『郡山市の郷土史』備忘録

十六世紀末
会津葦名氏を滅ぼし、福島のほとんどは伊達政宗の領地になってた
奥羽仕置
秀吉が小田原城を攻めるのに伊達政宗に兵を出すように再三迫ったが、最後の最後まで出さなかったので、福島のほとんどの領地を没収した
→蒲生氏(会津)の支配下になった
太閤検地で土地の私有を認めなくなった代わりに、農業経営権を与えた。(分家や隷農は例外)
この時の検地で、大槻は安積郡内でも片平や福浦に次ぐ村高とされた。

明治維新
→武士が失業
→不平
→明治政府初の国費事業として安積開拓(安積疏水)殖産と不平士族の再雇用のため。
安積疏水の開削の決定を機に、当時約5,000人のまちの周辺に、9藩から約500戸、約2,000人の入植者がやってきた。第一陣として旧久留米藩の士族が入植し、これを機に岡山、土佐、鳥取、二本松、棚倉、会津、松山、米沢の各藩から人々が集まった。実に延べ85万人の人々が携わり、3年の月日を費やした大事業であった。

安積疏水によって水力発電が可能に(沼上発電所)
→電力を自給できるので、企業を誘致(紡績など)
→戦時中は軍需産業都市に認定
→空爆される

▼生糸、紡績会社 二大巨頭
正製組
永戸、安藤忠助、甲斐山、柳沼
金透小の北

真製社
橋本、鴫原、川口、津野、佐藤、根本、小針、柳沼
清水台

二社は協力して郡山水道会社を設立→多田野から水を引いた

明治32年
郡山絹糸紡績会社
(機械による生産→沼上発電所の電気)
設立には渋沢栄一も関わっている
ここから郡山電気会社が生まれ、企業誘致に繋がった

明治45年
長野から片倉組が進出、上記二社は解散、郡山絹糸紡績会社は電気事業1本に絞らざるをえなくなった。
この片倉組が、後の日東紡である。

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