2022/04/02(小島信夫『美濃』について)

 昨日から夢中になって小島信夫の『美濃』を読んでいた。『美濃』は古井由吉や後藤明生が主宰する文芸雑誌『文体』に、1977年から1980年にかけて、三か月に一度のペースで連載された長編小説で、『私の作家評伝』(後の私の作家遍歴)、『別れる理由』の後半部分との同時連載であったようだ。小島信夫は1971年に一度講談社から全6巻の『小島信夫全集』を出しており、その折に同郷の詩人・平光善久に年譜の作成を依頼したエピソードを発端として本作は書き継がれることになる。
 連載当初、唯一『文藝』に寄稿された「モンマルトルの丘」を除く最初の5編は、「ルーツ 前書」というタイトルで発表された。このルーツという言葉は、アメリカの作家、アーサー・ヘイリーの1974年の小説『ルーツ』の大ヒット以来、日本で普及し、一時期流行となった語であるらしい。アーサー・ヘイリーの『ルーツ』の邦訳を務めた小説家の安岡章太郎が、自身のルーツを遡った長編小説『流離譚』を発表して好評を博し、大衆の間でも自身のルーツ探し、先祖の生き方や家系図に対する関心が高まっていたということである。このあたりの事情は疋田雅昭の論文『「ルーツ」のルーツをめぐる物語 ――小島信夫「美濃」をよむ「前書」』が詳しい。
 「小説家である私」と、小説家の年譜作成を引き受けた後輩の詩人・篠田賢作(平光善久がモデル)との間に生じた、夫婦のようであるともいえる一種の契約関係が、『美濃』全体のあらすじと言えばあらすじである。とはいえ、小説は無事に年譜が完成してめでたしめでたしで終わるわけでもなく、小説家と年譜作者の「書く/書かれる」という関係、そして篠田賢作が小説家について過去の作品や資料を収集し、ひとつの生涯を織り上げるその顛末を小説家が書いて小説にする、という重層的な関係がはじめから存在する。そしてその構造は、連載を重ねるにしたがって、作中の私が古田という小説家となり、そしてやがては作中の語りが古田の手から離れていく。この小島信夫と語り手、そして語りのずれが次第に大きくなり、小説が独り歩きしていくようになるまでのその過程、それ自体が『美濃』という小説を一つのまとまった作品として成立させている求心力であるといっていいように思う。
 自身の年譜の作成というきっかけを通じて、小説家の意識は自身のルーツ、郷土である岐阜という土地に向かうわけであるが、この「ルーツ 前書」は小説家のルーツの話でもなければ、美濃のルーツについて正面から取り組んだものであるとも思われず、これから立ち現れてくるはずの未だ成立していない小説(『美濃』)のルーツを先取りして書いているような気配がある。まだ書かれていない小説のルーツについての話から書き始めてそれがその小説になっていくというところに『美濃』の面白さはあるのではないか。小島信夫が小説を書き進めていくやり方というのは、その時に抱いた印象や、関心ごとを、そのままの形で作中に放り込んでおいて、あとから何らかの意味が生じ、ひとりでに文脈になっていくのに任せるというようなもので、それを保坂和志は、オーネット・コールマンの演奏と通じるものがあると書いている。小島信夫のこの取っ掛かりをばら撒いていくための手法として、何かの印象を書きつけたあとで「それは何ものかであった」という言い回しがあり、この言い回しは『美濃』において繰り返し現れてくる。

古くはあのボルドーの冷静なる男の言行がある。彼は年配になってから馬に乗って旅をし、馬の背か旅籠でたおれることを望むと書いている男の言葉である。彼がその文章をつづりはじめたのは、一五七二年のことであるが、「聖バルテルミ祭事件」なる事件で新教徒が二千人がた殺された時だといわれている。(新教徒が二千人といっても、ピンとこないところもなきにしもあらずだが、それでもやはり年譜に書きこんであるのだから、大したことでもあったのだろうし、事実私にもそんな気がし、気がすればそれで何ものかであろう。)
小島信夫『美濃』、株式会社平凡社、1981年、p.38-39(以下の引用も同じ)

