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[下調べ]言霊信仰 5縄文と弥生

[日本の土壌探訪~縄文人との繋がりを探す~]
①縄文人と弥生人
②出雲の系図
③大山咋神
④山岳信仰
⑤DNA

①縄文人と弥生人 http://www1.kcn.ne.jp/~kawamura/p1001.html
 温暖化で日本が島国になる前に来ていたホモサピエンスが約16000年前~約2300年前まで農耕、狩猟、採集、漁労と安定した社会を営んでいましたが、気候変動や中国での戦乱の影響で渡来人が九州に渡って来て(✳古代中国の王朝である殷が紀元前11世紀に帝辛(紂王)の代に周によって滅ぼされた)水稲農耕技術が伝播していき、渡来人と縄文人が混じっていったと(一説)考えると、西日本は中国よりの縄文人。東日本は縄文人。古神道は、縄文と弥生のミックスだと思いました。
➡古神道の神楽は縄文も土壌であると私は認定します!

②出雲の系図 
 古事記や日本書紀から確認できる神代の系図で、イザナギの禊から生まれたスサノヲとイザナミとイザナギの子供の大山津見神の系図です。
➡弥生早期頃の渡来人と縄文人が混じっていると思われます。

③大山咋神
 スサノヲの系図と大山津見神の系図です。
➡勝手に縄文の方が濃いのではと思っています。出雲と同じです。
 
④山岳信仰
 自然崇拝に仏教が色濃く入っています。
➡縄文も土壌にあると思われます。

⑤DNA
 ネアンデルタール人が混じるホモサピエンス 縄文人
➡格差をつくる事に喜びは見出ださない性質を持った人種なのではないかと思われます。脳の構造や周波数が違うのかも。ネアンデルタール人が気になります。
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~Wikipediaより~
縄文

縄文時代は、日本列島における時代区分の一つであり、世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当する時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器と弓矢の発明、定住化と竪穴式住居の普及、貝塚の形成などが挙げられる。始期と終期については多くの議論があるが、まず始期に関しては一般的に16,000±100年前と考えられている。終期は概ね約3,000年前 とされる(諸説あり)。縄文時代は、日本列島における時代区分の一つであり、世界史では中石器時代ないしは、新石器時代に相当す時代である。旧石器時代と縄文時代の違いは、土器と弓矢の発明、定住化と竪穴式住居の普及、貝塚の形成などが挙げられる。始期と終期については多くの議論があるが、まず始期に関しては一般的に16,000±100年前と考えられている。終期は概ね約3,000年前 とされる(諸説あり)。

地質年代では更新世末期から完新世にかけて日本列島で発展した時代であり、終期について地域差が大きいものの、定型的な水田稲作や金属器の使用を特徴とする弥生文化の登場を契機とする。その年代については、紀元前数世紀から紀元前10世紀頃までで、多くの議論がある。

沖縄県では貝塚時代前期に区分される。次の時代は同地域では貝塚時代後期となり、貝塚文化と呼ばれる。

東北北部から北海道では他地域に弥生文化が登場した後も縄文時代の生活様式が継承されたため、縄文時代の次の時代を続縄文時代と呼ぶ。

概要 
明治時代に始まる日本の先史時代の研究は、当初は石器時代という概念で先史時代を捉えており、その中で縄文土器を使用した時期と、弥生土器を使用した時期が存在したという叙述が行われていた。また19世紀中は、日本列島の先史時代の住民をアイヌやコロボックルと考える説も有力であり、これらの説が退けられたのは1920年代である。だがこの時期には記紀神話を日本列島の先史時代の歴史とする歴史叙述が力を持ち、考古学の知見に基づく日本列島の先史時代像が学界を超えて形成され始めたのは第二次世界大戦後となる。

戦後に編纂された歴史教科書では日本列島の先史時代に弥生文化と縄文文化の二つの文化の存在を示していたが、登呂遺跡や岩宿遺跡の発掘など考古学上の大きな事件が続いたことも影響し、1959年から60年にかけて日本考古学協会から刊行された『世界考古学大系』1巻および2巻において、学界における「縄文時代」「弥生時代」の区分が確立された。

縄文時代は、縄文土器が使用された時代を示す呼称であったが、次第に生活内容を加えた特徴の説明が為されるようになり、磨製石器を造る技術、土器の使用、農耕狩猟採集経済、定住化した社会ととらえられるようになった。

名称 
「縄文」という名称は、エドワード・S・モース(1838年 - 1925年)が1877年(明治10年)に大森貝塚から発掘した土器を Cord Marked Pottery と報告したことに由来する。この用語は矢田部良吉により「索紋土器」(さくもんどき)と訳されたが、後に白井光太郎が「縄紋土器」と改めた。続いて、「縄文土器」という表記が用いられるようになった。時代の名称が「縄文時代」に落ち着くのは戦後のことである。なお佐原真はこの語の原義を念頭において「縄紋」という呼称を使用している。

時期区分 
縄文土器の多様性は、時代差や地域差を識別する基準として有効である。土器型式上の区分から、縄文時代は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に分けられる。研究当初は、前・中・後の三期区分だったが、資料の増加や研究の進展によって早期、晩期が加わり、最後に草創期が加えられた。そうした土器研究上の経緯を反映した時期区分であるため、中期が縄文時代の中頃というわけでもなく、生業や文化内容から見た時代区分としても再考の余地があるものの、慣用化した時期区分として定着している。

この時期区分を、AMS法で測定して暦年代に補正した年代で示すと、草創期(約1万6,000 - 1万2,000年前)、早期(約1万2,000 - 7,000年前)、前期(約7,000 - 5,500年前)、中期(約5,500 - 4,500年前)、後期(約4,500 - 3,300年前)、晩期(約3,300 - 2,800年前)となる。

また先に示した土器編年による区分の他、縄文時代を文化形式の側面から見て幾つかの時期に分類する方法も存在している。縄文時代の文化史的区分については研究者によって幾つかの方法があり、現在のところ学界に定説が確立されているわけではない。

岡村道雄の区分
考古学者の岡村は、定住化の程度で時期区分すると草創期から早期半ば頃までは、住居とゴミ捨て場が設置されるが、住居を持たなかったり、季節によって移動生活を送るなどの半定住段階であると想定している。この段階は縄文時代の約半分の時間に相当する。次いで早期末から 前期初頭には、定住が確立し集落の周りに貝塚が形成され、大規模な捨て場が形成される。中期後半には、東日本では地域色が顕著になるとともに、大規模な集落が出現して遺跡数もピークに達する。一方西日本では遺跡数が少なく定住生活が前期には既に後退している可能性すらある。後期になると東北から中部山岳地帯の遺跡は、少数で小規模になり分散する。関東は大規模貝塚を営み、西日本も徐々に定住生活が復活する。後期後半には近畿から九州まで定住集落が散見されるようになる。この傾向は晩期前半まで続き、後半はさらに定住化が進み、瀬戸内地方から九州北部は水田稲作農耕を導入後、弥生時代早期へと移ってゆく。

佐々木高明による区分
文化人類学者の佐々木は縄文土器編年区分のうち草創期を旧石器時代から新石器時代への移行期として縄文I期、土器編年の縄文早期を縄文文化が完成に向かう時期として縄文II期、土器編年の縄文前期から晩期までを完成した縄文文化が保持された時期として縄文III期に分類した。

泉拓良による区分
泉も佐々木による区分に近く、縄文草創期を「模索期」、縄文早期を「実験期」、縄文前期から晩期までを「安定期」としている。

旧石器から縄文へ 
最終氷期の約2万年前の最盛期が過ぎると地球規模で温暖化に向かった。最後の氷期である晩氷期と呼ばれる約1万3000年前から1万年前の気候は、数百年で寒冷期と温暖期が入れ替わるほどで、急激な厳しい環境変化が短期間のうちに起こった。

それまでは、針葉樹林が列島を覆っていたが、西南日本から太平洋沿岸伝いに落葉広葉樹林が増加し拡がっていき、北海道を除いて列島の多くが落葉広葉樹林と照葉樹林で覆われた。コナラ亜属やブナ属、クリ属など堅果類が繁茂するようになった。北海道はツンドラが内陸中央部の山地まで後退し、亜寒帯針葉樹林が進出してきた。そして、日本海側と南部の渡島半島では、針葉樹と広葉樹の混合林が共存するようになる。また、温暖化による植生の変化は、マンモスやトナカイ、あるいはナウマンゾウやオオツノジカなどの大型哺乳動物の生息環境を悪化させ、約1万年前までには、日本列島からこれらの大型哺乳動物がほぼ絶滅してしまった。

この草創期の特徴は以下のように指摘されている。
新しい道具が短期間に数多く出現した。例えば、石器群では、大型の磨製石斧、石槍、植刃、断面が三角形の錐、半月系の石器、有形尖頭器、矢柄研磨器、石鏃などが、この期に出現する。使われなくなっていく石器群、新しく出現する石器群が目まぐるしく入れ替わった。

草創期前半の時期は、遺跡によって石器群の組み合わせが違う。
急激な気候の変化による植生や動物相、海岸線の移動などの環境の変化に対応した道具が次々に考案されていった。
狩猟・植物採取・植物栽培・漁労の3つの新たな生業体系をもとに生産力を飛躍的に発展させた。

縄文時代早期 
日本列島の旧石器時代の人々は、大型哺乳動物(ヘラジカ、ヤギュウ、オーロックス、ナウマンゾウ、オオツノシカなど。)や中・小型哺乳動物(ニホンジカ、イノシシ、アナグマ、ノウサギなど。)を狩猟対象としていた。大型の哺乳動物は季節によって広範囲に移動を繰り返すので、それを追って旧石器時代人もキャンプ生活を営みながら、頻繁に移動を繰り返していた。キル・サイトやブロック、礫群、炭の粒の集中するところなどは日本列島内で数千ヶ所も発見されているが、竪穴住居などの施設を伴う遺跡はほとんど発見されていない。

