見出し画像

1,学校とは「行かなくちゃいけない」ところ?

こちらの記事は「ニッポンの教育よ、コロナ休校が見せてくれた可能性をここで活かさずいつ活かす!?」の記事からリンクしています。

3月。コロナによる突然の休校措置によって、「さよならの準備」をしていた卒業学年の先生と生徒のみなさんが相当悲しい思いをしたという声がオンラインでもあちこちで聞こえてきました。

画像1

そこでは「明日も学校で会える」という「当たり前」が、当たり前ではなかったという事実が浮き彫りになりました。

 ただこれは、全国レベルでの休校だったから大騒ぎになったけど、よく考えると、たとえば台風や地震の被害で被害が大きく学校に通えなくなってしまった「地域」とか、個人単位で言えば病気や事故、不登校などの事情で学校に来られない「生徒・家庭」とか、そういう風に考えると実は「当たり前のように学校に通える状態」は、いろいろな場面で「当たり前」ではなかったのです。

ところが、災害で学校丸ごと機能しなくなったのだったらまだ「学校ごと」に対応を考えるのですが、これがこと「個人レベル」になると、学校全体(クラス全体)に対しての個人なので、その対応も個別対応になってしまったり、置き去りになってしまったりという状況が発生していました。

そういうところにおかれていた家庭にとっては、学校に行かない休校措置のこの時期、「家で過ごす方が当たり前」になったことによって、他の「家で過ごす人たち」と同じ立場になった事でほっとしたり、気が楽になったり、また周りからの理解を得やすくなったり、という様子が見られました。

全国一斉休校によって「全生徒が不登校」の状態になった。

「学校」と「家庭」との境目が取っ払われて、家にいること、家で自ら学ぶことが”推奨”される状況になったことで……

仕事を持つ親が、昼間家にいる子ども達をどうしたらいいのか。仕事を休んで見るのか?祖父母に頼むのか?子ども達が自分たちで過ごすように工夫するか?児童館やデイサービス利用して凌ぐのか?お昼のご飯は?

「不登校生の親」が頭を抱えて悩んできた問題が、すべての家庭の問題として「共有」されたのです。

一方で、学校は突然始まっていつ終わるともわからない休校措置の期間、「子ども達の学びの補償」をどうしたらいいのか?先進国海外の学校では当たり前のようにオンラインの授業に移行していく中で、即オンラインに対応出来たところから、必死で課題プリントを用意して先生達が配って歩く、という超アナログの対応のところまで、かなりの学校間・地域間格差のあることも判明しました。

地域によって、学校によって、そしてそれぞれの家庭によって、千差万別の情況の中で、「学校に行かないことが当たり前」の情況が見せてくれたものは、行くことが当たり前だったときには思いもよらなかった疑問でした。

「学校に行くことが本当に必要なのだろうか?」

不登校のお子さんや、最近よく聞く「ホームスクール」を選択した人たちにとっては、もともとこれは重要な課題でした。けれど、まわりは行くことが当たり前で、学齢になるとみんな毎日学校に行く。”行かない人たち”は「当たり前」の状態になる事を求められたり、「はずれた存在」とみられたり、という状況がまだまだ見られます。でもちょっと考えて見てください。

すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。(日本国憲法第26条)
(教育の機会均等)
第4条 すべて国民は,ひとしく,その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず,人種,信条,性別,社会的身分,経済的地位又は門地によって,教育上差別されない。
                           (教育基本法)

憲法や教育基本法にはこう謳われています。ここで謳っている「教育を受ける機会」=「学校だけ」なのでしょうか?

第5条 国民は,その保護する子に,別に法律で定めるところにより,普通教育を受けさせる義務を負う。              (教育基本法)

親は、子ども達に「普通教育」を受けさせる義務を負います。これは、かつて日本で農家が多く存在していた頃、田植え、稲刈り、畑仕事に子守りなど子ども達は貴重な「労働力」としてかり出されていた頃があったからです。

一方、子ども達は誰もがみんな「教育を受ける権利」を持っています。それはなぜかといったら、「社会の一員として生きるための必要な知識を学ぶ権利」があるからです。

そして日本全国のすべての学齢期の子ども達が均等に学ぶ機会を得るために、税金で学校を作り、学習指導要領で学ぶべき内容の基準を示し、先生達は教育「公務員」として教育に携わるのです。これはすべて、「日本の未来を担う子ども達のため」のシステムなのです。

でもその「未来を担う子ども達」が学ぶ現在の学校では、残念ながら「不登校」の児生の数は一向に減らないどころか、増加しています。不登校とは、「学校に行かない選択をした」子ども達、もしくは「行きたくても行かれない状況にある」子ども達です。この子達は、学校に行かないことで教育を受ける権利を放棄した……としてしまってもいいものでしょうか?

