「書く」のは、揺蕩う感情と向かい合うため。
土曜日、東京は雨。
窓から入ってくる風が少しひんやりしている。
「雨の音に似合う音楽、かけて」と旦那にお願いする。わたしは、お気に入りのミルで、豆を挽いて、コーヒーを丁寧に淹れる。
そうして、今日もnoteを書く。
毎日、更新するたびに、何日目だよと、noteがおしえてくれる。その度、じんわりと嬉しくなる。
今日も書けたこと、心のなかの何か曖昧なものをかたちに出来たこと。
書き始めの頃。
そんなに毎日書くことなんてあるのかな、と思っていた。多分、誰かに役立つことを、きちんと、ちゃんと書く、というようなことばかりを考えていたのだと思う。
でも、こうやって、毎日書き続けていくと、
あ、そんな気負いはここでは不要だな、と思えるようになるから、不思議だ。
感情を引き出すような、なにか特別なきっかけがあっても、なくてもいい。
例えば、旅行とか、誰かと素敵なお店で美味しいごはんを食べた、とか。
今はしたくても、そういう機会を、そもそもつくることができないけれど。
ただ、いつも自分の中にあるもの、浮かんでくるものに、目を向ければそれでいいんだ。
それは、結晶のように固まっていたり、ただそこにコロンと横たわっていたり、ふわふわ漂っていて色も形も曖昧であったり、しゃぼん玉みたいに消えてしまいそうだったり。時には、積み重なってミルフィーユみたいになっていたり。
感情を引き出すようなきっかけを、求める時もあるけれど、でも、すでにそこにある感情。
わたしのなかで毎日毎日生まれて、揺蕩う(たゆたう)感情。
今のわたしにとって「書く」という行為は、そういうものに目を向ける、見つめる、向かい合う、ということなんだ。
例えば、それを文字にする人がいる、言葉にする人がいる、絵にする人、音にする人、写真にする人、映像にする人、踊りにする人、かたちあるものにする人。
みんなそれぞれ好きな方法、得意なやり方で、自分の感情を表現しているということなんだ。
文章でも、絵でも、音楽でも。それは誰かの感情そのものだ。
いろんなカタチで、外に発せられた感情は、
五感を使って感じ取ることができる。そして誰かの感情と共鳴する。
絵を観たり、音楽を聴いていたりすると、あぁ、わたしのあの時の感情は、多分こんな色彩だったんだ、フレーズだったんだ、手触りだったんだ、と気づかされることがある。
それがまた、自分を見つめることにつながるし、誰かのそれを見つめることにもなる。
意識していなくても、いつも誰かの感情に触れながら、共感するし、心が震えるし、温かくなるし、涙が出るし、時には違和感を感じてみたり、それは何故だろう、どうしてだろう、と、そこから、自分のなかにまた新しい感情がうまれたり。日々は、ずっとそのことの繰り返しだ。
でも、だから、とても豊かだと思う。
自分の発したものによって、気づいて繋がり、広がっていくこともあるけど、そこにはどうしても限界がある。自分の枠は、自分だけでは広げられない。だから、人は、誰かの発するものに、触れたいんだと思う。
その道のプロから、経営者、わたしのような普通の人まで。
いまは容易に、時間も、場所も、国も、年齢も、職業も、立場も、環境も、すべてを軽やかにこえて、色んな人の感情に触れ、そして時には交わることができる。
だから、今日もわたしはこうして書く。
そして、誰かの感情に触れたいと思う。