旧石器時代の人々は、更新世の末まで、キャンプ生活・遊動生活を営みながら頻繁に移動生活を繰り返してきた。旧石器時代から縄文時代への移行期である草創期には一時的に特定の場所で生活する半定住生活を送るようになっていた。縄文早期になると定住生活が出現する。鹿児島市にある加栗山遺跡(縄文時代早期初頭)では、16棟の竪穴住居跡、33基の煙道つき炉穴、17基の集石などが検出されている。この遺跡は草創期の掃除山遺跡や前田遺跡の場合と違って、竪穴住居跡の数の大幅な増加、住居の拡張、重複した住居跡、これらの住居跡やその他の遺構が中央広場を囲むように配置されている。

加栗山遺跡とほぼ同時期の鹿児島県霧島市にある上野原遺跡では46棟の竪穴住居をはじめ多数の遺構が検出されている。このうち13棟は、桜島起源の火山灰P-13に覆われていることから、同じ時に存在したものと推定できる。この13棟は半環状に配置されていることから、早期初頭には、既に相当な規模の定住集落を形成していたと推定される。

縄文早期前半には、関東地方に竪穴住居がもっとも顕著に普及する。現在まで、竪穴住居が検出された遺跡は65ヶ所、その数は300棟を超えている。そのうちで最も規模の大きな東京都府中市武蔵台遺跡では24棟の竪穴住居と多数の土坑が半環状に配置されて検出されている。

南関東や南九州の早期前半の遺跡では、植物質食料調理器具である石皿、磨石、敲石、加熱処理具の土器も大型化、出土個体数も増加する。定住生活には、植物質食料、特に堅果類が食料の中心になっていたと想像されている。南関東の定住集落の形成には、植物採集活動だけでなく、漁労活動も重要な役割を果たしていたと考えられている。

一方、北に目を転じれば、北海道函館市中野B遺跡からは縄文早期中頃の500棟以上の竪穴住居跡、多数の竪穴住居跡、土壙墓、落とし穴、多数の土器、石皿、磨石、敲石、石錘が出土して、その数は40万点にも上っている。津軽海峡に面した台地上に立地するこの遺跡では、漁労活動が盛んに行われ、長期にわたる定住生活を営むことが出来たと考えられる。また、東海地方の早期の定住集落、静岡県富士宮市若宮遺跡は28棟の竪穴住居をはじめとする多数の遺構群とともに、土器と石器が18,000点ほど出土している。この遺跡が他の早期の遺跡と大いに違う点は、狩猟で使用する石鏃2,168点も出土したことである。富士山麓にあるこの遺跡では、小谷が多く形成され、舌状台地が連続する地形こそ、哺乳動物の生息に適した場であった。つまり、若宮遺跡では、環境に恵まれ、獲物にも恵まれて定住生活を営む上での条件が揃っていたと推定される。

移動生活から定住的な生活への変化は、もう一つの大きな変化をもたらした。その変化はプラント・オパール分析の結果から判明した。一時的に居住する半定住的な生活の仕方では、周辺地域の開拓までに至らなかったが、定住的な生活をするようになった縄文時代人は居住する周辺の照葉樹林や落葉樹林を切り開いたことにより、そこにクリやクルミなどの二次林(二次植生)の環境を提供することとなった。定住化によって、縄文人は、集落の周辺に林床植物と呼ばれる、いわゆる下草にも影響を与えた。ワラビ、ゼンマイ、フキ、クズ、ヤマイモ、ノビルなどの縄文人の主要で安定した食料資源となった有用植物が繁茂しやすい二次林的な環境、つまり雑木林という新しい環境を創造したことになる。縄文時代の建築材や燃料材はクリが大半であることは遺跡出土の遺物から分かっている。2013年、福井県鳥浜貝塚から世界最古級(約11000〜15000年前)の調理土器が発見された。これにより、サケなどの魚を調理していた可能性が判明した。

縄文文化の歴史的変遷  縄文文化の分布範囲 
縄文文化の定義は一様ではないため、縄文文化が地理的にどのような範囲に分布していたかを一義に決定することはできない。縄文土器の分布を目安とした場合、北は樺太南部と千島列島、南は沖縄本島を限界とし、宮古島や八重山諸島には分布しない(八重山諸島は台湾島の土器と同系統のもの)。すなわち、現在の日本国の国境線とは微妙にズレた範囲が縄文土器の分布域である。

気候の変化と縄文文化の発展 
縄文時代は1万年という長い期間にわたり、大規模な気候変動も経験している。また日本列島は南北に極めて長く、地形も変化に富んでおり、現在と同じように縄文時代においても気候や植生の地域差は大きかった。結果として、縄文時代の文化形式は歴史的にも地域的にも一様ではなく、多様な形式を持つものとなった。

約2万年前に最終氷期が終わってから6000年前頃までは、地球の気温は徐々に温暖化していった時期である。この間に日本列島は100m以上もの海面上昇を経験している。縄文土器編年区分においてはこれは縄文草創期から縄文前期に相当する(13000年前-6000年前)。また、約6000年前には海面が現在より4m〜5m高く縄文海進と呼ばれており、海岸部の遺跡の分布を考える上で参考になる。

縄文草創期当時の日本列島の植生は冷涼で乾燥した草原が中心であったが、落葉樹の森林も一部で出現していた。また地学的に見ても、北海道と樺太は繋がっており、津軽海峡は冬には結氷して北海道と現在の本州が繋がっていた。瀬戸内海はまだ存在しておらず、本州、四国、九州、種子島、屋久島、対馬は一つの大きな島となっていた。この大きな島と朝鮮半島の間は幅15キロメートル程度の水路であった。その後、温暖化により海面が上昇した結果、先に述べた対馬・朝鮮半島間の水路の幅が広がって朝鮮海峡となり、対馬暖流が日本海に流れ込むこととなった。これにより日本列島の日本海側に豪雪地帯が出現し、その豊富な雪解け水によって日本海側にはブナなどの森林が形成されるようになった。

縄文早期には定住集落が登場した他、本格的な漁業の開始、関東における外洋航行の開始など新たな文化要素が付け加わった。最も古い定住集落が発見されているのが九州南部の上野原遺跡や金峰町の遺跡で、およそ1万1000年前に季節的な定住が始まり、1万年ほど前に通年の定住も開始されたと推測されている。定住が開始された理由としては、それまで縄文人集団が定住を避けていた理由、すなわち食料の確保や廃棄物問題、死生観上の要請などが定住によっても解決出来るようになったためではないかと見られる。この時期の土器は北東アジア系、華北・華中系、華南系の3系統に分けられており、分布面から見ると北東アジア系は北海道から東日本に、華北・華中系は西日本、華南系は南日本から出土している。植生面から見ると、縄文早期前半は照葉樹林帯は九州や四国の沿岸部および関東以西の太平洋沿岸部に限られており、それ以外の地域では落葉樹が優勢であった。

縄文前期から中期にかけては最も典型的な縄文文化が栄えた時期であり、現在は三内丸山遺跡と呼ばれる場所に起居した縄文人たちが保持していたのも、主にこの時期の文化形式である。この時期には日本列島に大きく分けて9つの文化圏が成立していたと考えられている。海水面は縄文前期の中頃には現在より3mほど高くなり、気候も現在よりなお温暖であった。この時期のいわゆる縄文海進によって沿岸部には好漁場が増え、海産物の入手も容易になったと林謙作は指摘している。植生面では関ヶ原より西は概ね照葉樹林帯となった。

縄文後期に入ると気温は再び寒冷化に向かい、弥生海退と呼ばれる海水面の低下がおきる。関東では従来の貝類の好漁場であった干潟が一気に縮小し、貝塚も消えていくこととなった。一方、西日本や東北では新たに低湿地が増加したため、低湿地に適した文化形式が発達していった。中部や関東では主に取れる堅果類がクリからトチノキに急激に変化した。その他にも、青森県の亀ヶ岡石器時代遺跡では花粉の分析により、トチノキからソバへと栽培の中心が変化したことが明らかになっている。その結果、食料生産も低下し、縄文人の人口も停滞あるいは減少に転じる。文化圏は9つから4つに集約され、この4つの文化圏の枠組みは弥生時代にも引き継がれ、「東日本」・「九州を除く西日本」・「九州」・「沖縄」という現代に至る日本文化の地域的枠組みの基層をなしている。

縄文文化の地域性 
縄文文化は日本列島のどの地域でも同質のものだったのではなく、多様な地域性を備えた文化群であったことが指摘されている。

土偶の分布に見る地域性 
縄文人が製作した土偶は、縄文時代の全期間を通して日本列島各地で満遍なく使われていたのではなく、時期と地域の両面で限定されたものであった。すなわち、縄文早期の更に前半期に関東地方の東部で集中的に使用された後、縄文中期に土偶の使用は一旦消滅している。その後、縄文後期の前半に東日本で再び土偶が使用されるようになる。一方、それまで土偶の使用が見られなかった九州においては、縄文後期になって九州北部および中部で土偶が登場している。

こうした土偶の使用の地域性について藤尾は、ブナ、ナラ、クリ、トチノキなどの落葉性堅果類を主食とした地域(つまりこれら落葉樹林に覆われていた地域)と、西日本を中心とした照葉樹林帯との生業形態の差異と関連づけて説明している。落葉性堅果類、すなわちクリやいわゆるドングリは秋の一時期に集中的に収穫され、比較的大きな集落による労働集約的な作業が必要となるため、土偶を用いた祭祀を行うことで社会集団を統合していたのではないかという考え方である。

縄文時代の文化圏 
前述のように、縄文前期には日本列島内に九つの文化圏が成立していたと考えられている。

石狩低地以東の北海道
エゾマツやトドマツといった針葉樹が優勢な地域。トチノキやクリが分布していない点も他地域との大きな違いである。トド、アザラシ、オットセイという寒流系の海獣が豊富であり、それらを捕獲する為の回転式離頭銛が発達した。

