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大阪市の神社と狛犬 ㉒住吉区 ①住吉大社(その2)~幻の玉乗せ狛犬~

大阪市住吉区の地図と神社



大阪市には、現在24の行政区があります。住吉区は、大阪市の最南部に位置し、大和川を隔てた南は堺市になります。この辺りは、古代には「すみのえ」と呼ばれた海に面した地域で、海上安全の守護神として名高い住吉大社とともに栄えてきました。また、大阪と泉州・紀州を結ぶ紀州街道や熊野街道などの交通の要衝でもありました。

住吉区には由緒ある古い神社がいくつもありますが、まずは摂津国一之宮である住吉大社へお参りするところから始めたいと思います。大阪人にとっては「すみよっさん」と親しまれている神社です。今回は住吉大社の2回目(その2)になります。
住吉大社のすぐ前の道路には、阪堺線の「住吉鳥居前駅」があります。また、この道路を挟んで西側に南海本線「住吉大社駅」があり、交通の便に恵まれています。

住吉大社の狛犬については、すでにこのnoteに「住吉大社の狛犬」シリーズをマガジンにまとめて発表しています。今回は「大阪市の神社と狛犬」シリーズの中の一神社として紹介したいと思います。内容的には重なる部分が多いことをご理解ください。


住吉大社

■所在地 〒558-0045 大阪市住吉区住吉2-9-89
■主祭神 底筒男命そこつつのおのみこと中筒男命なかつつのおのみこと表筒男命うわつつのおのみこと息長足姫命おきながたらしひめのみこと(神功皇后)



住吉大社には10対を超える狛犬が安置されている。上の境内図に赤色の▲で示した場所には狛犬1が安置されているが、かつてはこの場所に、今回紹介する狛犬2があった。



狛犬2(先代の狛犬)

■奉献年 嘉永二己酉年四月吉日再建(1849)
■作者  備前 石工 喜三郎
■材質  砂岩
■設置  住吉公園東端


狛犬2というのは、現在設置されている昭和52年(1977)奉納の岡崎現代型狛犬(狛犬1)の前に同じ台座の主であったはずの、今は亡き狛犬である。
この先代狛犬の台座には、奉献年だけでなく、奉献者や取次人の出身地と名前、そして小さく石工の名前も彫られていて貴重である。
まずは、その台座から紹介しよう。


阿形狛犬の台座(基壇)


写真の阿形狛犬の上段の台座には、「伯州根雨 松田屋伊兵衛」と記されている。「伯州」は伯耆国で、現在の鳥取県に当たる。
一方、吽形台座の同じ場所には、「大阪薩摩堀 西村屋愛助」と彫られている。この2人が先代狛犬の奉献者であろう。2人の関係はわからないが、海の神である住吉神への信仰は、日本各地の廻船問屋や商人を結びつけていた。


また、阿形狛犬台座の下から2段目の台座(基壇)の左端には、この狛犬の作者と思われる石工の名前が記されている。



備前 石工 喜三郎」とはっきり読むことができる。江戸時代末期に伯耆国と大阪の商人が奉納した狛犬は、なんと備前国の石工の作だったのだ。
これには驚いた。住吉大社の北の鳥居前には備前焼(伊部焼)の狛犬がいるが、備前の石工の作品がわざわざ大坂の神社に奉納されるということは聞いたことがない。
しかし調べてみると、近世には備前の児島郡を中心にすぐれた石工集団があったようだ。彼らの稼業は、おもに干拓の樋門や波止場、台場などの港湾普請と石橋普請だったが、このような海洋土木に携わる備前石工の中には、石造狛犬を製作する者もいたであろう。たとえば次のような例がある。

幕末に、現在の函館市に築造された五稜郭の石組は、備前の石工である井上喜三郎が手掛けたものだが、その五稜郭が完成した元治元年(1864)に、鬼門を守護するために函館東照宮が建立された。そして東照宮の御影石の大鳥居や石造狛犬は、この井上喜三郎によって造られた。北海道にはまだ、本格的な狛犬を造る石工がいなかったのだろう。それにしても、「喜三郎」という名前が一致していることに興味がひかれる。同一人物であった可能性も、十分考えられるのだ。
函館東照宮は旧幕府軍と新政府軍との戦い「箱館戦争」の戦場となって焼失したが、その後再建されて北海道東照宮となり、井上喜三郎の狛犬は吽形のみ今も残っている。写真は中尾仁彦氏の「函館ぶら探訪」から借用した。


中尾仁彦氏撮影


ところで、いちばん気になるのは、古い台座の主であった先代狛犬の姿である。この謎を解く鍵が、「大阪教育大学紀要」(Ⅰ人文科学 第26巻 昭和52年発行)にあった。


大阪近郊の石製狛犬の研究

大阪教育大学の美術科に、木村茂という先生がおられた。専門は版画のようだが、早くに狛犬の研究をはじめられ、その成果を「大阪教育大学紀要」に、「大阪近郊の石製狛犬の研究」(第1報~第5報)として昭和45年から52年に発表された。



当時はまだ、狛犬を研究している人はほとんどいなかった。私が狛犬に興味を持ちはじめたのは、この紀要が出版された10年ほど後のことで、たまたま最初の3冊を入手した。しかし、住吉大社の嘉永2年の狛犬の記事は、5冊目の紀要(昭和52年発行)の「大阪近郊の石製狛犬の研究ー弘化元年(1844)~慶応四年(1867)ー」(第5報)に載せられていたので、それに気づいたのは、ずっと後のことだった。