たとえそうであっても、たまたまそうであるだけのことで、私には何の関係もないことだ。それより彼が柳ヶ瀬から各務原へ行き、まっすぐ行けば琴塚や関市を通って美濃市へと行く途中の街道沿いに彼の家があり、そこに彼の書斎があり、そこで私が泊り、街道の前には山があり、その山はずっと岐阜に山ぎわという場所をつくっていることの方が何ものなのかもしれない。
p.75

岐阜出身の小説家古田と東京出身のその妻とが追分の駅で、賢作が到着する時刻に待っていた。自動車に乗る女が、車をおりてからカギをぶらさげて歩く姿勢というものは、何か独特のものがあるようである。もっとも十五、六年前に古田が彼女といっしょになったときにはもうそういう歩き方をしていたのだ。もちろん車にいつも乗っていた。家の中でもそうなのだから、車を降りたときの必然の姿勢とは必ずしも関係はあるまい。それなのに、車を降りて歩きはじめるのを見ると、あらためてそう思えるのは、どういうわけだろう。
p.117

平山が岐阜から木曾川をこえて愛知県へ入ったばかりのところにある「明治村」を賢作らと訪ねたとき、まだ坂をのぼったり、二、三百メートルの距離をつづけて歩いたりすることは出来ないときめていた。ところが賢作の歩くのを見て、平山はそのあとについて歩いてみることにした。この二人が精出して歩く姿は何ものかであった。
p.136

ところで、忘れないうちにいっておきますが、何しろ思いついたときにいっておこないと、それっきり思いつくことが永遠になくなるかもしれないような不安な気持になっていますからね。もちろん、僕はすこしも悲しいとも思わないし、むしろ楽しんでいはしてますがね。僕はこのごろ何かしらあなたにいっておきたことがある、という気がするときがあるのです。そのときもいつの間にか過ぎ去って行きましてね。ぼく自身が見送っているのかもしれないのですがね。
p.194-195

 これらの何ものかのうち、岐阜の山ぎわのことや、妻や賢作の歩き方については、作中に間をおいて何度か繰り返し出てくる。そのたびに何ものかが何ものかの意味を帯びてくるようになる。しかし「ボルドーの冷静なる男」の話は一度しか出てこない。第一この男が誰のことなのか、彼が書いていたとしている書がなんのことなのか、作中では判然としない。判然としないまま何ものかであるとして「ボルドーの冷静なる男」のエピソードが読者に提示される。小島信夫は平気でこういうことをする。一方で、『美濃』全体を貫くライトモチーフの一つである「死んだふり」あるいは「終焉の記」というテーマが初めて現れてくるのはこの箇所であるように思われる。そういう意味ではこの箇所もまるっきり投げっぱなしというわけではないのかもしれない。芭蕉の弟子である各務支考の佯死、森敦をモデルにした作家との電話のなかで出てくるハドソンの『ラ・ブラタの博物学者』における動物の「死んだふりをする本能」、そして『美濃』終盤の語り手の変更がゆるやかに繋がっている。『美濃』の十一章において、突然語り手であった小説家・古田が事故に巻き込まれて生死の境を彷徨っているため、この作品を書き継ぐことができなくなったため、作中の登場人物が代理として続きを書くという体裁になっていく。伝記的事実としては、『美濃』連載中に小島信夫が事故に遭い、執筆が続けられなくなったということはなく、つまりはこの小説家・古田の負傷とそれによる語り手の変更は純然たる創作である。ここにおいて小島信夫は各務支考の佯死事件をなぞっているとも、死んだふりをしているとも言える。そして小説は最後、「古田信次はどうやら東京にもどってきた模様である」という一文で締めくくられる。『美濃』は小島信夫のルーツ探求の旅であると同時に、岐阜と東京、過去と現在、古田と賢作を絶えず往還しながら遂行される大掛かりな死んだふりであるとも言える。動物が死んだふりをするのは、天敵から身をかわすためであるが、小島信夫はここでなぜ死んだふりをするのか。ルーツの探求に見せかけて始まった物語が、なぜ死んだふりに帰着するのか。そしてその死んだふりからの帰還によって小説が閉じられているのは、どんな意味を持つものなのか。それは未だによく掴めてはいないが、おそらくそれは当時の小島信夫にとって何ものかであり、『美濃』を読解する上で欠かすことのできない点であるように思える。語りたいことはまだまだあるが、今日はひとまずここまでにしておく。

https://amzn.to/3J1tirG

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?