北海道西南部および東北北部
石狩低地以東と異なり、植生が落葉樹林帯である。ミズナラ、コナラ、クルミ、クリ、トチノキといった堅果類の採集が盛んに行われた。回転式離頭銛による海獣捕獲も行われたが、カモシカやイノシシなどの陸上のほ乳類の狩猟も行った点に、石狩以東との違いがある。

東北南部
動物性の食料としては陸上のニホンジカ、イノシシ、海からはカツオ、マグロ、サメ、イルカを主に利用した。前2者とは異なり、この文化圏の沖合は暖流が優越する為、寒流系の海獣狩猟は行われなかった。

関東
照葉樹林帯の植物性食料と内湾性の漁労がこの文化圏の特徴で、特に貝塚については日本列島全体の貝塚のうちおよそ6割がこの文化圏のものである。陸上の動物性食料としてはシカとイノシシが中心。海からはハマグリ、アサリを採取した他、スズキやクロダイも多く食した。これらの海産物は内湾で捕獲されるものであり、土器を錘とした網による漁業を行っていた。

北陸
シカ、イノシシ、ツキノワグマが主な狩猟対象であった。植生は落葉広葉樹(トチノキ、ナラ)で、豪雪地帯である為に家屋は大型化した。

東海・甲信
狩猟対象はシカとイノシシで、植生は落葉広葉樹であるが、ヤマノイモやユリの根なども食用とした。打製石斧の使用も特徴の一つである。

北陸・近畿・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後
狩猟対象はシカとイノシシで、植生は落葉広葉樹に照葉樹(シイ、カシ)も加わる。漁業面では切目石錘(石を加工して作った網用の錘)の使用が特徴であるが、これは関東の土器片による錘の技術が伝播して出現したと考えられている。

九州(豊前・豊後を除く)
狩猟対象はシカとイノシシ。植生は照葉樹林帯。最大の特徴は九州島と朝鮮半島の間に広がる多島海を舞台とした外洋性の漁労活動で、西北九州型結合釣り針や石鋸が特徴的な漁具である。結合釣り針とは複数の部材を縛り合わせた大型の釣り針で、同じ発想のものは古代ポリネシアでも用いられていたが、この文化圏のそれは朝鮮半島東岸のオサンリ型結合釣り針と一部分布域が重なっている。
九州南部は縄文早期末に鬼界カルデラの大噴火があり、ほぼ全滅と考えられる壊滅的な被害を受けた。

トカラ列島以南
植生は照葉樹林帯である。動物性タンパク質としてはウミガメやジュゴンを食用とする。珊瑚礁内での漁労も特徴であり、漁具としてはシャコガイやタカラガイなどの貝殻を網漁の錘に用いた。九州文化圏との交流もあった。
の9つである。

これら9つの文化圏の間の関係であるが、縄文文化という一つの文化圏内での差異というよりは、「発展の方向を同じくする別個の地域文化」と見るべきであるとの渡辺誠による指摘がある。つまり、これら全ての文化圏のいずれもが共通の、しかし細部が若干異なる文化要素のセットを保持していたのではなく、それぞれの文化圏が地域ごとの環境条件に適合した幾つかの文化要素を選択保持しており、ある文化圏には存在したが別の文化圏には存在しなかった文化要素も当然ながら見られるのである。

縄文後期に入ると、これら9つの文化圏のうち、「北海道西南部および東北北部」「東北南部」「関東」「北陸」「東海・甲信」の5つがまとまって単一の文化圏(照葉樹林文化論における「ナラ林文化」)を構成するようになり、また「北陸・伊勢湾沿岸・中国・四国・豊前・豊後」「九州(豊前・豊後を除く)」がまとまって単一の文化圏(照葉樹林文化論における照葉樹林文化)を構成するようになる。その結果、縄文後期・晩期には文化圏の数は4つに減少する。

勾玉からみる地域交流 
遅くとも縄文中期(BC5,000年)頃にはヒスイ製勾玉が作られていたことが判明しており、特に新潟県糸魚川の「長者ケ原遺跡」からはヒスイ製勾玉とともにヒスイの工房が発見されている。蛍光X線分析によると青森県の「三内丸山遺跡」や北海道南部で出土されるヒスイは糸魚川産であることが分かっており、このことから縄文人が広い範囲でお互いに交易をしていたと考えられている。後年には日本製勾玉は朝鮮半島へも伝播している。

植物栽培 
縄文農耕論は、明治時代以来の長い研究史があり、農耕存否の論争は現在も続いている。縄文時代に植物栽培が行われていたことは確実であると考えられている。福井県の鳥浜貝塚の前期の層から栽培植物(アズキ、エゴマ、ウリ、ヒョウタン、ゴボウなど。)が、早期の層からヒョウタンが検出されている。一方、北部九州の後・晩期遺跡の遺物で焼畑農耕が行われていた可能性が高いと考えられている。福岡県下の後・晩期遺跡の花粉分析、熊本市の遺跡でイネ、オオムギ、大分県遺跡でイネなどが検出されており、東日本からも、同じく後・晩期の10個所を超える遺跡からソバの花粉が検出されている。これらも焼畑農耕による栽培であると推定されている。

稲作の始まり 
現在ではプラント・オパールの研究により、縄文時代後期から晩期にかけては熱帯ジャポニカの焼畑稲作が行われていたことが判明している。

イネ(Oryza sativa)には、ジャポニカ(日本型)とインディカ(インド型)などの亜種があり、ジャポニカはさらに、温帯ジャポニカと熱帯ジャポニカ(ジャバニカ米)に分かれる。温帯ジャポニカは、中国の長江北側から、日本列島というごく限られた地域に水稲農耕と密接に結びついて分布している。弥生時代以降の水稲も温帯ジャポニカであるとされている。

列島へは、まず熱帯ジャポニカが南西諸島を通って列島に伝播した。 縄文時代のイネは、炭化米が後期後半の熊本県や鹿児島県の上野原遺跡などから検出されており、籾跡土器の胎土から検出されたイネのプラント・オパールは、後期後半の西日本各地の遺跡から発見されている。熊本県下の上南部(かんなべ)遺跡の土壌と土器胎土からイネのプラント・オパールが見出され、岡山県総社市の南溝手(みなみみぞて)遺跡で岡山県古代吉備文化財センターが発掘した土器6点の中の4点からイネのプラント・オパールが見出された。うち2点は、縄文時代後期中頃、およそ3500年前(炭素14年代)に属している。同センターは、穂を摘み取るのに使われたと推定される石器(穂摘み具)や、打製土掘り具と見られる石器を発見した。

晩期の突帯文土器を伴う岡山市北区津島の津島江道遺跡は水田遺構として最も古いもので、3メートル×5メートル前後の小区画水田である。

このため、後期後半の日本列島でイネが栽培されていたことは間違いない。ただ、イネが単独で栽培されていたわけでなく、オオムギ、ヒエ、キビ、アワ、ソバなどの雑穀類の栽培やアズキ、大豆なども混作されていた。

縄文時代の主なできごと
[草創期 約1万3千年前-約1万年前]
気候環境  この期の初め頃は日本列島が大陸から離れる直前であったと推測されている。晩氷期の気候は、短期間に寒・暖がおこり、厳しい環境変化であった。温暖化が進行し、氷河が溶けて海水面が上昇し、海が陸地に進入してきた。「海進」という。
生活 住居 環境の変化に伴い貝類や魚類が新しい食糧資源になった。狩猟の獲物は、ゾウや野牛の大型哺乳動物からシカやイノシシの中・小哺乳動物に変わっていった。竪穴住居址からサケの顎骨発見。小型の骨製U字型釣針。
石器  局部磨製石斧が作られる。槍・弓矢の製作・使用。
土器  豆粒文土器・隆起線文系土器・爪形文系土器・押縄文系土器(多縄文系土器)女性像を線刻した小礫が作られる。

[早期 約1万年前-6千年前]
気候環境  日本列島が完全に大陸から離れて島国となっていた。そして、初めの頃は、現在よりも気温2度ほど低く、海水面も30メートル低かった。その後、海水面の高さが戻る。鬼界カルデラの噴火で西日本一帯に火山灰が積もる。
生活 住居 数個の竪穴住居で一集落を構成する。組み合わせ式釣り針。ドングリやクルミなどの堅果類を植林栽培する初歩的農法が確立し、食糧資源となっていた。狩猟では、大型の哺乳動物に変わって、シカやイノシシなどの中・小型哺乳動物が中心となった。狩猟道具として弓矢が急速に普及した。
石器  網用の土錘・石錘。ヤス、銛。堅果植物を叩いたり、砕いたり、すり潰したりするための石皿や磨製の石なども使用されていた。
土器  圧煮炊き用の土器の出現が旧石器時代の生活を変えた。縄文・撚糸文の尖底土器が作られた。夏島貝塚から撚糸文系土器、貝殻沈線文系土器、貝殻条痕文系土器という早期から終末までの土器が層位的に出土した。小型の土偶が作られる。
貝塚  貝塚は、この時期の前半には、海が進入して出来た海岸地域に作られていた。貝塚はヤマトシジミが主体であった。狩猟とともに漁労が活発化した。最古級の神奈川県横須賀市夏島貝塚、千葉県香取郡神崎町西之城貝塚。押型文土器期に属する愛知県知多郡南知多町先苅(まずかり)貝塚は海面下13メートルの深さから発見された。人口2万100人。縄文犬を人と一緒に埋葬。屈葬。

[前期 約6千年-5千年前]
環境  気候温暖で海面・気温上昇(縄文海進、海水面4〜5メートル高くなる)のため、現在の内陸部に貝塚が作られる。亜熱帯性の常緑広葉樹林、乾季に適応した落葉広葉樹林からなる植物帯の形成。
住居  竪穴住居が広場を囲んで集落を作る。湖沼の発達により丸木船が作られる。漁労活動開始。
石器 木器・土器・櫛・黒曜石などに漆を塗ることが始まる。環状列石が作られる。
土器  この期を境に土器の数量は一気に増加し、形や機能も多様化し、平底土器が一般化する。土器は羽状縄文を施した繊維土器が盛んに作られる(→関山式、黒浜式)。
遺跡  耳飾り・勾玉・管玉などの装身具が作られる。立石列(りつせきれつ)環状石籬。貝塚。人口10万5500人。

