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艱難汝を玉に、しない

「かんなん【艱難】 汝(なんじ)を玉(たま)にす」

人は多くの苦しみや困難を経てはじめてりっぱな人間となる、という意味で哲学書などでよく用いられる語だ。東洋が語源のように思えるが西洋出典らしい。

このような語をやたら使う宗教者には要注意。
「神のようになりなさい、と聖書にあるからお前を苦しめるのだ」
そう言って一方的に暴力を振い続け、相手が死ぬまでとことん攻め続ける。
彼ら彼女らにとって「神の言葉」を体現する自分たちが何をしようともそれは「神の意志」であり、行為によってもたらされた結果は全て「神の最善」である。

相手が自分の努力で傷と向き合い自分を高めたことによって得られた栄誉も、このような者がハゲタカのように飛びかかり「神の栄誉=自分の栄誉」として語る。
相手が死に至った場合でも自分の暴力の結果を「神の最善」として処理する。

いつのことだったか。
とある子供が大きな事故に遭って両親がある教会へ助けの祈りを求めた。
ところがその教会のとある人は祈ろうとしなかった。
懸命の治療により子供は救命された、のだが、何のはずみでか非行に走ったらしい。
するとこの祈らなかった人はこう述べた。
「ほらね、この者のためには助かることより死んだ方がマシだったのだ」

祈らなかった人は現在でも「自分は神の声を聞く者」と公言してブログを綴っているらしい。起業してムーブメントも起こして本も何冊か出版なさっている。

きっとその人の言うことが正しく、全て神の最善として処理されていくのだろう。
誰かをどん底に落としてもそれは神の最善。
神は永遠の存在で、実際に苦労に苦労をかさね死後報われるケースも多いのだから。
相手が永遠の存在である以上、それが「神の言葉でない」証明しようと試みること自体が無駄な努力なのだ。「神の言葉」で暴力を振い続け、「神の最善」と叫ぶ者は常に勝利をつかむ。


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