「わかる」と「わからない」の間で。あいまいさを楽しむ

「わかる」を求めて

教材と向かい合う真剣な眼差し。
話している人の顔をじっと見て耳をすますときの静寂。
わかった!と輝く笑顔。

生き生きと学んでほしい。
学びの世界を楽しんでほしい。

そう思いながら毎日過ごしています。

どうすればいいのかな?と悩む毎日です。

そこで本を読んだり研究会に行ったり、誰かの話を聞いたり。

どうすればいいのか「わかりたい」。
正解を探しに出かける毎日。

そして、「わかった」と感じて、教室で試してみるんだけどうまくいかない。

そしてまた「わかった」を見つけに旅に出る。

「わかった」と「わからない」の繰り返し。
わからないことのもどかしさ。
正解に辿り着けないことへの苛立ち。

「わからない」自分がダメなんじゃないかって。
「わかる」って状態に早くしてよって。

苛立ちと焦りともどかしさと。

先生になってから10年。ずっと抱えてきた感情でした。

「わかる」とは心のシャッターを下ろす言葉。

でも、一旦ここで「わかる」について考えてみる。

会話で「わかりました」と答えるとそれ以上その話題は続かない。
話をしていて「わかった。わかった」と言われるとイラっとする。

「わかる」って言葉は「わかった」という状態は思考停止になっているんだと思う。

「わかった」の後には心のシャッターが下りてしまっている。

「わからない」を楽しむ

僕はこれまでずっと「わからない」にイライラして焦ってもどかしさを感じていたけど、

「わかった」後に「わからない」がくる。
これでいいんだと思う。

「わからない」を受け入れる。
「わからない」を楽しむ。
「わかる」を一旦諦める。

でも、「わかろう」とする。
「わかる」ための旅を続ける。
「わかる」ことを諦めない。

矛盾しているようだけど、矛盾していない。

あいまいさを楽しもう。
あいまいさの中で生きていることを喜ぼう。

そう思ったら先生っていう仕事が俄然面白くなってきた。

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