[中期 約5千年-4千年]
環境 生活 住居集落の規模が大きくなる。植林農法の種類もドングリより食べやすいクリに変わり大規模化する。
石器  海岸線ほぼ現在に近くなる。大型貝塚形成。
土器  石棒・土偶などの呪物が盛んに作られる。石柱祭壇。抜歯の風習が始まる。気温低下始める。立体的文様のある大型土器が流行する。
遺跡  貝塚。人口26万1300人。

[後期 約4千年-3千年前]
環境 生活 住居  大型貝塚。内陸地域にも貝塚が出来ていた。
製塩専業集団、塩媒介集団、塩消費集団。伸展葬。交易目的の漁労民発生。
石器  大湯環状列石(ストーンサークル)、東北地方に集中。
土器  村の一角に土器塚が出来る。土器を使った製塩の痕。
遺跡  ウッドサークル(巨大木柱遺跡)。敷石住居址。人口16万300人。

[晩期 約3千年-2300年前]
環境  気温2度前後低下。海面も低下。漁労活動に壊滅的な打撃。
生活 住居 木製の太刀。頭部外科手術か?漁労の網。東北の太平洋側に銛漁開花。北九州・近畿でも縄文水田
遺跡  貝塚。人口7万5800人。

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弥生
弥生時代は、日本列島における時代区分の一つであり、紀元前10世紀頃から、紀元後3世紀中頃までにあたる時代の名称。採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である。縄文時代晩期にはすでに水稲農耕は行われているが、多様な生業の一つとして行われており弥生時代の定義からは外れる。

2003年(平成15年)に国立歴史民俗博物館(歴博)が、放射性炭素年代測定により行った弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まることを明らかにした。当時、弥生時代は紀元前5世紀に始まるとされており、歴博の新見解はこの認識を約500年もさかのぼるものであった。当初歴博の新見解について研究者の間でも賛否両論があった。しかし、その後研究がすすめられた結果、この見解はおおむね妥当とされ、多くの研究者が弥生時代の開始年代をさかのぼらせるようになってきている。一方放射性炭素年代測定や年輪年代学の技術は充分に確立されたとはいえないことから、開始期の繰り上げに根強い反対も存在する。

弥生時代後期後半の紀元1世紀頃、東海、北陸を含む西日本各地で広域地域勢力が形成され、2世紀末畿内に倭国が成立。3世紀中頃古墳時代に移行した。

名称
「弥生」という名称は、1884年(明治17年)に東京府本郷区向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)の貝塚で発見された土器が発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことに由来する。当初は、弥生式土器の使われた時代ということで「弥生式時代」と呼ばれ、その後徐々に「式」を省略する呼称が一般的となった。

概要
紀元前5世紀中頃に、大陸から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系が伝わり、九州、四国、本州に広がった。初期の水田は、佐賀県唐津市の菜畑遺跡、福岡県の板付遺跡、那珂遺跡群(福岡市博多区)、江辻遺跡群(糟屋郡粕屋町)、曲り田遺跡(糸島市)、野多目遺跡群(福岡市南区)などで水田遺跡や大陸系磨製石器、炭化米等の存在が北部九州地域に集中して発見されている。弥生時代のはじまりである。

1981年(昭和56年)、弥生時代中期の遺跡として青森県南津軽郡田舎館村垂柳遺跡から広範囲に整然とした水田区画が見つかっている。その後、弥生時代前期には東北へと伝播し、青森県弘前市砂沢遺跡では小規模な水田跡が発見され、中期には、中央高地の松本盆地、千曲川流域までひろがった。中部地方の高地にひろがるまでには200年という期間がかかったが、その理由の一つに感光性のモミが日照時間の短い中部高地では育たないということが挙げられる。水稲農耕は、全般的にはかなりの速さで日本列島を縦断伝播の後、波及したといえる。またその伝来初期段階から、機能に応じて細分化した農具や、堰・水路・畦畔といった灌漑技術を備えた状態であったことが判っている。なお弥生時代(および次代の古墳時代に至るまで)の水田形態は、畦畔に区切られた一面の面積が極小では5平方メートル程度となる「小区画水田」が無数に集合したものが主流である。

水田を作った人々は、弥生土器を作り、多くの場合竪穴住居に住み、倉庫として掘立柱建物や貯蔵穴を作った。集落は、居住する場所と墓とがはっきりと区別するように作られ、居住域の周囲にはしばしば環濠が掘削された。

道具は、工具や耕起具、調理具などに石器を多く使ったが、次第に石器にかえて徐々に鉄器を使うようになった。青銅器は当初武器として、その後は祭祀具として用いられた。また、農具や食膳具などとして木器もしばしば用いられた。

弥生時代には農業、特に水稲農耕の採用で穀物の備蓄が可能となったが、社会構造の根本は旧石器時代と大して変わらず、実力社会であった。すなわち水稲農耕の知識のある者が「族長」となり、その指揮の下で稲作が行われたのである。また、水稲耕作技術の導入により、開墾や用水の管理などに大規模な労働力が必要とされるようになり、集団の大型化が進行した。大型化した集団同士の間には、富や耕作地、水利権などをめぐって戦いが発生したとされる。このような争いを通じた集団の統合・上下関係の進展の結果としてやがて各地に小さなクニが生まれ、1世紀中頃に「漢委奴國王の金印」が後漢から、3世紀前半には邪馬台国女王(卑弥呼)が魏に朝貢し、倭国王であることを意味する親魏倭王の金印を授けられた(倭・倭人関連の中国文献)。

一方、南西諸島と樺太・北海道には水田が作られず、南西諸島では貝塚時代、ついでグスク時代、樺太・北海道では続縄文時代、ついで擦文時代(さつもん)が続いた(また、本州東北地方では、青森県垂柳遺跡のように弥生時代前期の水田の事例もあるものの、一般的には中期後半前後まで水稲農耕は完全に受容されたとはいえず、北海道に準じ続縄文文化が展開したとの見方もある)。併合の記載があるまで、以後の記述は、九州・四国・本州を指す。南西諸島の歴史については、沖縄県の歴史他奄美群島の歴史、先島諸島の歴史も参照のこと。

弥生時代後期・終末期の2、3世紀ごろは、やや冷涼な気候であった。また、3世紀は海退期(弥生の小海退)があり、海が退いていき海岸付近の沼や湖が干上がり、その底に溜まっていた粘土の上に河が運んできた砂が溜まっていく時期であった。

時期区分
弥生時代の始まりをいつの時点とすべきかは、諸説ある。

そもそも弥生時代とは、弥生式土器が使われている時代という意味であった。ところが、弥生式土器には米、あるいは水稲農耕技術体系が伴うことが徐々に明らかになってくると、弥生時代とは、水稲農耕による食料生産に基礎を置く農耕社会であって、前段階である縄文時代(狩猟採集社会)とはこの点で区別されるべきだとする考え方が主流になっていった。

そのような中、福岡市板付遺跡において、夜臼式土器段階の水田遺構が発見され、従来縄文時代晩期後半と考えられていた夜臼式土器期において、すでに水稲農耕技術が採用されており、この段階を農耕社会としてよいという考えが提出された。その後、縄文時代と弥生時代の差を何に求めるべきかという本質的な論争が研究者の間で展開され、集落の形態や墓の形態、水田の有無、土器・石器など物質文化の変化など様々な指標が提案された。

現在ではおおよそ、水稲農耕技術を安定的に受容した段階以降を弥生時代とするという考えが定着している。従って、弥生時代前期前半より以前に(夜臼式土器に代表されるような刻目突帯文土器と総称される一群の土器形式に示された)水稲農耕技術を伴う社会が(少なくとも北部九州地域には)成立していたとされ、従来縄文時代晩期後半とされてきたこの段階について、近年ではこれを弥生時代早期と呼ぶようになりつつある。なお土器についた穀物圧痕の研究が進み、稲作技術は、遅くとも縄文時代後期までには列島にもたらされていたことが分かっている。また、水稲農耕の導入についても北部九州の一部地域では縄文晩期前半にまでさかのぼる可能性が指摘されているが、明確な遺構が発見されておらず、推測の域を出ない。

弥生時代の時期区分は、従来、前期・中期・後期の3期に分けられていたが、近年では上記の研究動向をふまえ、早期・前期・中期・後期の4期区分論が主流になりつつある。また、北部九州以外の地域では(先I - )I - Vの5(6)期に分ける方法もある。(早期は先I期)前期はI期、中期はII - IV期、後期はV期にそれぞれ対応する。(早期は紀元前5世紀半ば頃から)前期は紀元前3世紀頃から、中期は紀元前1世紀頃から、後期は1世紀半ば頃から3世紀の半ば頃まで続いたと考えられている。

2003年、国立歴史民俗博物館(歴博)の研究グループは、炭素同位体比を使った年代測定法を活用した一連の研究成果により、弥生時代の開始期を大幅に繰り上げるべきだとする説を提示した。これによると、早期のはじまりが約600年遡り紀元前1000年頃から、前期のはじまりが約500年遡り紀元前800年頃から、中期のはじまりが約200年遡り紀元前400年頃から、後期のはじまりが紀元50年頃からとなり、古墳時代への移行はほぼ従来通り3世紀中葉となる。

