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新しいはじまりの、はなし。| vol.2

これはこの春、私にあった出来事。
かわいそうだったね、大変だったねと誰かに慰めて貰いたいわけではない。
それでは、決して満たされないこと、解決しないことを知っているから。
書き綴るのは、私自身が過去に光をあて、そしてすべてを手放すため。
これは、私の新しいはじまりの証し。

前回までのおはなしはこちら

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優しさに触れて。

 家が決まった。その連絡を夕方に受けて、急ぎ学区内の小学校と区の学務課の担当へ電話連絡をした。国内での入学準備や手続きは何ひとつしていない私たち。はたして、こんなタイミングで受け入れてくれるのだろうか。とにかく不安だらけだった。

「大変でしたね、大丈夫ですから。どうぞ安心なさってくださいね」

冒頭のその一言で、はりつめていた気持ちが、するっと緩んだ。
主人に一報を入れたあと、オフィス1階の照明が落ちた暗い待合スペースのソファーで、ひとり静かに泣いた。よかった、よかった…。入学できることはもちろん、副校長先生や区の担当者の丁寧で温かな対応にも救われた。

 とはいえ、入学手続きや4月6日に予定している入学式の説明などをしたいので、一度、面談に来てくださいとのこと。日程調整をし電話を切った。区役所の担当の方もとても親切で転居届の際に、就学証明書についても、窓口で手続きができるように準備しておきますね、と手配をしてくれた。本当にありがたい。
 家も決まった、学区は変わってしまったけれど小学校に入学できる。
この日はすっかり力が抜けて料理する気が起きなくて、ケンタッキーを買って帰った。段ボールに囲まれながら、家族3人でわしわし食べた。


春から通う小学校。

 正直、この頃は仕事も手につかなかった。モチベーションも上がらない。生活整わないのに、到底、仕事に打ち込める状態ではなかった。
もちろん、新型コロナの感染拡大の影響で、私のフィールドである観光の分野は、日本のみならず世界的にもは大きな打撃を受け、瀕死の状況だった。
でも、その時の私といえば、何をしても、手触りがない、味や匂いもしない、ただただふわふわ浮いて、足も地についてるのかな、というような具合だった。「気が抜ける」とは、文字通りこういう心理状況なのだなと、実感した。

 3月27日。仕事をお休みして、春から通う小学校を息子と二人で訪ねた。
その学校は、創立100年を超えた歴史ある学校だった。建て替えをしているせいか、とても明るくきれいだった。門扉のインターフォンを押すと事務の方が優しく案内してくれた。副校長や他教員の丁寧な対応を思い出して、いい学校だなと思った。
 案内された事務室で、先生は、早速折り紙を始める息子に目を細めながら言った。
 「昨日は卒業式だったんです、6年生を送ったあとなので、新1年生を見るとかわいいなぁって感じますね。学校楽しみにしててね」
 「学校も今回のことで、いろいろと大変な状況の中、このようにご対応いただきありがとうございます」
 そうなのだ、臨時休校で早めに春休みを迎えた学校。子供の姿もなく静まり返った校内。先生方や関係者の方々のご苦労を考えると申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
 すでにほかの保護者たちは、提出済みであろう膨大な書類に、ざーっと目を通す。入学式の次第、通学路の確認、入学に備えて準備するもの。色々と買い揃えるものがありそうだ。タイの小学校には購買があるそうで、荷物にならないようすべて現地で買う予定だったため、ほとんど何も準備していなかった。
 面談が終わったあと、校内を少し案内していただいた。教室と廊下の間に壁がない開放的な空間。生徒たちがお世話しているモルモット。廊下ですれ違う度、優しく声をかけてくれる先生方。「みんな優しかったね!」と、息子が言った。その様子を見て少し安心した。


懐かしの公務員宿舎。

 そのあと、通学路の確認と、まだ写真でしか見ていなかった新しい家を見に行くことにした。鍵はまだ受け取れていないので、この日は外から見るだけだ。
 辺りには、スーパーやホームセンター、おいしそうなパン屋さん。近くには郵便局もあり、生活するには困らなそうだ。新しい住まいは、私よりも年上の築ウン十年の公務員宿舎。「ぼろーーーー」トトロのメイとサツキみたいにはしゃぎながら息子が叫んだ。ちょ…、止めて、住んでる人がいます、というか私たちもこれからここに住みます。

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たしかにボロい…。

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 北海道に住んでていた頃、ずっと公務員宿舎にお世話になっていた私。
異動のたび、2、3年で引っ越しを繰り返し、それはもう道内の色んなところに住んだ。ガス式の風呂窯(通称・カチカチ)、エレベーターのない階段。照明器具、カーテン、ガスコンロ・給湯器は多分無いので(みんな引っ越しの度にこれらを持ち歩く)買わないといけない。いま時期はまだ寒いから電気ストーブもいるかも知れない。
 令和時代に昭和な暮らし。宿舎真向かいのお宅の庭で咲く見事な桜が、私たちを優しく出迎えてくれた。七分咲きといったところだろうか。来週ここに越してくる頃には、きっと満開かも知れない。はからずも、今年も日本で桜を見ることができた。こればっかりは、コロナのおかげだなと思い感謝した。帰りに、近くのホームセンターで、色鉛筆、ノート、ぞうきん…など、いただいた手引きに書いてあった入学に必要なものを買って帰った。

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最後の週末

 3月28日。ここで過ごす最後の週末。当初、新潟の実家に置きにいく予定だった愛車は、車検を終えて我が家に帰ってきた。料理も少しずつ縮小し、フライパンや鍋なども段ボールに詰めていった。この辺は長年の引っ越し経験が役に立つ。冷蔵庫の食材管理もスケジュール通りだ。ひとつ想定外だったのは、この時期こぞって、トイレットペーパーなどの日用品が、連日買い占められていたこと。気づいた時にはトイレットペーパーが1ロールしかなくて、さすがにドキッとした。
 持っていくものと捨てるもの。今使っている家具や家電は、結婚した時に買ったものやそれぞれ独身時代から使ってるものがあったけれど、タイにはほとんど持っていかず、ほぼ処分する予定だった。なので、ほとんどの家具は、夜な夜なマンションの粗大ごみ置き場に運んでいたのだった。でも、いくつかのものは、引っ越し先でまた使うことにしたので、本棚など、これまた夜にこそこそと、粗大ごみ置き場から部屋へ運びなおした。なんとも空しく複雑な気持ちだったけれど、仕方がない。
 3月29日。この日、東京は雪だった。せっかく咲いた桜も、凍えて寒そうだった。あそこの桜は散ってしまっただろうか。宿舎の下見に行ったときに、枝が折れて道に落ちていた桜を、息子が拾ってきた。小さなガラス瓶に生けてお籠り花見をした。ここで淹れるコーヒーもこれで最後だ。いつも引っ越しの時はそうだった。食器や鍋は片づけても、コーヒー道具だけは最後まで飲めるように、最後の最後までキッチンに置いていた。

(つづく)