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穏田神社と不思議狛犬③

拝殿前の石造狛犬

渋谷区の穏田おんでん神社と、不思議な狛犬について①と②で書いてきました。小松侯爵邸から移設されたという不思議な狛犬は、実際は石獅子で、もとはどこにあったものなのか、今のところわからないままです。

今回は、拝殿前にある魅力的な石造狛犬をご紹介します。

前回も書きましたが、穏田神社は、昭和20年5月の東京大空襲で神輿庫を除いてすべて焼失しました。昭和25年に、小松侯爵邸から邸内社や狛犬などが払い下げられて、神社の施設が再建されていきます。
その後、平成8年(1996)に全面的な改築を行い、平成10年(1998)に社殿や社務所、神輿庫が新築されました。写真の社殿は、その時に建設されたものです。

拝殿前にずんぐりとした狛犬が安置されています。

タテ・ヨコがほぼ同じサイズの直方体の石材から彫りだしたように見えます。狛犬本体に比べると、「奉」「納」と彫られた第二台座が小さいですね。第三台座には、左右とも次のような発起人の名前が刻まれています。
「千駄ヶ谷町 穏三番組」
氏子の組織の名称でしょうか。
もう少しそばに寄って、狛犬の姿を観察してみましょう。

狛犬に接近!

もう一歩近づきます。

とても精緻に彫刻されています。
顔の横や後方の巻毛とその下の流れ毛、前方に大きく流れる尻尾など、毛並みの美しさに圧倒されます。
向かって右の阿形の前肢の下から子どもの頭が見えます。左の吽形は、前肢で玉(鞠)を押さえています。「子取り・玉取り狛犬」と呼ばれる一対です。

正面から見たときは、顔のひねりがあまりわかりませんが、それぞれ斜め前方に顔を向けて坐しています。
普通、狛犬が座っている第一台座は、狛犬本体と同石で造られます。脚や尻尾が台座からはみ出しています。
左右別々に、もっと大きくして見てみましょう。

顔のつくりに特徴がありますね。横長の扁平顔で、顔のほとんどが口です。

目や鼻は、口の上に乗っかっているように見えます。阿形は、上下の歯までしっかり彫り込まれています。吽形は2本の牙が出ています。顎髭も丁寧に彫られています。
微笑ましいのは、阿形の親の前肢の間から、子どものお尻がのぞいていることです。次の写真を見ると、それがよくわかります。
プリッとしたお尻に、一人前に三つに分かれた尻尾もついています。子どもの頭の方をもう一度見ると、右前肢で玉を持っています。

巻毛の渦の巻き方や、毛先をひねりながら流れる毛など、作者が丁寧にこの狛犬を造ったことがわかります。足先の2本の溝を彫った先の爪、玉(鞠)に描かれた線刻も同様です。台座には、左三つ巴の神紋も彫られています。
美しい尻尾の写真も見ておきましょう。

中央から左右に広がり、前方へ流れる「尾流れ型」の江戸狛犬の伝統を受け継いでいます。

狛犬の奉献年と作者名

こうして見てくると、気になるのは、この狛犬がいつのもので、だれが造ったのか、ということです。台座の反対側に回ると、それも記されていました。

左:阿形台座名  右:吽形台座名

奉 納:大正十四年九月吉日
請負人:佐藤 茂
彫刻師:清水翠巖
石 匠:大杉定吉

今からほぼ百年前の、大正14年(1925)奉納の狛犬でした。
大阪の浪速狛犬を長らく見てきた私にとって、東京(関東)に明治~大正・昭和のすばらしい狛犬がたくさんあることは驚きです。江戸狛犬の伝統が、連綿と受け継がれている証拠が、この穏田神社の狛犬にあります。

神社の参道や社殿の前に安置されている石造の狛犬は、夏の日差しや風雨にさらされ、耐久性にも限界があります。それゆえ、現存する古い狛犬は、歴史的にも文化的にも、価値が高いと思います。しかし、それは明治以降の近代の狛犬の価値が低いということではありません。この穏田神社の大正狛犬が、そのことをよく証明しています。

台座に彫られている彫刻師や石匠の名前の人物がどんな人だったのか、今は知るよしもありませんが、よくぞこの狛犬を後世に残してくれたと思います。
一つ気になることがあります。江戸時代の狛犬の作者は、普通は「石工」、まれに「石匠」と書かれていますが、この狛犬の台座には、「請負人」以外に「彫刻師」と「石匠」の二人の名前があります。どのように役割分担していたのでしょうね。



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