春成秀爾(国立歴史民俗博物館研究部教授)は「弥生時代が始まるころの東アジア情勢について、従来は戦国時代のことと想定してきたけれども、殷(商)の滅亡、西周の成立のころのことであったと、認識を根本的に改めなければならなくなる。弥生前期の始まりも、西周の滅亡、春秋の初めの頃のことになるから、これまた大幅な変更を余儀なくされる。」と述べている。これに対して宝賀寿男(日本家系図学会会長、家系研究協議会会長)は、「従来説では、中国の戦国時代の混乱によって大陸や朝鮮半島から日本に渡ってきた人たちが水稲農耕をもたらした、とされてきた。これは、稲作開始時期の見方に対応するものでもある。中国戦国時代の混乱はわかるが、殷の滅亡が稲作の担い手にどのように影響したというのだろうか。」と疑問を呈している。即ち殷は鳥・敬天信仰などの習俗から、もともと東夷系の種族(天孫族と同祖)と考えられるため、別民族で長江文明の担い手たる百越系(海神族の祖)に起源を持つ稲作には関係ないと考えられる。

中国(長江文明)における稲作は、長江中流域における陸稲が約10000 - 12000年前に遡り、同下流域の水稲(水田)は約6000 - 7000年前に遡ると言われている。『翰苑』の『魏略』逸文などは、倭人は呉の太伯(文王の伯父、紀元前12世紀頃の人とされる)の末裔を称したとしている。

定義の変遷
弥生時代の定義は発掘調査の進展に伴い、大きく変化してきている。そのため、文字資料から情報を得る場合、どの時点でどのような認識が主流だったのかを確認しておく必要がある。

江戸時代から
先住民と渡来人の交替があったとする人種交替説が主流で、日本人は中国人や朝鮮人など大陸のアジア人と同種であると認識されていた。当時、海外の著名人の著作物も同様の認識で書かれている。

1884年(明治17年)
弥生式土器が発見されたが、当初は縄文式土器の一様式と認識されていた。

1898年(明治31年)
弥生式土器が複数発見され、縄文土器との比較から別種とされ、土器の発見場所から弥生時代という名称が生まれた。

1916~21年(大正5~10年)
縄文土器と弥生土器の違いは何であるかや、年代的な先後関係については論争があったが、1916年(大正5年)に発見された鹿児島県指宿市の橋牟礼川遺跡で、濱田耕作が行った発掘調査により、縄文土器が弥生土器より下の包含層から出土し、年代的に古いということが層位学的に確認された。この時濱田耕作が弥生土器だと認識していた土器は、実は古墳時代後期の「成川式土器」という南九州独特の土器様式であることが後に判明するが、縄文土器と弥生土器の違いが年代差であることや、「縄文時代から弥生時代へ」という変遷の認識はこの時から始まった。

1936〜7年(昭和11〜12年)
奈良県唐古遺跡で行われた発掘調査で弥生土器と共に農耕具が発見されたことから、弥生土器の時代に農耕が行われていたことが明らかになり、弥生時代は農耕社会であるとされた。また、土器の変遷から時代をはかる「土器編年」が確立した。

1938年(昭和13年)~1940年代
1943年(昭和18年)、静岡県静岡市で登呂遺跡が発見され、1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)までの発掘調査で日本初の弥生時代水田遺構が検出される。

1950年代
弥生時代の人骨が出土するようになり、その特徴と縄文人骨との相違点から、渡来系の人骨であるとされた。

金関丈夫の混血説
鈴木尚の文化・環境による形質変化がおきたという変形説などが発生する。

1970〜1980年代

弥生時代が稲作を主体とする時代であることが定説になり、弥生時代の特徴は、稲作・農耕・高床式住居・布の服・戦争などであり、渡来人によってもたらされたという考えが一般的となった。

1990年以降
目覚ましい発掘調査の進展により、それまで弥生時代の特徴とされていた稲作・農耕・高床式倉庫・大規模集落・木工技術・布の服などが縄文時代に既に存在していたことがわかった。また、遺伝子の研究という新しいアプローチから下記の事が判明している。

人種の置き換えは起きていない・渡来系の人骨の発掘には地域差がある
文化伝搬の地域差が激しく、人種も完全に入れ替わってはいないこともわかり、弥生時代と縄文時代を明確に分割することが困難となり、開始年代やそもそもの定義について議論が起きている。

弥生時代の意義は稲作の始まりにあるのではなく、稲作を踏まえて国家形成への道を歩み始めることが重要とする見解が示されるようになり、水稲農耕を主とした生活によって社会的・政治的変化が起きた文化・時代を弥生文化、弥生時代とする認識が生まれていった。

この新たな弥生時代の定義によれば、西日本の弥生文化こそが典型的な弥生文化であって、東日本のものはそれとは大幅に異なる別文化であるとする見解が示される様になった。この弥生併行期の東日本の文化については「縄文系弥生文化」、「続(エピ)縄文」、「東日本型弥生文化」など研究者によって様々な呼称が与えられており、定まった名称はない。

ただしこの新たな定義については、自らの研究領域が弥生時代の定義から外れる事になる東日本の研究者からの強い反発がある。

弥生文化の発生と展開
縄文時代後期、西日本では生業の一部として既に農耕が行われていたが水田農耕の本格的な開始は紀元前10 - 9世紀の九州北部が最初とされる。紀元前9世紀の板付遺跡の環壕集落では既に集落内に階層差が存在したことが確認されている。

北部九州に弥生文化が発生して約250年後、弥生文化は西日本各地に伝播し始め、高知平野では紀元前8世紀、山陰・瀬戸内では紀元前7世紀に弥生時代が始まり、畿内の河内平野では紀元前750〜550年頃の間に弥生時代が始まったとされている。紀元前6世紀には濃尾平野、伊勢湾地域にまで拡散したが、弥生文化の拡散は濃尾平野、伊勢湾地域でいったん止まってしまう。

東日本には紀元前3世紀、関東地方西部に初めて弥生文化が定着したことが、小田原市の中里遺跡の発掘によって確認されている。中里遺跡では集団の編成方法や運営、生活技術などに畿内の影響が指摘されており、近畿中央部からの入植によって弥生文化の扶植が図られたことが明らかになっている。その後紀元前2世紀には関東地方西部一円に弥生文化が拡散した。

これよりさかのぼって、紀元前4世紀の津軽・砂沢遺跡、紀元前3世紀の垂柳遺跡で水田稲作の痕跡が確認されているが、水田農耕によって社会変化が起きた痕跡は確認されておらず、弥生文化には含まれない。

弥生文化/弥生時代は関東地方西部を東限とし、新潟県から千葉県を結ぶラインより西側にのみ存在したとされている。

弥生時代の研究では、弥生文化発生時の担い手が誰であったのかが議論になっている。考古学では九州の研究者は北部九州在来の縄文人が弥生化したと考えるのに対し、近畿の研究者の多くは渡来人が主体的な役割を果たしたとしている。人類学の埴原和郎は北部九州に渡来人が来て、稲作を始め、クニを作ったとしている。その後人口の増加とともに東へ移動し古墳時代には西日本一帯に広がったとする。埴原よると現代でも弥生〜古墳時代の人口動態の影響があるという。すなわち西日本は渡来系(弥生系)人種、北海道(アイヌ)、沖縄は縄文系人種、東日本はその両者が混雑した中間種であるとしている。

政治
戦乱の時代(受傷人骨と環濠集落・高地性集落)
弥生時代は、縄文時代とはうってかわって、集落・地域間の戦争が存在した時代であった。武器の傷をうけた痕跡のある人骨(受傷人骨)の存在などは、戦争の裏付けである。また、集落の周りに濠をめぐらせた環濠集落や、低地から100m以上の比高差を持つような山頂部に集落を構える高地性集落なども、集落や小国家間の争いがあったことの証拠であると考えられてきた。

弥生時代前期の墓には、人骨の胸から腰にかけての位置から十五本の石鏃が出土した例がある。多くの石鏃が胸部付近に集中して見つかる墓の事例は、瀬戸内海を中心とする西日本一帯に比較的多く見られる。かつては、戦闘の際に矢を何本も射込まれてやっと倒れた人物と解釈されることが多く「英雄」などとも呼ばれたが、近年では、矢を特定の部位に集中して射込まれていることの不自然さから、刑罰として処刑されたとか、何らかの儀礼的行為の際の犠牲(生贄)となって胸に矢を射込まれたなどといった解釈もある。平和的な解釈としては、埋葬の際に副葬品として鏃を胸のあたりに埋納したと考える者もいる。

北部九州では、前期から中期にかけて銅剣・銅戈・石剣・石戈の切っ先が棺内から出土することが多い。こうした例は、武器を人体に刺突した際に先端が折れて体内に残ったものと解釈される。しかし武器の先端を折りとって副葬品として棺内に埋納するという風習があったのではないかといった反論をする者もいる。佐賀県吉野ヶ里遺跡や福岡県筑紫野隈・西小田遺跡などでは、中期前葉の男性甕棺数が女性の倍にも達する事実があり、男性が戦闘に参加する機会が多い事を示すと考えられる。甕棺内に頭部を切断された胴体だけが埋葬されていたと考えられる事例が見つかっており、戦闘の際に敵に首を切られた死体を持ち帰り、埋葬したものと理解されている。戦争やテロの時に敵の首を取る慣習は、戦国時代や幕末でも続いていたが、その始まりは弥生時代にあった。しかしこのような例が本当に戦闘の犠牲者なのかは論証されておらず、何らかの儀礼的行為によるものと主張する者もいるが、未だ論証されていない。

受傷人骨の中でも、明らかに武器によってつけられたと考えられる傷のある人骨の存在は、戦闘の存在を示す証拠である。例えば額から右眼にかけて致命的な傷痕があり、更に右手首を骨折していた人骨が見つかっているが、右手首の骨折は、攻撃から身を守る際につけられる、防御創と呼ばれる種類の傷としては一般的なもので、戦闘による受傷者である可能性は極めて高い。また人骨に武器の切っ先が嵌入している事例も、北部九州を中心に数例が確認されているが、これらは武器による受傷人骨であることが明らかである。このような受傷人骨の例は縄文時代にもないわけではないが、弥生時代には前代と比べて明らかに数が増加しており、縄文時代と比べて戦争が頻繁に起こったであろう事は確実といわれている。

