的に計画し、用意周到に準備を整え、実行に移します。
末娘は父権的ウロボロスに接触はするのですが、圧倒され自己を放棄することもなく、そのため相手と「死の結婚」をしたり、英雄が現れて救い出してくれるという展開にもならず、自らの意志の力と知恵を使って、危機を脱出しているのです。

河合隼雄によれば、父性の強い西洋では男性側からみた女性の価値が尊重されがちだが、日本では父性はそこまで強くなく、父性的価値観からある意味自由であり、女性そのものの価値を大切にしているところがあると言います。日本の物語の多くでは、男性に救われる受身的なヒロインでも、男性と同一化した英雄でもなく、自らの意志で行動するヒロイン(意志する女性)が多く見られるということですが、このお話もまさにそうした「意志する女性」を感じます。

大蛇を殺す針ですが、針は女性性と深い関係を持っています。針は攻撃性を持つものでもありますが。女性は古来から針仕事をしてさまざまなものを産み出してきました。一針のなす力は小さいけれど、地道に刺していくことで加工品を産み出すなど、創造的な道具でもあり、女性をより意識的な生き方に導くための道具でもあります。

攻撃性は男性性の要素と考えがちですが、必ずしもそうとは言えない、女性性にも攻撃性は備わっており、女性にとっての攻撃性は、自分にとって大切なもの、大切な価値を守るために躊躇なく発揮されるものでもあるのですね。

大蛇を退治した娘は家へは戻らず、新たな道を歩んでいきます。個性化に向けた段階へさらに歩みを進めていきます。途中で蟇のぎゃろに会い大蛇を退治したお礼に姥皮(山姥の皮)をもらいます。姥皮はそれを被ると醜い老婆に変える変身の力があります。山の中を若い娘が一人で旅をするには危険が伴います。蟇のぎゃろは、娘の道中を守るため姥皮をくれたのでした。
山姥の皮は母なる世界に属するもの。娘は一度は失いかけた母なるものとの繋がりを取り戻し、その知恵や守りの力を自分のものとすることができたのでした。

ここで姥皮の役割や意味について考えてみたいと思います。

思春期の女の子たちを見ていると、身体的成熟に伴ってセクシュアリティーを強調する服装を身に着ける子とそれを隠すようなダボダボの服装をする子がいます。また一時期10代の女の子たちの間で流行ったヤマンバメイクなどを思い浮かべると、服装やメイクに込められている意味は何なのか気になります。

メイクや服装は、外の世界と接する際のペルソナの働きがあります。自分の若い頃もそうでしたが、若者がファッションやメイクに大きな関心を注ぐのは、個性を打ち出したいという欲求だけではなく、外の世界で見られたい自分と見られたくない自分に細心の注意を払いながら、安心して人のなかに居られるためのペルソナを懸命に模索しているのかもしれないと思ったりします。

思春期は、身体的成熟に心の成熟がいまだ追いついていない状況です。この時期、なんらかの守りがないと、集合的な女性役割に性急に同一化して(男性の求める可愛い女性像など)、女性独自の個性化が進まなくなってしまうことがあります。あるいは否定的母親コンプレックスを持っている少女は、反抗心から性的に行動化し、自らを傷つけたり、破壊される危険に晒されかます。女性としての心の成熟がゆっくり育まれるための「守り」の大切さやその意味を、姥皮は教えてくれているように思います。

現代社会において姥皮に替わるものはなんでしょうか。山姥に属するもの、それは母性的な守りのような気がします。
口うるさいけれども、必要なときにはブレーキをかけてくれる母親や、温かく受け止めてくれる祖母的存在、憧れの対象でもあり、ときに鋭い忠告や助言をくれるお姉さん的存在、そんな成熟した年上の女性が少女たちの周りに居ることはすごく大切なことのように思います。

大蛇退治を成し遂げた娘は、その後、姥皮を着て、長者の家へ行き、住み込みで掃除の仕事をします。昼間は姥皮を纏い老婆として掃除をし、夜は美しい娘に戻り本を読んで過ごすのです。
英雄的な仕事をすると、英雄と同一化して自我が肥大し傲慢になってしまうことがあります。娘は使用人として掃除という地味な仕事をすることで、英雄元型に飲み込まれることなく勇敢で行動力があるけれど、偉ぶらず、謙虚さも身に着けたバランスのとれた女性性を成長させていきました。姥皮は外側(性的誘惑)からも内側(傲慢さ)からも娘をしっかりと守る働きをしていることが分かります。

そうして成長した女性を長者の息子は見染めて、幸福な結婚という結末を迎えたのでした。

ここでもまた西洋のお話とは違って面白いのは、長者の息子は、娘に恋をするものの、積極的にアプローチしたわけではなく、恋の病のため食事もとれなくなるほど弱ってしまうという、かなり受身なあり方をしていたことです。受身であるけれど、結局は娘と結ばれます。

長者の息子は女性の内側にある男性性(アニムス)とするならば、自らの力で乗り越えようとする「意志する女性」のアニムスは、自我を前面に出した積極的なアプローチはせず、むしろ逆に自然の流れにまかせることでかえってうまく事を運ぶ、泰然自若としたところがあるのかなという感じがして面白いなと感じました。

最後までお読み頂きありがとうございました。


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