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◆「言葉」は自然界…いや、人工物だ。

小宮です。今日は眠くて眠くて仕方ない。とにかく目を閉じたくなる。コーヒーをがぶ飲みして、なんとかしようとしていますが、なんとかなりません(苦笑)


さて。

先日、田舎の叔父、祖母とビデオ通話をしました。

基本的に田舎の波長が合わない私なので遠のいているのですが、正月明けの休みのおかげで少し調子が良く、やりとりをきっかけにビデオ通話。

相変わらずイマイチ会話が噛み合いませんでしたが、久々の会話で相手も私も刺激になりました。

田舎にとっての「言葉」とは

通話をする前から、話すことはわかっている。

「久しぶり」の会話から始まり、季節ネタや「コロナ大変だねえ」の話、そこから「調子はどう?」となって、特に細かく話すこともなく「じゃあまたね」。

それ以上のやりとりは、こちらが振らない限りは出現しない。変化球はと言えば、「そろそろ結婚かね?」だとか「良い人がいたら教えてね」とか、そんな嫌らしい話だ。そこに意味はない、ゴシップが欲しいだけだ。フィアンセや恋人がいてもいなくても、彼らはその回答をネタにする。まるで週刊誌のよう。

…よく見かける親族との描写で、言葉は素っ気ないけれど〜、とか、ぶっきらぼうだけれども〜、そこに絆はあって〜…みたいなものあるじゃないですか。私、あれはどうもしっくりこなくて、コミュニケーションがうまくとれていなかったらば(気遣いがなかったら)不快でしかないと思うんですよね。合わない人間と関わりを続けなければならない、ってすごく不自然なことに思えてしまう。たとえそれが仕事場だとしても、限界ってあるじゃないですか、と。

でも、彼らからすると、私はよっぽど面倒な人間なんですよね。言葉なんて、会話なんて、大したことないんだろうなと思いました。考えない部分(血縁だとか、家系の伝統だとか)がある限りもう何をしても「そこの人間」であって、理由なき仲間、なのですよね。

そう、言葉は単なる「天気模様」のようなもの。晴れだろうと、年中雷雨だろうと、自然は当たり前にあり、愛でられるもの、受け入れるもの。

雷が落ちたくらいで驚くな、うじうじするな。台風なんてそりゃあ来るだろう、穏やかな天気しかないところはないだろう…そう言われたら、そうですよねって思う。でも、言葉では、私は、ちょっとまだ許容できなさそうです。特に、我が親類のいるあの場所では毎日のように雷が落ちている。栃木だからなのか?

私にとって、言葉は、もっと人工的な、細かい繊維を織ったような布見たいな、そんなものだと言えます。コミュニケーションでその布をひらひらしたり、織る共同作業をしたり…話が噛み合わないと、その布に思いっきり泥水をかけられて切り刻まれてしまったような気分になるのです。それでも、天気(=自然)のように、受け入れろと言われましても、ちょっと無理なんです。その布はもうダメになってしまったのですから。

んー、ちょっと例えが綺麗すぎましたかね。変かな。


ボロ布切れになってはしまいましたが

ただ、そのボロ布を捨てずに保管することはできます。

保管して、時々建前で眺めるくらいが、今の私のなんとかできることです。それが、先日のビデオ通話だったのです。

なぜやるのか?そう言われたらよくわかりません。でも、なんとかその布をいつか自然に返してやるために手元に置いているのだと思います。

捨てたフリをして、持っている。そんな感じです。




たとえたとえ、例え話ばかりになってしまいましたが、こっぱずかしい私記として残しておきます。


KOMIYAMIYAKO


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