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【乳がん】「がん」になったことを公表すべきなのか

 がんになって、一番最初に思ったのは、「特別扱いされたくない」ということだった。同情されること、変に気遣いされること…プライドの高い私の一番の強敵。特別扱いされたくないけど、隠し通せることなのかどうか…職場の上司には話さなきゃいけないし、友達にはどう話せばいいのか。

 最初は、多くの人には言わないで過ごそうと思ったけれど、結局、仕事も休まなきゃいけないし、抗がん剤で髪は抜けるし、会った時にいちいち説明するのも面倒だし説明するたびに自分は病人で、がん患者で、可哀想な奴に思われるのだ…と認識させられるから心が折れる気がした。やっぱり話さないといけないのかなー…と考えた。

 さて、仕事を休む前に、私は、実名でやっているSNSで「がん」であることを公表することにした。しなくてもいいことだけれど、後々色々な人に説明するのが面倒だったし、別に悪いことをしたわけでもないし。思い切って書いてやろうと。同情されたら、卑屈になればいいや。そのくらいの気持ちで公表することにした。

 私自身は楽観的だし、冷静に病を受け止めたから、その投稿自体も前向きで冷静なものだったと自分で思っている。いつもの倍以上の「いいね」と「コメント」をもらった。たくさん「いいね」がついたとき、一瞬、卑屈になった。

「私のことをよく知らないくせにこういうときにだけ友達ヅラしてくる奴いるよねー」くらいには思った。でも、一瞬だけ。


 もし、私が逆の立場だったら――と考える。自分の家族や仲のいい友人が「がん」になった。そしてSNSでそのことを知った。そのとき、自分はその人に、どう声をかけるのか。すごく、難しい(だからこそ、自分は「がんになったのが誰かではなく自分でよかったとも思った)。一緒に悲しめばいいのか。励ませばいいのか。励ましても相手が卑屈になったらどうしたらいいか。何かネガティブなことがあった人に声をかけることほど難しいことはない。自分だったら、「いいね」も「コメント」もしないで、自分の心の中だけでその人を励ましているかもしれない。記号化する勇気は、私にはない。

 そう思ったら、いつもより多い「いいね」も「コメント」も、すっごく尊いものに感じた。そしてコメントや後日届いたDMのことば全部が、自分のエネルギーになっていったのを確かに感じた。励ましてくれた人、一緒に心を痛めてくれた人、自分という人間に興味を持ってくれた人…そこには確かに、記号化するかどうか迷った顔、「いいね」にするか「超いいね」にするか考えた顔、どんなことばを紡いで私に寄り添おうとしたか考えた顔、たくさんの顔があった。その人にしかできない言語記号…それらはすべて――敢えてことばに表出させないでいてくれることも含めて記号だ――自分の活力になった。
 今は抗がん剤治療が近づくと少し憂鬱になるし、ネットで「がん」ということばを見るとドキッとするし、治療のあと数日間は廃人みたいになって自己嫌悪に陥るけど、正直言ってがんになる前の自分と変わらない。前だって、月曜日が近づくと少し憂鬱になっていたし、ネットで教師の不祥事の記事を見るとドキッとしたし、仕事と音楽が両立できない自分に嫌気が指していたし。やっぱり、それって、自分の強さではなくて、周囲の励ましがあるから自分というものを保てているっていうことなんだと思っている。
 …自分で記号を紡いでアウトプットすればどんな記号も受け取る人にとっての活力になり得るんだ。どんな励ましの言葉も、卑屈にさせることなんかないんだ。大切なことに気づいた。

 SNSいじめがあとをたたない昨今だけれども、結果的に、SNSで公表して、自分自身はよかったと感じた。大切なこと❝もし自分が逆の立場になったら、怖がらないで、自分の記号を紡いでその人に語りかければ、それがどんな記号だったとしても、受け取る人にとっての何らかの力になっているはずだ❞ってことに気づけたから。

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