また、戦闘の証拠とされる上記のような事例のうち、武器の切っ先が棺内から出土する例、頭部がない人骨、あるいは人骨に残る受傷例などは、前期後半から中期前半の北部九州地域、特に福岡県小郡市を中心とした地域に多く認められる事が特徴的である。弥生前期後半から中期前半は、西日本の多くの地域で集落が可耕地に乏しい丘陵上へと一斉に進出することが指摘されており、各地域において弥生集団が急激な人口の増加を背景に可耕地の拡大を求めた時期であるとされる。この可耕地の拡大が原因となって、各地で土地と水に絡む戦いが頻発したものと考えられ、中でも北部九州における受傷人骨の多さは、こうした争いが頻発した証拠と考えられている。なお、中期後半以降は受傷人骨や切先が棺内から出土する例は減少する。

大規模な集団殺戮を示す遺跡としては、鳥取県の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡が代表的である。日置川と勝部川の合流点の南側に弥生中期から村が形成され、弥生後期後葉に戦争の結果とみられる状況で集落が廃絶したと思われる(住居跡は未発掘)。東側の溝(防御施設と港の機能を兼ねていたか)から100人分を超える人骨が見つかり、少なくとも10体、110点の人骨に殺傷痕が見られた。人骨は女性や老人や幼児も含めて無差別に殺されており、刀剣による切り傷がついた骨、青銅の鏃が突き刺さった骨がある。治癒痕はなく、骨に至る傷が致命傷となってほぼ即死したと思われる。出土状況も凄惨で、溝に多数の死体が、埋葬ではなく折り重なって遺棄されている。遺物も、原型を保った建築物の一部や、様々な生活用品が、通常の遺跡ではありえないほど大量に出土している。死者の中に15〜18歳の若い成人女性がおり、額に武器を打ち込まれて殺されている。殺戮した後、死体の処理と施設の破壊を兼ねて、死体や廃棄物で溝を埋め立てたものと思われる。略奪はしただろうが、破壊した住居や不要な生活用品は捨てられた。通常なら再利用や腐朽で失われるものが、保存条件もよくて大量に残存した。虐殺以後は集落は復興せず、現代まで水田として利用された模様である。

なお虐殺死体が弥生時代に増加すること及びそれらを研究することが専門の研究者にとっても大きな精神的負担になっていることを、松木武彦は新聞の評論で述べている。

環濠集落・高地性集落
環濠集落・高地性集落は、集団同士の争いに備えた防衛集落であったと考えられてきた。環濠集落の北限は、太平洋側では千葉県佐倉市の弥生ムラ、日本海側では新潟県新八幡山である。ただ、秋田市地蔵田B弥生ムラが4軒の家を柵で囲んでおり、これを入れるとすると日本海側の防御集落の北限がさらに北上する。これにより戦争による緊張感は広く全国的で、日本海側の方が北まで広がっていたのではないかと考える者もいる。

しかし、これには反論が存在する。北部九州から伊勢湾沿岸までには、環濠集落・高地性集落、矢尻の発達、殺傷人骨、武器の破損と修繕などの戦争に関わる可能性のある考古学事実が数多くそろっており、戦争があったと推定されるが、南九州・東海・南関東・長野・北陸・新潟は、戦争があったと考えられる考古学的事実の数が比較的少ない。北関東と東北には戦争があった可能性を示す考古学事実はほとんどない。遠江、静岡県浜松市には伊場遺跡などの環濠集落はあるが、登呂遺跡などの静岡市周辺の大規模な弥生ムラには環濠はなく、戦争があった可能性は薄い。神奈川県逗子市周辺は農耕的性格を示していながらも食料採集にも大きく依存していたことを示しており、戦争はなかったと考えられる。北関東と東北地方の広い範囲は、米の生産高が低かったからこそ戦争とは無関係であったのであろうと推測する説もある。

さらに、環濠集落の出現は、未だ戦闘の証拠がほとんどない弥生時代早期にさかのぼる事(福岡県江辻遺跡、同那珂遺跡群など)、受傷人骨などの事例から戦乱が頻発したと考えられる前期後半 - 中期前半、特に中期初頭以降の北部九州ではむしろ環濠集落の事例は少ない事、しばしば環濠を掘削する際に排出された土を利用して環濠の外側に盛り土をした痕跡のある事例が報告されているが、環濠の外側に盛り土をすることによって外敵を有利にしてしまう(盛り土を矢避けにしたり盛り土の上から攻撃できる)事などから、環濠集落と戦乱とを直接的に関連づける、すなわち環濠集落を防衛集落と考えるのではなく、環濠を掘削するという大規模な土木作業を共同で行うことによって共同体の結束を高めることが目的であった、又は環濠によって集団を囲い込むことによって集団意識を高めることが目的であったとする議論も提出されてきている。しかし弥生時代後期の高地性集落にしばしば環濠が掘削されていること、環濠内に逆茂木(さかもぎ)と呼ばれる防御施設が設置された事例が認められること(愛知県朝日遺跡など)などから、環濠自体に防御的な機能を持たせた事例が多い事もまた明らかである。環濠の性格については地域・時期によって異なる意味づけを持たせるべきではないかといった主張がある。

一方、古くから防衛集落と目されてきた集落の類型として、高地性集落が挙げられる。高地性集落は、弥生時代中期後半 - 末(IV期後半 - 末)、そして後期中葉 - 末(V期中葉 - 末)に瀬戸内沿岸から大阪湾にかけて頻繁に見られるもので、弥生時代の一般的な集落からみて遙かに高い場所(平地からの比高差が50〜300メートル以上)に営まれている集落のことである。北部九州から北陸・中部・東海地域などといった広い範囲に分布する。1970年代までは、畿内IV期がおおよそ北部九州の後期前半、畿内V期が後期後半に併行するとされ、実年代では紀元50年 - 250年ごろに比定されていた。

史書にある、いわゆる倭国大乱は、各種の史書に記載された年代がおおよそ2世紀後半 - 末に当たり、当時の年代観ではおおよそ畿内IV期末 - V期前半期に該当していた。このため、高地性集落の盛行は倭国大乱を原因とするものだという理解が主流であった。畿内と九州の年代の併行関係が是正されると、倭国大乱は畿内V期後半 - 末に該当する。畿内IV期の高地性集落とは時代的に整合的でないとされ、これらは倭国大乱とは無関係とする意見が主流を占めるようになった。畿内IV期の高地性集落については、この時期に史書には記載されない戦乱があったという主張が多いが、背景に戦乱を想定する必要はないという意見も見られる。後者の場合、見晴らしがよい立地に住むことで、海上交通の見張り役となっていたとか、畑作を主とする生活をしていた集団であって水田耕作に有利な低地に住む必要がなかったなどといったさまざまな議論が行われている。一方、後期後半期の近畿の高地性集落(大阪府和泉市観音寺山遺跡、同高槻市古曾部遺跡などは環濠を巡らす山城)については、その盛行期が、上述の理由から北部九州・畿内ともおおよそ史書に記載された倭国大乱の年代とほぼ一致することから、これらを倭国大乱と関連させる理解が主流を占めている。

倭国大乱
魏志倭人伝には、卑弥呼が邪馬台国を治める以前は、諸国が対立し互いに攻め合っていたという記述がある。また、後漢書東夷伝には、桓帝・霊帝の治世の間、倭国が大いに乱れたという記述がある(倭国大乱)。

近年、畿内の弥生時代IV・V期の年代観の訂正により、これらはおおよそ弥生時代後期後半 - 末(V期後半 - VI期)に併行するという考えが主流になった。この時期には、畿内を中心として北部九州から瀬戸内、あるいは山陰から北陸、東海地域以東にまで高地性集落が見られること、環濠集落が多く見られることなどから、これらを倭国大乱の証拠であるとする考え方が有力となっている。

ところが、前代に比べて武器の発達が見られず、特に近接武器が副葬品以外ではほとんど認められないこと、受傷人骨の少なさなどから、具体的な戦闘が頻発していたと主張する研究者はあまり多くない。倭国大乱がどのような争いであったのかは未だ具体的に解明されていないのが現状である。

邪馬台国畿内説では、北部九州勢力が大和へと移動したことを示す物的証拠は考古学的にはほとんど認められないとしており、近年ではむしろ北部九州勢力が中心となって、鉄などの資源の入手や大陸からの舶載品などを全国に流通させていた物流システムを畿内勢力が再編成し直そうとして起こった戦いであったという。一方、邪馬台国九州説では、弥生時代後期中葉以降に至っても瀬戸内地域では鉄器の出土量は北部九州と比べて明らかに少なく、また、鉄器製作技術は北部九州と比べて格段に低かった。倭国大乱の原因については、古事記、日本書紀等の神武天皇の東征の記述と結びつけ、北部九州勢力が大和へと移動してヤマト朝廷を建てたとする。

地域勢力と大型墳丘墓の出現
時代が下るにつれ、大型集落が小型集落を従え、集落内で首長層が力を持ってきたと考えられている。首長層は墳丘墓に葬られるようになった。このことは身分差の出現を意味する。弥生時代後期になると墓制の地域差が顕著となっていく。近畿周辺では方形低墳丘墓がつくられ、山陰(出雲)から北陸にかけては四隅突出墳丘墓が、瀬戸内地方では大型墳丘墓がそれぞれ営まれた。

吉備地域
瀬戸内地方のなかでも吉備と呼ばれる岡山県と広島県東部の地域では、弥生時代後期の最大級の墳丘墓は、岡山県倉敷市の楯築墳丘墓(最大長約80メートル)である。この地域では首長の葬送儀礼には、特殊器台形土器と特殊壺形土器が数多く使用された。これらの土器は、吉備地方で発生後、美作・備前・備中・備後の地域に分布する。その発達の中心は、備中南部の平野であった。そして、これらの地域の周辺地域では使用されていないのが特徴である。

