見出し画像

読書感想文など。

ども。
毎度、院長です。
拙者はいつも通り、特になんということもない日常生活を粛々と送っておる次第ですが、皆様におきましてはいかがお過ごしでしょうか。
ところで、この時期になると、人によってはすでに来年の手帳を購入していたり、もしくはこれから探していたりするのではないかと思います。
拙者は携帯電話すら携帯しそびれたり、携帯すること自体を面倒に感じるたちでして、手帳などはまず自分で購入することはありませんです。
「予定は頭で覚えられる範囲に留めておくのが無難」というのが昔からの信条のようなものでして、歳を重ねてそもそも覚えた先から忘れていく、という脳の機能低下に伴い、保持できる記憶がほとんどなくなってきているので、よりワンパターンな生活になってきております。
業務時間内の予定は、診療用の予約ソフトに全て入力するようにしているので、業務外の時間管理については、ほぼワンパターンなのでした。
そういう拙者の手帳なしの生活を知らないと思しき友人が、「拙者先生が好きそうな手帳を見つけたんです!」とかで、手帳をプレゼントしてくれました。
包装から取り出してみると、なななんと、スヌーピーがわんさかの手帳。
ずいぶん昔、ライブドアのブログにスヌーピーの切手の件を書いたことがありますが、幼少期から拙者はスヌーピーが好きではありました。
キティやミッキーマウス、ミッフィーなどには一度たりとも浮気したことはなく。ええ。
とはいえ、大人になってからはまず自らスヌーピーグッズを買うというようなこともなく過ごしており。
しかし、診察室内には頂き物のスヌーピーグッズがちらほら点在しており、それを見た方々から何かのおりにスヌーピーグッズ関連の差し入れが入るようになり、ますますスヌーピーグッズは拙者の周りに増えてきているのでした。
お越しになる患者さんでも、スヌーピーのTシャツやトレーナー着用の方、バッグなどをお持ちの方もしばしばで、その度に拙者は彼らのスヌーピーグッズを凝視しているのでありますが。
で、今回いただいたスヌーピーの手帳、相当凝っている作りで、スヌーピーファンにはうってつけ、というような感じです。
毎日、ピーナッツの漫画のコマ割りがあてがわれており、吹き出しのところに予定を書き入れるというような形式で、見ているだけでも楽しいのです。
細かい部分にもファンが喜びそうな工夫が施されており、実用的とはいかないでしょうが、これはなかなかファンサービス満点の手帳ではなかろうか、と感動しております。
と。
今回はスヌーピーが話題の中心ではなく、普段拙者が使用しないようなものから派生した話をしようとしていたのでした。
普段使用しない、携帯しないようなものが手帳なのですが、それと同様に、普段読まないような本というのが拙者にはあります。
これも以前書いたのですが、拙者は思想や哲学系の本は好んで読むのですが、小説というのは滅多に読みません。
30代の頃までは小説はそれなりに読んでいたのですが、開業してからなのか信仰に入ってからなのかわかりませんが(ほぼそれらが同時期なので)、そこからは小説は滅多に読まなくなっていました。
ところが今回、文芸サークル的なところとの関わりから、自らはまず選ぶことのないと思われた時代小説というものを読んだのです。
それは、山本周五郎の「ながい坂」という長編小説で、ながい話をとんでもなく短くすると、下級武士出身の三浦主水正が若き藩主に抜擢され、どんどん出世していくという、おめでたいサクセスストーリーです。
身分の低い者が己の才覚だけで立身出世をしていく、というのが物語の骨格になるのですが、それにさまざまな要素が散りばめられ、通勤電車で読むのに楽しめました。
時代劇を鑑賞しているような感じの安心感というか、この主人公は絶対死なないって感じの安心感があり、途中ハラハラする場面もあるのですが、いつもすごくかっこよく決着するという感じです。
エンターテイメント満載の小説の読みやすさを実感した次第です。
この小説で印象に残った描写があります。

人間には報酬のために働く者が大多分だが、報酬などは考えず、褒められたり感謝されたりすることさえ求めずに、能力いっぱいの仕事をすることによろこびを感じている者もある。弥助は主水正のため、おどろくほどこまやかに気を使い、働いてくれた。しかしそれを誇ろうとしたことは決してないし、邸内で主水正を見かけると、さりげなく避けて、話しかけられることを嫌っているようであった。

これは、死んだ下男の弥助が拵えた庭の中で、「十年も経てば・(中略)・・お望み通りのくぬぎ林になります」と言った弥助の言葉を、主人公主水正が思い出す場面です。
確かに、10年経って主水正の望み通りの庭となったくぬぎ林。そこで、今はなき弥助の人生を、

「いつも人のために勤めて、自分のことにはなにもしなかったのではないだろうか、そして報われたものはなんだろう、何か報われたことがあっただろうか」

と主水正は回想するのです。
こういう弥助のような人というのは、ごく少数(というか稀)ながら拙者の関わりの中にもいます。
拙者は、その方のそのような働き方や生き方を目の当たりにでき、本当に幸せだと思うております。
損得勘定や駆け引き抜きに、ただ自らの能力いっぱいを使い、仕事をする、人に仕えていくということを喜びとしている方をみると、こちらの気持ちも洗われて素直な気持ちになれるのです。
「この給料だから、これくらいでいいだろう」「こんな給料でこんなことやってられっかよ」とかではなく、多くの人が自分の能力を最大限使うことを喜びとできる世の中、もしくは関係性があればいいなと思うたのでした。

この本の最後の解説のところに、奥野政元という方が書いている文章も印象に残りました。

運命や性情の落とし穴にはまって、身動きできない不自由さの中で、わずかな隔たりの自由を意識させる。ということは、自分を自分本来の原点や初心の座標軸に連れ戻すということであり、そのことによって、はるかな展望を開くことが可能になるということである。
「ながい坂」という表題に込められた意味内容も、おそらくそのことと無縁ではあるまい。意識の自由を保持し続ける忍耐が、勇気に支えられた練達を生み出し、やがて展望の開かれた希望を生み出す、その時の展望そのものが、ながい坂でもあったのであろう。だから、主人公が最後に死ぬ必然性は、なかったのである。なぜなら、彼は過酷な現実の一瞬ごとに、この座標軸に立ち返り、新たに身を起こし続けるのであり、それが自分と生と死に向き合う原点である限り、死はいつも眼前にあり続けたからである。

この小説については厳しい内容の批評があるようですが、それもわからなくはないなと思いつつ、こういうビシッといい解説が入るとまた、小説全体に深みと余韻が与えられるもんだなと思うた次第です。
この解説文の中には、聖句の応用(ローマ人への手紙5章4節)があり、拙者としてはそこにもしみじみしたのでした。
いろんなジャンルの本を読む楽しさを得た気分です。

以上読書感想文でした。