運命を引き受けよう

「運命を引き受けよう」
この言葉に出会ったのは社会人になって間もないころだったと思う。もう20年前と言っても大げさではなくなってきている。そんなに経ったなんて自分では信じられないけれど。

佐々木常夫さんの本の中の言葉だ。
正しくは佐々木さんのお母さんの言葉。
それは佐々木さん自身の人生の支えになっていた。苦労の多かったお母さんは困難な状況でも笑顔で「運命を引き受けよう」と言っていたらしい。

20代の私にはわかるようなわからないようなところがあった。良い言葉だなぁ、くらいには感じても、なんとなく自分の気持ち(共感のような納得のような)全部は言葉に乗せられないような。

自分の思いの通りにならないことも多い人生での出来事をなんでも引き受けるなんて無理、いや難しいでしょ、と思っていた気もする。

「なるようになる」これは私の母がよく言っていた言葉。

私が困難な状況になるとよくこう言った。
母もまたわが子を二人も亡くしその他もろもろあった人生なのに、まぁ強くて優しい人だ。いやもろもろあった人生だからそんな人になったのだろうか…わからないけれど。でも「なるようになる」も私にはなんかつかみきれない、自分のもの(支え)にしきれないところがあった。

夫もこれまた偶然というか「なるようになる」とよく言う。いや、私はマザコンなので偶然ではなく母寄りな人を選んでいるのだろう、たぶん。

「運命を引き受けよう」も「なるようになる」もどこか私には無理だなと思ってしまっていた。

この二つの言葉、行きつくところは「覚悟」なのではないかと思う。

「腹をくくる」ということ。

「覚悟」「腹をくくる」を意識することが増えたのは私にとっては「育児」になる。子どもの人生に起こることは自分のこと以上に自分の無力さを感じることも多い。子ども自身でないとできないこと、乗り越えられないことの多さよ。ただただその展開を見て、気持ちばかり波立つ。

そうこう「ハラハラドキドキ」しているうちに「なるようになるんだから」「腹をくくって」「運命を引き受けよう」そんな心境になってきた。少しは肝が鍛えられてきたのだろうか、不思議なものだ。365日そう心から思えているわけではないけれど、自分の底に静かに居てくれているのだろう、たまに顔を出してくれる「覚悟」なのだ。

さてなんであの頃の自分には「運命を引き受ける」言葉がかすってしまっただけだったのだろうか。今思えば、自信のなさだろう。何があっても自分が生きていく自信。自分の生命力への自信。

それもまた子どもを通して気づかせてもらった気がする。

以上、おわり

な話なんだけれど、もう少し続ける。
前回の投稿から4か月空いた。これも自分にはよくあることで。プツっと言葉が浮かばなくなる時がある、だいたいそういうときは何かに集中していたり、何かにエネルギーを消耗していたりしている。

たまに夜中に目が覚め、二度寝ができなくてあきらめてもう起きてしまう日がある。今日もそんな日だったので「ひきこもり先生」と「silent」を観ていたら、ひさしぶりに言葉が浮かんできてnoteを書きに来ました。

「ひきこもり先生」は大人は子どもを信じて(子どもの)ホーム(安心な場所、安全基地)であることの大切さを描いていた。いや大人と子どもの関係に限らない。ひとには安全基地が必要だ。

「silent」は
この物語は運命を引き受けきれないつらさ、葛藤を描いているところが大きいように思う。簡単に引き受けきれないこともそれぞれに起こるのも、そういうこともあるよねって思う。私も最近また数えきれないほどの何回目なんだけど「なんで…」と思った。抱えきれないほどのことが起きるとどうしてもそう思ってしまう。

もっと話を逸らせば(逸らすのもいつものことなんだけれど)、silentの主題歌「Subtitle」の歌詞、「言葉はまるで雪の結晶」はあっぱれだ。あっぱれって私が使うとなんか安くなってしまうか。私は名物コメンテーターさんではなかった。ここはふざけてはいけない。言いたいことは「言葉は私にとってもとても繊細なものだからすごく共感した表現だった」なのだけれど、なんとなくこの文章に繊細さが現れてない気がするから、話を逸らしてまで書いたことをちょっと後悔したけれど、このまとまりのない文章のままに残しておこうと思う。

そして、強引に文章をおさめるならスパッと「引き受ける」ことばかりでなくて、それはそれでいい。時間をかけていいんだ。葛藤し、なんで…も、どうしても起こるだろう。ゆれながら生きる。

底に眠っている「言葉」がお守りだ。


noteで出会ったみなさま、
今年もありがとうございました。
少しでも多くの方にとって来年がよき年でありますように。

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