山陰地域

中国山地の三次で発生したと推定され、出雲地域で発達した四隅突出型の墳丘墓(大きなものは約45メートル×約35メートル)が現れる。これらは後の古墳時代に匹敵する土木建築を駆使したもので、その分布は山陰の出雲地方や北陸の能登半島にまで拡がっている。出雲地域に存在する安来・西谷の両墳丘墓集積地には台形土器と壺形土器。出雲と吉備の両地域に同盟関係が生まれていたことを示していると考えられている。
これらの墓の特徴が寄り集まって後代の古墳(前方後円墳など)の形成につながったとされている。

弥生時代の地域勢力は、北部九州・吉備・山陰・近畿・三遠(東海)・関東の勢力に大別することができる。時代の進行とともに連合していき、一つの勢力が出来ていった、と考えられる。水田農耕発展のために農地の拡大と農具となる鉄の獲得のため、また地域間の交易をめぐる争いのために戦いが起こり時代が進行していった。近畿では、環濠集落は、弥生前期末に現れ、中期以降に普及した。

人々の生活
日本人の主食は、弥生時代に水稲耕作を始めてから米を常食としていたと考えられてきたが、1917年(大正6年)内務省、1878年(明治11年)大蔵省による全国食料調査の結果から、市部・市街地及び郡部・村落部の順に米を食べる量が段々少なくなっていることなどから、必ずしもそうではないともされる。

では、弥生水田の収穫量はどのくらいであったのか。弥生時代前期は下田・下々田、中期は下田・下々田、後期(登呂)中田・下田。収穫量は多いとは言えない。一日あたりの米の摂取量は先進地帯でも前期は1勺程度、中期で6勺〜1合程度、後期でも2合を超えることはなかった。デンプン質不足量をドングリなどの堅果類で補っていた。

家畜利用
弥生時代には水田農耕が行われるが、大陸における農耕がブタやウマ、ウシなど家畜利用を伴うものであったのに対し、弥生時代の研究においては長らく家畜の存在が見られなかったため「欠畜農耕」であるとも理解されていた。これに対し、1988年・1989年に大分県大分市の下郡桑苗遺跡で関係のイノシシ頭蓋骨3点、ブタ頭蓋骨が出土した。イノシシ類頭蓋骨に関しては西本豊弘が形質的特徴からこれを家畜化されたブタであると判断し、以来弥生ブタの出土事例が相次いだ。また、1992年には愛知県の朝日遺跡で出土したニワトリの中足骨が出土している。

弥生ブタの系統に関しては、縄文時代からイノシシの飼養が行われてはいるものの、イノシシからブタに至る過渡的な個体の出土事例がなく、また日本列島では島嶼化によりイノシシ個体のサイズに大小があるのに対し、弥生ブタはこの地域差からかけはなれた個体サイズであるため、弥生ブタは大陸から持ち込まれたとも考えられている。

弥生ブタの系統の検討には、ミトコンドリアDNA分析を用いた分析も行われている。2000年の小澤智生による分析では12点の試料のうち11点がニホンイノシシと判定された。2003年の石黒直隆らが小澤とは異なる手法を用いて分析を行い、10点の試料のうち6点は現生ニホンイノシシと同一グループ、4点は東アジア系家畜ブタと同一グループに含まれるとし、両者で異なる結果がでている。なお、石黒らは加えて後者のグループは西日本西部の一部の地域に限られて分布している点も指摘している。 また、縄文時代に狩猟に用いられたイヌに関しては、大陸から食用家畜としてイヌが導入された。

狩猟・漁労
縄文貝塚の衰退と弥生時代の漁労
縄文時代の関東地方では東京湾岸などで大規模な貝塚が形成され、クロダイ・スズキ漁を中心とする縄文型内湾漁労が行われていた。関東地方では縄文晩期に貝塚数が減少し、弥生時代前期には縄文型貝塚が消滅するに至る。一方、三浦半島など外洋沿岸地域では引き続き外洋漁労が行われている。外洋漁労の痕跡を残す洞穴遺跡では外洋沿岸岩礁のアワビやサザエ、外洋性回遊魚のカツオ、サメ、外洋沿岸魚のマダイが出土している。アワビは縄文時代において出土事例が少なく、弥生時代には潜水漁が行われていたとも考えられている。遺物では漁具として釣針、銛(もり)、ヤスなどが出土しており、特に縄文後期に東北地方太平洋岸で特異的に見られる回転式銛頭が出土している点が注目される。

弥生中期には全国的に内湾干潟の貝類であるハマグリ・イボキサゴを主体とする貝塚の形成が行われるが、小規模で数も少ない。漁労においても大陸から渡来した管状土錘を使用した網漁が行われ、網漁は後に増加・多様化し、瀬戸内海で特に発達した。また、内湾型の漁労としてイイダコの蛸壺漁も行われている。

こうした縄文以来の漁労活動が継続した関東においても弥生中期には稲作農耕社会が成立する。稲作農耕と漁労の関係を示す遺跡として神奈川県逗子市の池子遺跡がある。池子遺跡は弥生中期の集落遺跡で、稲作農耕と外洋漁労の痕跡を示す貝塚が共に見られる。池子遺跡では銛漁やカツオの釣漁、網漁が行われいたと考えられており、カツオなど農繁期と重なる夏場に漁期を持つ魚類が見られることや、専門性の高い銛漁・釣漁が行われていることから、農耕民とは別に漁業を専門とする技術集団がいたと考えられている。

淡水漁労の開始
また、弥生時代には稲作農耕の開始により、水田や用水路など新たな淡水環境が生まれたことにより淡水産魚類・貝類を対象とした漁労も行われる。愛知県清須市の朝日遺跡は大規模な貝塚を伴う漁労と稲作農耕を兼ねた集落遺跡で、内湾漁労のほかタニシ、コイ科、フナ、ナマズ、ドジョウを対象とした淡水漁労も行われている。淡水漁労の成立に伴い専用の漁具も生まれ、大阪市八尾市の山賀遺跡や福岡県春日市の辻畑遺跡では淡水魚を捕獲する筌(うけ)と考えられている漁具が出土している。

各地の漁労活動
北海道では稲作農耕が需要されなかったため縄文型漁撈が継続し、海獣猟や寒流性の魚類を対象とした狩猟・漁業が行われた。

九州北部では縄文時代に外洋漁業が発達し、西北九州型結合式釣針と呼ばれる独自の釣針が生まれた。この釣針の分布は縄文時代には北部九州にとどまっているが、弥生時代には山陰地方へ普及している。

関西地方では大阪湾岸の宮の下貝塚など縄文型の貝塚が継続した事例が見られ、縄文晩期から弥生中期に至るまで継続して貝塚が営まれている。

道具類
弥生時代の道具類を材質から分類すると、大きく石器、木器・青銅器・鉄器・土器などに分けることができる。

石器
石器には、縄文文化より伝わった打製石器を中心とする一群と、朝鮮半島無文土器文化より伝わった磨製石器の一群(大陸系磨製石器)がある。打製石器は、石鏃やスクレイパー(削器・掻器)など、狩猟具(武器)・利器として用いられた。 石材としてはサヌカイトなどの安山岩系の岩石や黒曜石などが主に用いられ、縄文時代からの製作技術を受け継いで作られた。一方、水稲農耕の流入とともに流入した大陸系磨製石器と呼ばれる石器群には、蛤刃磨製石斧や抉入片刃石斧といった工具や、石包丁や石鎌などといった農具があり、水稲農耕技術の受容にともなう開墾や耕起、収穫に用いられる道具として、弥生時代になって新たに導入された道具類である。

青銅器
青銅器は半島と大陸から北部九州に伝えられた。北部九州を中心とする地域では銅矛や銅剣・銅戈などの武器形青銅器が、一方畿内を中心とする地域では銅鐸がよく知られる。北部九州や山陰、四国地方などに主に分布する銅矛や銅剣、銅戈などは、前期末に製品が持ち込まれるとともに、すぐに生産も開始された。一方銅鐸も半島から伝わったと考えられるが、持ち込まれた製品と列島で作られた製品とは形態にやや差があり、列島での生産開始過程はよくわからない。出現当初の銅剣や銅矛など武器形青銅器は、所有者の威儀を示す象徴的なものであると同時に、刃が研ぎ澄まされていたことなどから実際に戦闘に使われる実用武器としても使われていた可能性が高い。この段階の武器形青銅器は墓に副葬されることが一般的で、個人の所有物として使われていたことがわかる。弥生時代中期前半以降、銅剣・銅矛・銅戈などの武器形青銅器は、徐々に太く作られるようになったと理解できる。一方、銅鐸は出現当初から祭祀に用いられたと考えられるが、時代が下るにつれて徐々に大型化するとともに、つるす部分が退化することから、最初は舌を内部につるして鳴らすものとして用いられたが、徐々に見るものへと変わっていったと考えられている。また、銅鏡も弥生時代前期末に渡来した。中期末以降列島でも生産されるようになったが、墓に副葬されたり意図的に分割されて(破鏡)祭祀に用いられた。このように、大型の青銅器は出現当初をのぞいてほとんどが祭祀に用いられるものであった。このほかに鋤先などの農具やヤリガンナなどの工具、鏃などの小型武器などもみられるが、大型の青銅器に比べて非常に少量である。

青銅器は、最初期の一部の例(半島から流入した武器形青銅器などの一部を研ぎ出すことにより製作される事例が存在する)をのぞき、鋳型に溶けた金属を流し込むことにより生産された。青銅器の鋳型は、列島での初現期にあたる弥生時代前期末 - 中期前半期のものは主に佐賀県佐賀市から小城市にかけての佐賀平野南西部に多く見られる。中期後半までに青銅器の生産は福岡県福岡市那珂・比恵遺跡群や春日市須玖遺跡群などで集中的に行われるようになる。平形銅剣をのぞくほとんどの武器形青銅器はこれらの遺跡群で集中的に生産されたと考えられている。一方、銅鐸の生産は近畿地方などで行われたと考えられているが、北部九州ほど青銅器生産の証拠が集中して発見される遺跡は未だ見つかっておらず、その生産体制や流通体制などには未解明の部分が多い。

