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恋愛ヘッドハンター2 砂時計⑦

タクシーを降りると、そこは墨絵の世界だった。
灰色の雲が立ち込めている。
絶え間なく降るのは牡丹雪だ。
三階建ての木造家屋からグレイのショールを着た女が出てきた。
黒い傘を差し、門へと進んでくる。
「遅かったのね。心配したわ」
見上げる女の赤い口紅が墨絵から浮き上がる。
「渋滞してたんだ。この雪だから」
賢太郎はぶっきらぼうにつぶやいた。その肩に積もった雪を、ひかりは優しく払った。賢太郎はひかりから傘を取った。
「いい旅館じゃないか。うちの上司が欲しがるはずだよ」
ゆっくりとその佇まいを眺める。黒を基調とした日本家屋。烏城。いや、烏旅館と言ったところか。

「そうかな。私には最後まで良さがわからなかった。夫のものだったからかな」

同じ傘の下、二人は旅館を見上げた。

「入って」
二人は門をくぐった。玄関先でひかりは賢太郎から傘を受け取ると、軒先で雪を払った。
「どうぞ」
引き戸を開けて、中へと誘う。賢太郎は旅館の玄関へ入った。ひかりは傘を玄関先に立てかけると、先に上がった。正座をして、手を添えてお辞儀をする。
「いらっしゃいませ。お足元の悪いなか、お越しいただきありがとうございます」
そう言った後にゆっくりと顔を上げる。

「ふふ。こんなふうにしていたのよ。この間まで」
ひかりの様子を見て、賢太郎は顔をほころばせた。
「似合ってるよ」
「いつから知っていたの?私が旅館の女将になっていたって」
「隠しても仕方ないから言うけど、ずっと追ってた」
「追ってたって」
ひかりの笑顔から大人の余裕が垣間見られる。賢太郎は、上がり框に腰掛けた。

「フラれたから。引きずっていたんだ。名前を検索してひかりのフェイスブック見つけて、ずっと見てた。結婚して、旅館の女将になってたことも知ってた」

「連絡してくれたらよかったのに」


「できるわけないだろう。フラれたのに」
二人は顔を見合わせて笑った。距離が少しずつ近くになっていく。

「昨日は何で逃げたの?」
「仕返しだよ」
「仕返し?」
ひかりの小首をかしげる仕草に賢太郎は懐かしさを感じた。

「昔、逃げられたから。今度は俺が逃げたんだ」
そう言うと、ひかりはけらけら笑った。

「子供みたいね」
「オッサンなのにね。ホテルに戻って我に返ったよ。逃げたってこの旅館のことがあるから、ひかりに連絡しなくちゃならなかったんだ。ずっと見てたフェイスブックが役に立ったよ。でも、まさかひかりの方から近づいてくるなんて思いもしなかった」

賢太郎はひかりをじっくりと見つめた。恥も晒しきると怖いものはない。ひかりは肩を落とし、目をそらした。

「夫が高校出たての仲居といなくなったの」
「え?」
「力が抜けたわ。恥ずかしいし。田舎だから噂なんてあっという間よ。しっかりした親の言うこと聞いて地元に帰ってきて、ホテルに勤めた後に信頼できる上司から勧められて夫と結婚したけど、こんな未来が待っていたなんてね。人生を人任せにしたから仕方が無いんだけど。その時にやっと賢太郎と別れたことを後悔したのよ」

ひかりの手が賢太郎の左手薬指を撫でた。もうずいぶん前に指輪は外していた。

「そうだったのか。だから、恋愛ヘッドハンターになんて依頼したのか」
「そう。そうしたら賢太郎は結婚してて。まあ、不思議じゃないよね。でも、ホテルの買収を仕事にしてるって知ってこれは絶対会わなきゃって思ったの」

「そうか。でも、嬉しいよ。思い出してくれて。びっくりしたけど」

賢太郎はひかりの手を弄び始めた。

「ふふ。それはどうも。でも、初めてこの旅館の経済状態を見た時ぞっとしたわ。借金だらけ。私は何の思い入れもこの旅館にないから閉めることにしたのよ。せめてもの腹いせね。働いている人たちも夫には情があるけど私には無いから。でも、退職金くらいは払わなきゃ。そのためにはお金が必要なの」

「中、見せてくれる?」

「どうぞ。入って。誰もいないから遠慮しないで」

二人はいったん手を離し、立ち上がって旅館の中を歩き始めた。

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