小堀遠州(こぼりえんしゅう)
擁翠亭(ようすいてい)
小堀遠州(こぼりえんしゅう)は、安土桃山から江戸時代前期にかけての大名であり建築家、作庭家、書家などの多方面の才能を見せた茶人。「遠州」という名は武家官位の受領名の遠江守に由来する通称で後年に名乗った。孤篷庵(こほうあん)の庵号。二代備中国代官で備中松山城主、のちに近江国小室藩初代藩主となった。
茶の湯は「きれいさび」と称され、遠州流として現在も続いている。生涯で約400回茶会を開き、招いた客は延べ2,000人に及ぶと言われており、彼の著名な門下としては松花堂昭乗(しょうかどうしょうじょう)、沢庵宗彭(たくあんそうほう)、武士の松平正信(まつだいらまさのぶ)、加賀爪直澄(かがつめなおずみ)などがいる。
小堀遠州は和歌や藤原定家の書を学び、王朝文化の美意識を茶の湯に取り入れた。豊臣秀吉の時代以前に名物とされた茶道具の多くが秘蔵品となり入手困難となったため、新たに茶道具に銘をつけて宣伝し、名物として認知されるようにした。
その際、小堀遠州は和歌や歌枕の地名、伊勢物語や源氏物語といった古典から取った銘を用い、同じようなデザインのものを「なになに手」と類型化し、特定の固体を「本歌」とし、同じ手のものには本歌にちなんだ銘を与え、茶道具のデザインを系統立てて把握できるような仕組みを作り上げた。遠州が有名にした茶道具群は、中興名物(ちゅうこうめいぶつ)と呼ばれ、所持した道具目録は遠州蔵帳(えんしゅうくらちょう)と呼ばれる。茶室の特徴としては、古田織部の茶室より窓を増やして明るく13の窓を持つ茶室擁翠亭(ようすいてい)がある。
江戸時代前期加賀藩士で京の彫金師、後藤覚乗(ごとうかくじょう)の屋敷に建てられた13の窓を持つ日本一窓の多い多窓茶室で別名十三窓席と呼ばれる。加賀藩主前田利常(まえだとしつね)の依頼で3代将軍徳川家光の茶の湯指南役であった小堀遠州が設計した。
急勾配の杮葺き(こけらぶき)入母屋造の3畳台目の茶室に、2畳の水屋が付く。江戸時代中期には2畳増築された。躙口(にじりぐち)の外には1間半の吹抜の土庇(どびさし)が付き、沓脱石は7尺の大きなものが使われている長さ4尺の床があり、台目畳は床から半畳ほど離れており、茶道口と給仕口が矩折(かねおり)に配されている。躙口は壁の中央にある。連子窓の上に下地窓を重ねる手法を3ヵ所繰り返しており、また池泉庭園の池畔に建てられていたので、それを眺めるために連子窓の下辺が畳に接している。床脇の壁の窓は倹飩(けんどん)の襖がある。
転合庵(てんごうあん)
小堀遠州が17世紀前半京都伏見の六地蔵に建てた数奇屋の一部が大原寂光院に移築され、1963年(昭和38年)塩原千代氏により東京の東京国立博物館へ寄贈された。
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