昭和52年(1977)というのは、ちょうど住吉公園に移設された嘉永2年の狛犬(狛犬2)に代わって、新しく現在の岡崎現代型狛犬(狛犬1)が奉納された年に当たる。木村氏が本稿を執筆するにあたり、嘉永2年の先代狛犬と実際に出会っておられたことは明らかで、その証拠に、木村氏は写真入りで、この狛犬について次のように述べておられる。

C 備前派
1 住吉神社狛犬(住吉区住吉町 嘉永二 水 備前石工 *善三郎 写⑳)
古生代の爬虫類を思はす狛犬である。吽形は右前肢の甲に玉をのせて捧げ、阿形は子犬を左前肢を上げて逆さにぶらさげている。この形は中国の宋の狛犬をまねたもので、過去の大坂の石製狛犬になかった型である。しかし、眉、目、耳、鼻、口は天保十二年の大坂屋与三兵衛作の御机型と様式が同一であり、耳の下に四個の巻毛と一つ残った波毛も、巨大な蹠趾も御机型である。結局御机型の石工が備前様式を取入れたのか反対に備前石工が御机型をまねたのかこの辺は岡山県をしらべてから解答を出す必要がある。   (*「善三郎」は「喜三郎」の誤りだろう)


その後どんな「解答」が出たのかどうかわからないが、この木村氏の文章から、嘉永2年の狛犬が、いわゆる「浪速狛犬」とはまったく異なるスタイルの石造狛犬であったことがわかる。「吽形は右前肢の甲に玉をのせて捧げ、阿形は子犬を左前肢を上げて逆さにぶらさげている」という記述は、特に注目に値する。そして何よりも貴重なのは、この狛犬の写真が掲載されていたことだった。



この玉乗せポーズは、とても珍しいものである。大阪では、堺市の開口神社と大阪市の豊崎神社にある2例だけだ。開口神社の玉乗せ狛犬は文久3年(1846)の奉納で、この住吉大社の玉乗せ狛犬よりも3年先輩になる。玉乗せ狛犬は他府県でも少なく、そのルーツは出雲地方だとされている。


幻の玉乗せ狛犬発見

木村氏が出会った嘉永2年の玉乗せ狛犬は、「大阪近郊の石製狛犬の研究」(第5報)が世に出た昭和52年(1977)に、それと入れ替わるように撤去されてしまった。その間の事情は、「大阪市の神社と狛犬 ㉒住吉区 ①住吉大社(その1)~先代の台座に座す巨大狛犬~」ですでに述べたところだ。
その後この狛犬がどうなったのか、破損状態がいかほどのものであったのかなど、まったくわからなかった。木村氏が最後の目撃者であったのだろう。

ところが、思いがけない巡り合わせがあった。平成も残りあと2日という平成31年(2019)4月29日、狛犬同好の仲間と住吉大社を訪れたときのことだった。
住吉大社には多くの境内社があるが、そのうちの一社が大海神社だ。住吉大社のいちばん北側に位置し、社殿の西側には独自の参道がある。社殿に続く階段下の鳥居前には、文化七年銘の浪速狛犬が安置されている。
その近くに、破損した石灯籠をはじめ、不要になったさまざまな石材が植え込みの中に雑多に放置されている場所がある。
その中に、かつて狛犬であったと思われる無残な石塊を発見したのだ。



横たわった石塊はかなりの大きさだ。縦長の胴体と頭、そして枝分かれしたような尻尾。体や尻尾の毛並は、表面がほとんど摩耗してほんの一部しか残っていないが、頭上のたてがみは確認できる。反対側に回ってみる。



顔の左半分が地面に埋まっている、後方になびく大きな垂れ耳、卵のような大きな目、渦巻く眉の毛、うめくように閉じられた口がはっきり残っている。目の上の毛渦が、まるで目を回して倒れてしまったように見える。顔の右頬に鞠のような玉がある。その左に見えているのが右前肢の甲だろう。木村氏が「吽形は右前肢の甲に玉をのせて捧げ」と記しておられた吽形狛犬がこれであることは、もはや間違いない。





まさに大発見だ! 近くには阿形狛犬であったと思われる石の塊や丸台座もあった。それにしても無残である。かつては神域を静かに守っていた聖獣の末期の姿がこれだと思うと、かわいそうになる。

この発見によって、「幻の先代狛犬」は幻ではなくなったが、神社によって処分されてしまった「元狛犬」に対して、私たちができることは何もない。せめて手を合わせて「ご苦労さまでした」と労い、こうして記録にとどめることが精一杯であろう。




謎は続く

住吉公園の古い狛犬台座にまつわる狛犬推理は、これで一旦終了する。しかし、実は謎がすべて解けたわけではないのだ。台座に記された紀年銘にもう一度注目しよう。

嘉永二己酉年四月吉日

この「再建」の2文字はどういうことだろう。素直に受け止めれば、「嘉永二己酉年四月吉日」に、それ以前の狛犬に替わって新しい狛犬が奉納設置されたということになる。すなわち、この台座が設置されていた元の場所には、かつては先々代の狛犬がいたのだ。それは不思議でもなんでもないことだろう。
しかしこれ以上は何の手がかりもない。想像力を巡らすのは楽しいが、今回はこの辺りが限界である。

住吉大社の手前で、長々と時間をとってしまった。次回は正面の一の鳥居まで進んでみたい。




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