ゴミの行き先(エッセイサンプルです)
ゴミ屋敷というワードが世間に認知されて久しいが、初めの頃は、自分も大きな誤認をしていた。
ゴミだらけになるのは本人の怠惰が原因だと、漫然と思っていたのである。いや、思っていた、というのも違う、そもそも、そのこと自体を考えたことがなかった。
某番組で、ゴミ屋敷を扱っていくことを知った時も、ただ片付けるだけの内容に、なにがあるのだろうと疑問に思ったものだ。早々にネタはなくなるのではないか、と。
思えば、幼い頃住んでいたところでも、近所にゴミ屋敷はあった。テレビに出るほどの凄さはないが、それでも、近所の住人から、あそこはゴミだらけだね、といわれる程度には、その敷地内にいろんなガラクタと思しきモノが集積していた。
それでも、当時は、その一家を疎外するということもなく、私の妹も、同級生の女の子がいるということで、遊びに行ったりしていた。私もまだ小学生だったので、興味津々で家の中の様子を尋ねる。妹によれば、やはり散らかっている、ということだった。
しかし、今では広く知られていることだが、ゴミ屋敷の成因は、怠惰や、性格的だらしなさなどの簡単な問題ではないことが明らかになっている。ゴミ屋敷の番組をあまり期待もせず見ていた私は、そこに人生の色々や、精神的要素が、がっちり食い込んでいることを、はじめて知って驚愕した。
そうだったのか。
こういうことだったんだ。
確かに、小学生の頃の近所のお宅も、離婚した奥さんが出て行ったあとに、そうなっていったし、長男も就職に難儀していた。
まったく、なんて自分は、こうも浅薄なんだろう。
人の行動で理解できないと感じることは、大抵、自分が体験していないだけのことなのだと、思い知った。
例えば、凶悪犯罪にしろ、それまでは、状況が変われば自分が加害者になったかもしれないという可能性に怯える人を、SNSの波間に見ることがあっても、「なにを馬鹿な事を。絶対ないし!」と考えていたが、軽々に人を断じることは控えようと考えるようには、なった。
つまり、若いときに年寄りに感じていたような、曖昧さや、優柔不断さは、まさに、ここにあるんだろう。
若くて、故にまっすぐな自分は、そんなまあまあ的な対応を、甘い!と感じていたが、その寛容さは他者ではなく、自分自身も含めた人間そのものに向けられていたのだ。
そして、この事ですら、自分が年をとって、やっとわかるような境地なのである。
終わり
現在、「自分事典」を作成中です。生きるのに役立つ本にしたいと思っています。サポートはそのための費用に充てたいと思います。よろしくお願いいたします。