画像2

かつての教育基本法にあったけど削減された一項

実は、現行の教育基本法は平成18年に改正され、施行されたものです。(この教育基本法改正には、かなりの抵抗がありました。)この新教育基本法からは削除されてしまった一項をここに引用してみます。

第二条(教育の方針)教育の目的は、あらゆる機会に、 あらゆる場所において実現されなければならない。 この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によつて、文化の創造と発展に貢献するように 努めなければならない。
             (改正前の教育基本法 S22からH18年まで)

この「教育の方針」というタイトルの項は、新教育基本法にはありません。

(余談ですが第二条に「教育の目標」という項が置き換わっています。第一条に「教育の目的」があり、第二条に「教育の目標」を設定してかなり細かい項目が入っていますが、なぜこんな改正をしたのか比べてみるとちょっと押しつけがましくあまり好きではないのは個人的な所感です。)

改正前の教育基本法は、平和憲法と言われる日本国憲法に則し、自由や民主的、個人の尊重を強く謳っているところが多く、この旧教育基本法の第二条にも、その色が濃いと思います。

「教育の目的を実現するのは」→「あらゆる機会にあらゆる場所において」
「目的を達成するため」→「学問の自由を尊重し、 実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と 協力によつて、文化の創造と発展に貢献する」

画像3

ここにある「教育の目的」については

第一条(教育の目的) 教育は、 人格の完成をめざし、平和的な 国家及び社会の形成者として、 真理と正義を愛し、個人の価値 をたつとび、勤労と責任を重ん じ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。              (旧教育基本法)

(こちらの引用も、実は旧教育基本法です。現行の教育基本法は比べてみるとわかりますが、”個人の尊重””学問の自由””自主的”という文言がだいぶ削除されてしまっているので……)

要するに、すべての人は学ぶ機会が権利として与えられ、特に子ども達は最低でも”義務教育期間”には保護者によって学ぶ機会を与えられることが保証されている。さらに「教育の目的」に即していれば”自由が尊重”されるべきものなのです。

さて、では「学校教育」を見た時に、「個人の尊重」とか「学問の自由」は、果たして現在保証されているのでしょうか?

コロナウイルスによる休校措置で、「学校に行かない毎日」を考えた時に、「行かなければ学んだと認められない」という情況はどう考えればいいのでしょうか?

まわりを見回してみると、今はWeb上に様々なツールがあり、学ぼうと思えば自ら学ぶこと(いわゆる自主・自発的な学び)は可能です。そういうツールを選んで家で学ぶことを選択することは「学問の自由」でもあります。どんな学びをどこでやろうとしても、「心身ともに健康な国民の育成を期して」 行われるのであれば、もっと自由に、もっと豊かで広い学びが許されるのではないのでしょうか?

画像4

「学校」という場は、「自由な学びの選択肢の1つ」

私は決して、学校を否定してはいません。誰でも一定基準の教育を受けることが出来る。義務教育学校は公費で支援されているから、金がないことを理由に教育を受ける権利を阻害されることもない。また、地域ごとにあるから、その地域と結びついて同じ場に生きるたくさんの人たちとの出会いや交流が容易に出来る。そして、何よりも「公」の学びの場であるから、様々な面で守られ、保証され、信用関係の元に個々の人や家庭では見聞きが難しいことも可能になる。

画像5

だから、そういう学びを得たい人は「学校に行くこと」を「学問の自由」として選択すればいいのです。けれど、そこでの学びを選ばない自由も、もう一方で保証される必要があるのではないでしょうか?

「義務教育」というシステムは、もう少しゆるやかに拡がって、「地域の学校に行くこと」が教育の保証であるのではなく、「学びの場を自らで選択し、その学びを保証する」ために義務教育学校の生徒1人1人への補助を家庭に還元して選択した学びで個々の学びを進め深めることが出来るようにする事を考える必要があるのではないでしょうか?

かつては、学校は地域の文化や学問の発信源でした。

けれど今、世の中はオンライン・ITの発展と、文化や生活習慣の多様化から、「均一」であることが非常に難しくなっています。学校がすべてにおいて”牽引役”になることも今は難しくなりました。

「ナンバーワンよりオンリーワン」

個々の子どもや家庭、それぞれの営みの中で、必要なものをそれぞれが選び取ってそこで獲得する「でこぼこの時代」がやってくる。

「学校もあるけど、そうじゃない学びの場もたくさんあって、どこで学ぶか、自分で考えて決めよう」

「学問の自由」という視点から、学校だけでなく家庭や地域、あらゆる場の「教育力」を見直して、選択肢や学び方を多様化していくことで、「学校一択」ですべてを学校が背負う重荷も軽くなるし、教育を受ける権利を行使出来る自由が学びへの期待や喜びを拡げる可能性もぐっと増える。

<私の描く”これからの学び”……学問の自由を考えて>
・学校以外に学びの場を公立私立ともにちりばめる。
・学びの場はそれぞれに、そこで得られるスキルや知識を明確に提示して、個々の特色を打ち出す。
・学ぶ側は、自分の学力・体力・興味関心などを元に学びの場を選択する
・その折、学びの場を1つにしぼらず幾つかかけ持ちでもいいし、1つの場で学び終えたら次の場へと進むのもいいし、途中で合わないと思ったら移動も可能
・「基本的な知識」はどの学び場を選んでもいいので必ず学習する。

→まるでロールプレイゲームのように、どのルートを選んでもいいから最後の「ゴール」までに達成しておくレベルや身につけるべき知識はGETし、あとは自分で得意を伸ばすも不得意にチャレンジするのも自由

「学校に行くことが当たり前でない毎日」が見せてくれた可能性を、せっかくだからもうちょっと突き詰めてみたいと思いませんか?

画像6


いろいろな人たちが笑顔で過ごせる世の中めざして、これからも発信続けていきます!是非サポートお願いします。😊