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左利きの彼に恋をする

世の中の人が、学歴とか年収といったステータスや外見の造形美に心を奪われるように、わたしは左利きの人に軽率に惚れてしまいそうになる。

それには明快な理由があって、わたし自身が左利きだからである。

正確に言うと、元・左利き。というのも、書きものだけは右持ちになるよう躾けられたからだ。
おかげで、メイクをするとき、アイブロウやアイラインは右は右手、左は左手でそれぞれすいすい描けるところだけは器用っぽくなった。

大体のことは左右どちらかを使い分けているから両利きというわけではないし、生粋の左利き・右利きでもない。だから、わたしは左利きと右利きのハーフだと名乗るようにしている。

しかし、これがやっかいなのだ。

わたしの頭は常に混乱状態にある。
例えば、咄嗟にボールを投げるとき、どちらの手で投げればよいのか途端に分からなくなる。最適な利き手が選べずにプチパニックになりながらも「こっちだ!」の感覚を信じて投げてみると、だいたいは真下にぼとりと玉は叩きつけられる。左利き勢力と右利き勢力が拮抗しているためなのか、利き手を見失いかけてしまっている。

何気に困るのが、左利きを隠していたの?みたいな扱いをされること。ペンを右持ちしているから右利きのなりをしているのに、食事の際に左持ちした箸を目撃すると驚きがひとしおらしい。決まって「左利きだったの?えっ、じゃあ、ハサミは?ボールを投げるのは?」っていちいち聞かれる。先述の通り、自分でもよく分かってないから答えるのが超絶難しい。なにより、正直、めんどう。そのくだり、2738742回はやってんだ、こっちは!ってやさぐれちゃうね。

あとは、みんながギャル文字や丸文字といった可愛いフォントを習得して個性を発揮していたころ、わたしは力の入らない右手でへろへろと文字を綴るのが精一杯という程度だった。これはきっと利き手を変更された代償に違いない。一生懸命に書いたプロフィール帳も交換ノートも、ひどく乱雑な文字でしか生成できなかったことを根に持っている。

わたしが困っているのは、右手を使うことを強いられたせいで生じる弊害に対してのみであって、左利きであること自体は至極誇りに思っている。おまけに、左利きの人を見るとなんとなく惹かれてしまうという性まで持ち合わせている。

この左利きは祖父、父からの遺伝。
そう、わたしは三代目である。
三代目といえば店を潰しがちらしいので、このこまめが後世に残すべく気を引き締め、青村家に左利きの血を脈々と流していこうという所存である。

それで、我が子に左利きを継がせる確率を高めるために左利きの伴侶を捜していて、出会うやいなやロックオン!というわけではない。

わたしが左利きの人を魅力的に思うのは、親近感かもしれないし、中途半端な利き手を持つわたしのどうしようもない憧れかもしれないけれど、とにかくもう本能みたいなものだ。左利きの人がごはんを食べる姿ってなんかいい。セクシーにさえ思える。そういう感覚もあるし、左利き同士だとまとまりがよく、物理的に生きやすい部分がたくさんあるとも思っている。

複数で食事をするとき、座る場所に気を遣う。なるべく隣のいない左端をキープしておきたい。左利きの人の隣に並ぶことができれば、ぶつかる心配をしなくて済む。

日用品が左利きのもので揃えられていると、それだけでQOLと作業効率は劇的に向上する。
ハサミが楽々真っ直ぐ切れたら苦手じゃなくなるから、ゲーセンでプリを切り分けるとき、ガタガタにしてしまった前科持ちのために一生回ってこなかった切る係じゃんけんに参加できるはずだ。
お店のスープをよそうとき、横口レードルのお玉でなければ、そのまま注いでも持ち替えてもこぼしちゃうことがなくなる。

大袈裟に言えば、左利き用のものに出会うとあまりの使いやすさに文明を感じる。そのとき、見殺しにしていた生きづらさにようやく気づくことができる。
右にネック、左にボディというスタイルのギターもあるんだ、うまく返せない先端が斜めのフライ返しはそもそも扱いづらい作りだったからなんだ。いつのまにか適用しようとしていた不便に、便利なものを知ってから気づいた。
それが"当たり前"だったから、使用者が右利きであることを前提に作られているために感じる不便を認識することもなく、適応せざるを得ない環境に慣らされ続けている。右手を使う習慣があるわたしでさえ、こう思う。全てにおいて左利きの人の苦労はどれほどのものだろう。

一方で、もちろん、左利きであるという恩恵を受けている。学生時代の運動部でレギュラー入りしたことがあるのは確実にサウスポーという特異さを生かした技を編み出せたからだと思う。
ただ、初めは右持ちで教えられて、あまりにも力が入らなくて左持ちに変えたという経緯があって、そのことでみんなに遅れを取っていた。自分の最適な利き手が分からないことが要因だけれど、何事においても初めから左利き用があてがわれていたとしたらわたしはもっと……と思わずにはいられない。

右利きが絶対という世の中ではないから左利きは案外多いし、不便は感じても、明らかな差別を受けたことはない。むしろ、どんどん左利き用のものが登場して便利になってきている。それなのに、ネガティブなところばかりが目についてしまうのはなぜだろう。だって今だに、左利きを右利きへ変える行為を「矯正」や「直す」と言い表すのが一般的だ。わたしたちは出来損ないではないのに、と違和感でもやもやする。

やっぱり、右利きベースでデザインされた世界では、「ぎっちょ」と呼ばれたりする左利きはどうしてもマイノリティになってしまう。そこには確実に困ることが存在していて、困ることが"当たり前"のこととして生きている。大きな世界の話ではなく、差別されている!と訴えたいわけでもない。でも、もう少し便利な環境ってどんな感じかな、もっと生きやすくなるのかな、と考えることがある。

それは結局、駅の改札を通るときにピッてやったり、自販機で小銭を入れたりするのやりづらいよね、包丁を使うと危なっかしく見えるって言われるよね、パソコンのマウスが左にあったら便利だよね、そういう小さなあるあるを分かち合ったり、"当たり前"に埋もれていた不便に気づくきっかけを与え合えたりする存在があれば、わたしなりに感じている不便やネガティブな感情は多少なり解消できるかもしれないという思いに落ち着く。

わたしが左利きに惹かれるのは、そういう"当たり前"の生きづらさみたいなものを共有して生きていきたいからなのかもしれない。

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