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子育ての愚痴

自分は、結婚もしていないし、子供もいない。
もとから、そういうことに対する思いは、他の女性より低かったことは認めるが、驚くべきことに、30代後半の頃は、こんな私でも苦しんだ。
結婚できない相手と付き合っており、身体的理由で子供もできないことはわかっていた。その状況を理解しているのに、焦るのである。
結構、苦しかった。
人と違う幸福感を持っていても、自分の子孫を作れないということには、心が激しく翻弄された。我ながらびっくり。
まあ、それも、完全に産めない年齢になれば、落ち着きます。

生来の、そんな気質のせいか、生まれてすぐの赤ちゃんから、成人目前などの子育て世代から、愚痴を聞かされることが多い。結婚していない、子供がいないにもかかわらずネガティブな印象の無いことが、相手に安心感を与えるようだ。
ネガティブじゃない、というそこは、本当である。
人というのは、自分の人生の核心について、語ることなどまずできない。
家族というものに対し、自分はそこそこ達観しているし、今現在は、私の核心でもなんでもないので、こんな程度は平気で書ける。

ただ、愚痴を聞いていて時々思う。
醸し出す私のポジティブは仕方ないけど、相手の持っていないものに対して、愚痴を言う、というのはどのような心理なのだろうと。
自分なら、例えば、狭い賃貸に住んでいる人に、広い持ち家は掃除が大変です、などとは言わない。言えないのではなく、言わない。そもそも意味がない。

それに、彼らは、何度も落ち込む。
こうした方がいいというアドバイスを求めていない、ということはわかっているが、それでもあまりに繰り返されると、心の持ちよう、みたいなことは返してしまう。
その部分が、キチンと響いているかどうかはわからないが、結構、サラッと流されるw

自分は、他者に愚痴を吐いて楽になる、という構造を持っていないので、そういうことが頻繁だと、面倒臭くなってくる。しかも、私自身、普通に人間なので、自分の人生に必死である、それなのにいちいち愚痴のネガティブなパワーを受け取ってしまい、一時期は、こっちの元気がなくなってしまって、ネガの威力を思い知った。
最近は、心の中に相手の愚痴は一切入れないで、応える時も、自分の人生の練習だと思って接するようにした。人間関係にも達観すればいいのである。

まあ、何が言いたいのかというと、比較は何の解決も生まないということを言いたかった。比較は意味がないということは、Twitterにすら溢れている文言で、それを言えば、わかっているけど、と返ってくる。子育てて悩んでいるのを傍観すると、他の子供や、親、家庭、祖父祖母、とまあ、ありとあらゆる要素での比較がもとになっている。で、わかっているんだけどねえ、と結構重めの愚痴をいう。

わかってない。
だから、何度も言っているのに。
わかっているならなぜ落ち込むか。わかっているのになぜ比較するか。
原因は外にないからだ。
そう思ってしまう自分の心をどうにかしないとさ。
でも、そういう人たちに一致している傾向が実はある。
それは「素直じゃない」と、これに尽きる。

あなたのために、自分にはないものの考察を、私はしている。
比較から逃れ得ないのなら、そこも思い至れよ、と思うけどねwww
ないものの考察が可能なのは、悩みは全て突き詰めれば同じものであろうという、まあまあありふれた理論だ。
つまり、自分について悩めばいいのだ。
比較に意味はないとわかっているのに、なぜ自分は比較してしまうんだろうと、そういう問いにすればいいのに、しない。
なぜしないか?
私の言葉を聞いちゃいないからである。

ああ、もしかしたら、持たざる私に聞いてもらうことは、そういう意味での比較だったのかもね。わかっていないのは私であった。しかも超ポジ全振りww
でも、彼らも本気で苦しんでいるのはわかる。
ただ、マジで素直じゃない。私の言っていることをできもしない理想論とか、実生活に意味のない正論とか思っているようだ。
少しくらいは私の言っていることを聞けよ、マジで思う。

彼らの思う解決は、周囲の状況を変えることであるという、それこそあり得ないことであることに、早く気づいてほしい。
素直になれば、今、瞬間的に解決するのに。

と言いながら、自分も他者から見れば、そういうことで苦しんでいるのだろうなあww

終わり

現在、「自分事典」を作成中です。生きるのに役立つ本にしたいと思っています。サポートはそのための費用に充てたいと思います。よろしくお願いいたします。