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自己紹介

私は、昭和23年9月21日、冬は6メートルもの積雪になる新潟県十日町市(旧・中魚沼郡十日町)で、農家の長男として生まれました。
高校卒業後、農業の専門学校で1年間勉強し、自宅の農業を継ぐことになりましたが、この時から「若者が夢と希望を持てる農業を創造する」ことを人生の目標として、今日まで来ました。

信濃川の河川敷だった十日町は農地にできる場所が少なく、大きな面積で米を作るため、昭和45年11月7日に家族で大潟村に入植しました。
大きな面積で米をたくさん作りたいという私たち家族の夢は、入植と同時に始まった減反政策という大きな壁に阻まれることになり、それは、30年を超える大潟村営農問題の始まりとなりました。

干拓地のため地下水位の高い圃場は畑作には適しておらず、畑作を頑張れば頑張るほど借金が多くなり、借金返済のため米を植えればヤミ米と言われ、植えた稲を収穫せずに刈り取る青刈りを強制される時代が続きました。
緊急避難対策として、2年から3年で終わるはずの減反政策は、その後、数十年間続くことになりましたが、私は自主自立の農業経営確立のためには、自分の米は自分で販売することが必要であると思い、昭和62年に創業しました。そして、減反政策に参加しないことで、農業団体から米の取り扱いを拒否された農家の自立経営支援のための、米の販売にも取り組みました。

新生の大地「秋田県大潟村」

農家が自分の米を自分で販売するのは、今でこそ農業の6次産業化として国も推奨しておりますが、当時はヤミ米として、行政や農業関係者から様々な非難を受けたものでした。
私は、秋田県から遠く離れた都会に米を届けるためには、どこよりもおいしく、どこよりも安全な米でなければならないとの思いで、平成7年に米の残留農薬分析計を導入し、村内の同業他社と一緒に米ヌカ有機肥料工場を建設しました。
そして、無洗米工場の建設、発芽玄米工場の建設、栄養機能食品工場の建設、パックごはん工場建設と、米の付加価値の向上と米の消費拡大に向け、「生産、加工、販売」が一体化した産業としての農業の創造に取り組んできました。

国の統計によると日本の農業者人口は、2020年に比較して2030年には3分の1に減少するとのことですが、そうなると、日本農業は国民食料の安定供給に貢献できなくなります。農業者人口が減少しても、国民食料の安定供給を維持するには、営農指導体制を強化する必要があると考えております。
そのため、国の研究機関である農研機構が有している最先端の農業技術を、NTT東日本グループが有している遠隔営農支援システムを活用し、全国の農業の現場に配信することでそれが可能になると考え、秋田、岩手、東京を結ぶスマート農業の実証実験に取り組んでおります。

また、農業者だけでは日本農業の再生は難しいと考え、金融機関と共に農業法人(株)みらい共創ファーム秋田を設立し、東北に新たな国産玉ねぎの産地を構築するための取り組みを行っております。
国の研究機関である農研機構とNTT東日本グループが連携し、日本農業の再生に取り組むことができれば、今までとは違う新たな農業が創造されると考えております。

私は21歳の時、家族と共に大潟村に入植しましたが、入植と同時に始まった減反政策に翻弄されながら、「若者が夢と希望を持てる農業の創造」に取り組んできました。まだ道半ばですが、その思いは次の時代に繋がっていくと信じております。

株式会社大潟村あきたこまち生産者協会
代表取締役会長 涌井徹


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