新しいはじまりの、はなし。| vol.1
東京は久しぶりの雨。夜半から降り始めた雨の音がとても美しくて、静かで。ふとんに包まりながら遠くに聴こえる雨音をぼんやり聴いていた。あぁ、やっとそんな気持ちの余白もできてきたんだなと思った。
つい週数週間前、春からバンコクへ行くこと、しばらく休職することをここで報告したその矢先だった。当然といえば当然だけれど、タイへの渡が時期未定で延期となった。いつもは楽観的な私も今回ばかりはさすがに参った。どこを向いて、何を拠りどころに、どう進んでいけばいいのか。暗く深い海の底にいるようで、息苦しくても浮上できなくて、完全に自分を見失っていた。
でも、しびれていた指先の感覚が少しずつ戻ってくるように、ここでの新しい暮らしも整ってきたように思う、在宅勤務の間に間に。心の波もだいぶ穏やかになってきた。ここにきてやっとだ。凪いできた、水面が見えた、息ができる。
かわいそうだったね、大変だったねと誰かに慰めてもらうためではく、 あの時こんなことがあったよね、といつか笑い話にするために、ここに辿り着くまで、いろんなことを手放した自分を見つめるために、私が私であることを許し自信を取り戻し持ち続けるために、そして何よりも、新しいはじまりの証しとして、ここに綴る。
これは、この春にあった出来事。
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コロナの足音。
3月中旬、バンコク行きの準備は佳境を迎えていた。2DKの家のなかは、白い段ボールと粗大ごみシールを貼られた家電や家具でいっぱいだった。その合間に、大切な人たちとの食事会や息子の卒園式、現地小学校の入学手続き、現地住居の手配、休職の手続きと仕事の引継ぎ、年度のとりまとめ。目が回るくらい忙しかったけれど、海外での新しい生活が始まることへの期待と高揚感で胸はいっぱいだった。
そうこうしているうちに、新型コロナの感染拡大の規模と危機感は日増しに高まり、日が変わるたびに、刻々と状況が変化し始めていた。とはいえ、このころはまだ職場でも「そろそろ、テレワークのシフトも考えないとね」なんて話しているくらいだった。「まぁ、たぶん大丈夫かな…」3月半ばまではそんな感じだった。心のどこかでなんとかなるだろうと、正直思っていたし、周りもそんな風に思っていたと思う。
バンコク行きの延期。
そして、その日はやってきた。noteで休職の挨拶をしたその翌日だった。3月18日、主人からすべての国への業務渡航禁止措置がとられること、タイへの派遣再開時期未定であることが告げられた。それは、しばし日本に留まりなさいということ。正直、頭が真っ白になった。仕事も、これからの暮らしも、全てが同じタイミングでひっくり返った。すでに3月末に退去予定だった現住居、この引っ越し繁忙期に運送業者含め今から新しい家を急ぎ探さなければいけない。国内では子供小学校入学手続きも学童の申し込みも当然していない、これから手続きをして間に合うのか、いや、それにはまず先に家を決めなければ小学校がどこになるのかも分からない。いろんなことが一気に頭の中をかけめぐって、でも、どこか怖いくらい冷静な自分もいて。主人には、急ぎ家探しと運送業者の手配を、私は上司に事の経緯を報告し休職の取りやめ、出国前日に予約していた空港内のホテルのキャンセルやすでに支払いを終え海外への引っ越しを依頼していた業者への連絡、入学可能性のある複数の小学校への感触伺い(このタイミングで入学可能なのか)など、それぞれ分担して対応することにした。
ここを離れるということ。
子供のことを考えれば、学区を変えることなく保育園の友達と同じ小学校に通えるよう引き続きここに住みたいとおもった。けれど、この部屋は4月からの入居者がすでに決まっており、また同マンションの別室もすべて埋まっているとのことだった。家のことは主人に任せていたはずだったけれど、焦りから通勤電車のなかで、近隣のマンションやアパートを必死で探しては主人にLINEした。今思えば、子供のためといいながら、じつは私がいちばんこの辺りに住むことにこだわっていたのだと思う。新しい土地に住むのは、精神的な負担も大きい。こんな状況だから、なるべく生活リズムを崩したくなかった。何よりも、こんなにここが好きな場所になっていたんだと気づかされて、涙が出た。
でも、もういまはそんなことも言ってられない、まずは住む家を決めること、子供の学校の手続きをすることが先決だ。自分のこだわりは捨てよう。執着しても仕方がない。一連の作業のなかで主人とも口論する日もあったけれど、そのあとは委ね、まかせることにした。
新しい家。
ほどなくして、家が決まった。同じ区内ではあったけれど、住み慣れたこの場所から離れることになった。今後、またバンコクへいくこと、日本滞在がどのくらいになるのかわからないこと、予想外の出費が発生することなどを加味して、古いけれど民間より比較的安価な公務員宿舎への入居を決めた。主人は主人で、私がこの近くに住みたいと思っていることを重々知っていたし、当然、息子のことも考えて、その公務員宿舎だけでなく、この近隣の民間アパートも数件内見してくれていた。だから、もうそれで私は十分だった。家を探すにあたり、近年、公務員宿舎自体も少なくなってきている中、このタイミングで空き状況を確認し、貸与の手続きを早急に進めてくださった人事の方々にも心から感謝した。
住む場所が決まって正直ほっとした。来週の今頃自分たちはどこでどう過ごしているのか。住む場所が無くなり不安を感じること、こんな経験は初めてだった。何となく事態が呑み込めていない様子の息子。無理はない、私ですらこんなに混乱しているのに。彼にもきちんと説明しなければ。タイへ行くのが少し先になること、それまでここから一度お引越しをして別のお家に住まなければならなくなったこと、新しい学校に入学すること。私の心の中はずっとざわついていたけれど、努めて明るく優しく丁寧に、説明することができたと思う。彼は、わかったよ、と小さく、コクンとうなずいた。それが3月24日。退去予定の丁度1週間前だった。
(つづく)