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本 2

(「本」からの続き)

 あれほど本を大事にしてきた自分に、こういうことが出来てしまうということを、自分の事ながら、どこかで思ったかもしれない。でも、窓から見えるその風景は、あっさり自分の感覚に馴染み、作家に対するなんらの感情も、すでに生じなかった。
 実際、この重しは非常に具合が良かった。
 大きなレジ袋が二つなのだが、今まで、かなり大きな数個の石ですらゴロゴロ動かす風に煽られていた覆いが、ビクともしない。しかも、立方体の落ち着いた佇まいである。いい仕事をしてくれるくらいに思っていた。

 初めの頃はそれでも、その白い人工的な置物が気になり、何かのついでに庭に出たときには、それを上から眺めたりした。思うほどには、風雨もこの本を破壊できていない。上の本の表紙が、少しばかり雨で波打つ程度だ。こんなもの、室内でコーヒーをこぼした方がよっぽど大惨事になる。感覚と、実際のこういった相違は、どうして生じるのだろうな。極端だと考えやすいので、しばしば、殺人を思い浮かべるが、誤って殺してしまって遺体を草むらに放置するときも、同じ感覚や状況に陥るだろうと思う。数日経ってさぞや崩壊しているだろうと思いきや、被害者は意外とそのままを保っている。その内部は、当然違うのだろうが、ヒトはほぼ見た目で世界を認知する。内部の進行した崩壊は、それすら、表にでてはじめてそれと知る。よく見れば、とっくに眼球が凹んでいたことに、遠くから見ていた時は気がつかなかっただけだと。
 三ヶ月の間には、さすがのレジ袋も破れ、風が上の本のページをめくるようになった。私は、新しいレジ袋に、それを入れる。ただ、なんとなく触りたくなかった。自分から切り離してしまったものは、そう感じるのだろうか。新しい、人工的な白に包まれて、それはまた直射日光に耐えていた。

 そして、ヒトは馴れる。
 風がページをめくって、その内容をかなり読み進んでも、自分はそれを眺めるだけになった。ここは雪がかなり積もる土地だ。いずれ回収せねばと言う意識はあるが、それは常に今ではない。周りの庭木に囲まれて、そんな私の蛮行の証拠は、傍目には見えないはずだが、時々、この状態がヒトに見られていたらと考えることはあった。それでも、侮蔑感情は、全てを是とする。
 そして、私は、書けない時間を更新し続けた。

 そして10月18日の月曜日。
 何かが底を打った気がした。
 それは、二週間近くに及んだ部屋の模様替えの結果かも知れないし、全くべつな精神的波かも知れないし、持病が和らいだ一瞬なのかもしれない。
 はじめて、自分は、庭の本を、意識的に見た。
 その時は、「ああ。これのせいか」という感慨しかなかった。自分の書けない時間は、この本が庭に曝されてから少しずつ悪化し、最後の一ヶ月は、全くそれから離れてしまった。それは、この本のせいではないかと。
 もちろん、なんの因果関係も相関関係もない。
 でも、汚れてしまった本を丁寧にゴミ袋に入れ、きちんと処理しはじめた自分は、この自分の行動に関しては、解答を出していた。

 本はやはり、自分にとっては本だった。
 どんな侮蔑の対象になるような相手でも、それが本を雨ざらしにするような行動を許すものではない。
 怒りのあまり破り捨てるという行動もあるだろうし、焼いてしまうという行動もあるだろう。(もちろん、個人の行動においてだ。焚書の話ではない。)でも、自分の行動は、残酷が過ぎる。そう思った。あるいは品がないという括りかも知れない。普通に捨てれば良かった。ただ、どうしたらいいかわからなかったという部分も多少影響したと思う。
 自分は反省した。
 そして、個別に反省はできても、死ぬまで品とは縁がないのだろう。

(おわり)

現在、「自分事典」を作成中です。生きるのに役立つ本にしたいと思っています。サポートはそのための費用に充てたいと思います。よろしくお願いいたします。