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続けるとやめるの感覚について

毎日10分noteを書いてみようの企画、継続中です。
(実質毎日にはなってないが、気にしてはいけない)

まあ今日はせっかくだし「続ける」ということの感覚を言語化してみようかな。

毎日〇〇する系の企画は、私の場合人に見られているかどうかで本当に毎日かどうかが変わる。
ぶっちゃけnoteは見られない前提でやっているから、毎日更新が本当に毎日じゃなくても「続いている」状態であれば良いと思っている。

逆にフォロワーがそれなりにいるTwitterなんかだと、毎日やると言ったら本当に毎日やることになる。ので、基本的に毎日企画はしない。
つまり人からの見え方を気にしているタイプの面倒なやつなのである。

まあ、私のキモいプライドみたいなものは一旦置いておいて、じゃあ「続いている」状態は何がどうなっている状態なのかを言語化していく。

人から見ると随分言い訳臭い内容になると思うが、「続いている」状態とは「心から離れていない」状態だと思っている。

私には絵を描いていなかった期間があったり、作品を作れていない期間がそれなりにある。でもその期間、「絵描きであることをやめていたか」と聞かれると答えは明確に「No」だ。

なぜなら心は離れていなかったから。もっと具体的に言うと、興味が薄れていなかったとか、物の見かたが絵描きの価値観に基づいたものだったとか、そういう感じだ。
他の絵描きがどうかは知らないが、私の目に映るものに対して、私はどういう形状をしているかとか、色がどうかとか、ネジがどこについているかとか、どういう構造になっているかを、見ている。幼少期からずっと、「これを絵に描くとどうなるか」みたいなものが物をとらえる基準になっているからだ。その基準がある限り、私は絵を描かなくても、自分が絵描きであるという感覚はずっとある。
私にとっての「続ける」とはそういうものだ。

ここ最近はTwitterでNFTの話をツイートしなくなった。NFT作品を作るのももうずっとしていない。だから辞めたと思う人も一定数いるようで、去っていった人がたくさんいる。
でもスペースは続けているし、情報は追い続けている。私はこの技術が好きだから興味が持続しているのだ。
だから私個人の感覚では、まだNFTを辞めたとは思っていない。2021年9月ごろからずっと続けているものだ。

逆に、やめたものだって存在する。自分の中で興味が薄れて、これはもういいと思ったものがそうだ。
例えば「演劇の役者」。これは演劇を深く知るために、不向きだけどやっていた。私の演劇への関わり方のベストアンサーは、役者ではないから一旦はもういいかと思っている。(演劇を辞めたとは思っていない。)
ほかにも「対面の人狼ゲーム」、これはマイブームだったもので、達成したい目標がかなり早い段階で達成されてしまった。惰性でそのあとも2年くらいは続けたが、さすがにもういいかと感じたので一旦終わりだ。気が向いたらまたやるかもしれない。

まとめてみると、自分自身が「やめた」と感じるものはそこまで多くない。
逆にSNS上で「やめます」と宣言して去っていく人はどういう感覚で過ごしているのか、気になるところだ。まったく違う感覚で生きていそうなので、ぜひ言語化してみてほしい。

今日はここまで。

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