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恵まれている、ということ

「恵まれてるね」「幸せだね」

そんな言葉をよく貰う。
特に私が悩んでいたり落ち込んで相談すると、
よく年上の方に言われる。

そう。そのとおり。
私はとても”恵まれている”のだ。
私はそれも自覚してるつもりだ。

「恵まれているね。感謝しないと。」
そう言われると、その先弱音が吐けない。
その言葉の含みとして、「恵まれているのだからそんな弱音吐くな。もっと辛い人はいる。くよくよするなんて贅沢だ」と私には聞こえてしまうからだ。(※実際はそんなこと言われていない)

私は恵まれていると思う。
それは自分でもそう思う。
でも悩むことは沢山あるのだ。
「今、わたしは、わたしが、苦しい」のだ。
それはいけないことなのだろうか。
恵まれている人は悩んではいけないのだろうか。

そもそも、他人から見える「恵まれている」というのは、あくまで外側からしか見えていない部分だ。人間なんて、外側から見てもほぼその人のことは分からない。みんな大人だし、精一杯取り繕って仮面を被って生きている。Aさんから見えるBさんの「恵まれている」ポイントは、Bさんにとって「恵まれている」ポイントとイコールだとも限らない。

弱っている時の他人からの価値観の押しつけは、思ったより自分への影響力が高い。言葉というのは本当に丁重に扱わないといけない存在で、目に見えないくせに、人間への破壊力は甚大で、やっかいなものだ。

恵まれている、とは何なのだろうか。
それは一人一人が自分に対して使う言葉掛けであり、他人には使わない方が良い言葉なのかもしれない。


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