鉄器
弥生時代中期前半までには北部九州で工具を中心に一般化がおこると、後期以降に西日本全域に拡散するとともに、武器や農具としても採用されるようになった。鉄器は耐久性や刃の鋭さから主に利器、特に工具や農具(収穫具)として用いられた。出現当初は鍛造鉄斧の断片を研ぎ出して小型の工具などとして使っていたが、中期前半までには北部九州で袋状鉄斧と呼ばれる列島製の鉄斧が出現すると、徐々に西日本一帯へと波及していった。このほかに小刀(刀子)や鉄鏃、ノミ状工具などの存在が知られる。この時期の鉄器は鉄素材を半島から輸入して製作されており、列島で製鉄が見られるのは古墳時代後期以降と考えられる。

弥生時代における鉄器の生産には、材料となる鉄を切り・折り取り、刃を磨き出すことによって作られる鏨切り技法と、鍛造により形を作り出す鍛造技法があることがわかっている(ごく一部の例について、鋳造により作られた可能性が示唆されているが、鉄を溶かすためにはきわめて高温の操業に耐えうる炉が必要であり、弥生時代にこのような技術が存在したかどうかは疑問視されている)。

北部九州、特に福岡市周辺地域では弥生時代中期前半までに鍛造技法による鉄器の生産が開始された。一方、同じ北部九州でも八女市などの周辺地域では弥生時代後期になっても鏨切りによる鉄器生産が一般的であった。瀬戸内地方でも、弥生時代後期までには鍛造による鉄器生産が伝播していたが、技術的には北部九州のそれよりも明らかに低い水準にあり、同時に鏨切りによる鉄器製作も普遍的に行われていた。

弥生時代後期には、玄界灘沿岸地域の遺跡から鉄器が大量に出てくるが、瀬戸内海沿岸各地方や近畿地方の遺跡からはごくわずかしか出てこない。つまり玄界灘沿岸地域が鉄資源入手ルートを独占していたと推定されている。それゆえに、鉄資源の入手ルートの支配権を巡って戦争が起こったのではないかと考えられているが、今はまだ考古学的に立証することができない。戦争が起こったと仮定すれば、近畿地方の大和勢力を中心に、広域の政治連合、例えば邪馬台国連合のような同盟ができあがっていたことが想定されている。

土器
土器は、弥生土器と呼ばれ、低温酸化炎焼成の素焼き土器が用いられた。弥生土器の初めは、板付I式土器(後に遠賀川式土器)であり、西日本はもちろんのこと東北の青森県にまで伝播した。弥生文化が本州の北端まで広がったことを物語る土器である。縄文時代の縄文土器と比べて装飾が少ないとしばしばいわれるが、実際に装飾が少ないのは前期段階の土器と中期以降の西日本、特に北部九州の土器で、そのほかの地域・時代の土器にはしばしば多様な装飾が施される。器種として主要なものに甕・壷・高坏があり、特に壷は縄文時代には一般化しなかった器種で、弥生時代になって米が主要な食糧となったため、貯蔵容器として定着したと理解されている。

土器の生産は集落ごとに行われ、集落ごとに自給自足によりまかなわれたと漠然と考えられているが、土器生産に関する遺構はほとんど事例がない。最近、土器の焼成失敗品や、強い熱を受けたために器壁が薄くはじけるように割れた土器に注目して、大規模な集落で土器が集中的に生産された可能性が提起された。また、土器の形態は地域性をきわめてよく表すため、その特徴に着目して他地域から搬入された可能性の高い土器と在地の土器とを峻別して、土器はこれまで思われていたよりもずっと多量に移動している可能性が指摘されている。

木器
木器は主に食膳具や耕起具として使われた。特に食膳具には漆を塗ったり細かな装飾を施すなどした優品が多いが、木器は腐るために良好な状態で出土する例はまれであり、詳しいことは未だよくわかっていない。

集落
弥生時代の集落には様々な例があるが、一般的に発見されるものに、居住施設としての竪穴住居、貯蔵施設としての貯蔵穴や掘立柱建物、ゴミ捨て場や土器の焼成など様々な用途に使われたと考えられる土坑(不定形の穴)、集落の周りを巡らせたり集落内部を区画するように掘られた溝(環濠や区画溝など)の遺構がある。

弥生時代の人々の住居には、主として竪穴住居が使われた。平面形態は円形・方形が主流で、長方形・隅丸方形がそれに次ぐ位置を占めるが、地域によって多様な様相を示す。早期の北部九州の住居には、縄文時代晩期の系譜を引き継ぐと考えられる平面方形のもののほかに、平面円形で中央に浅い皿状のくぼみを持ち、その両脇に小さな穴(柱穴か)を1対持つ特徴的な形態の住居が存在する。この形態の円形住居は、同時期の朝鮮半島南部に広く分布しており、韓国忠清南道扶余郡松菊里遺跡で最初に注目されたことから、「松菊里型住居」ともよばれる(ただしこの名称は日本国内に限定して使用され、韓国考古学界ではむしろ「松菊里類型」という用語は住居跡の形態のみでなく土器や石器組成を含めた文化総体の名称として用いられることが一般的となっている)。この松菊里型住居は、縄文時代後・晩期に西日本一帯でしばしば見られる円形プランの住居跡とともに、弥生時代前期から中期にかけて主流となる円形住居の祖形となったと考えられている。弥生時代中期には、住居のプランは北部九州から西日本一帯で円形プランのものが卓越すると、一部に隅丸方形のものが見られるが、弥生時代後期に入ると西日本一帯で突如として平面プランが方形あるいは長方形へと変化する。その後、次第に長方形へと統一されていく。

このほか、南部九州には「花弁型住居」と呼ばれる特異な平面プランの住居跡が分布すると、また兵庫県西部(播磨)地域には円形住居の床面中央部に1O(イチマル)土坑と呼ばれる特殊な遺構を持つ例が分布するなど、竪穴住居の形態には多様な地域性があり、注目される。

弥生時代の住居としては竪穴住居が出土例の大半を占めるが、このほかに平地式住居や掘立柱建物が想定される。平地式住居の場合、生活面が削平されて(けずられて)しまうと生活の痕跡の大半が失われてしまうことから、住居として把握することがきわめて困難になってしまうため、これまでに把握された平地式住居の具体的な例はきわめて少ない。また、掘立柱建物の場合後述する倉庫などとの区別が平面プランだけでは区別できないため、これも確実な住居の例は指摘されていない。

弥生時代には、主に米を貯蔵する倉庫が発達した。早期には北部九州など一部の集落に掘立柱建物の倉庫が半島から伝播するが、前期までに地下式の倉庫が主流となり、掘立柱建物はほとんど見られなくなる。地下式倉庫は円形のものが主流で、しばしば方形・長方形のものが見られ、いずれも断面形態がフラスコ状を呈する。これらは「貯蔵穴」と呼ばれる。

中期前半から中葉にかけて、掘立柱建物の倉庫が西日本一帯に展開する。主な形態のものは柱間が1間×2間の規模のもので、これに1間×1間、1間×3間などのバリエーションが加わる。この倉庫の様相は弥生時代を通じておおよそ変化はなく継続する。弥生時代末から古墳時代初頭になると、2間×2間の総柱式の建物が現れ、これが主要な倉庫の形態となる。

墓制
弥生時代の墓制を示す用語に、支石墓、墳丘墓、周溝墓などといった埋葬施設の外部施設(上部構造)を示す区分と、甕棺墓、土壙墓、木棺墓、石棺墓などといった個々の埋葬施設本体の形状(下部構造)を示す区分がある。いずれも、半島より渡来した要素と縄文文化より受け継いだ要素からなり、地域によって墓地の構成に様々な特色が見られる。

甕棺墓は、北部九州弥生時代前 - 中期の代表的な墓制である。前期前半段階には壷形土器をそのまま大型化した埋葬容器が使用されるが、前期末までには埋葬専用容器として独自の形状を持ったものが成立する。朝鮮半島に甕棺墓が現れるのは日本の約100年後であり、半島から伝来したとは考えにくい。その形状は壷形土器から甕形土器へと移行する。中期には北部九州各地で少しずつその形態を変えながらも基本的には同じ形質的特徴を共有する成人用大型甕棺が北部九州に定着するとともに、小児・乳幼児用に日常容器として使われる通常のサイズの甕形土器が埋葬容器として一般的に使われるようになり、甕棺墓制が確立する。同時に、成人用大型甕棺に付属する蓋として、大型の鉢形土器が成立する。甕棺墓は成人用甕棺が二つ合わせ口として組み合わされるものが一般的であるが、このほかにこの鉢形の甕棺専用蓋が用いられるものも多く、また木製や石製の蓋が使われることも多い。甕棺墓制は後期には急速に衰退して石蓋土壙墓・箱式石棺墓などに取って代わられ、糸島地域のみで細々と継続するほかは旧甕棺墓制分布域で散発的に認められるのみとなり、古墳時代までには消滅する。主たる分布域は北部九州地域でも筑前・筑後・肥前東部域であり、この周辺地域では副次的な墓制として分布する。

木棺墓は、明確な出自は明らかになってはいないものの縄文文化には認められない墓制であることから半島から渡来した墓制と考えられている埋葬様式の一つである。弥生時代の木棺墓の大半は組合式と呼ばれるもので、一般的には、底板・両側板・両小口板・蓋板の計6枚の板材を組み合わせ、あらかじめ掘削された土坑の中に棺を作るものである。しばしば小口板などが石材に置き換わる例がある。板材の組み合わせ方には、両側板が小口板を挟み込む形式のものと小口板が両側板を挟み込む形式のものとがあり、これが被葬者の集団を表すとする論があるが、証明されてはいない。弥生時代前期末までには広く(北部九州をのぞく)西日本地域で主たる墓制として採用され、特に畿内などでは土壙墓とともに中期の方形周溝墓の主体部として採用される。弥生時代後期にはやはり石蓋土壙墓や箱式石棺墓などに取って代わられ、衰退する。また、特殊な木棺墓として、丸木をくりぬいたものを上下に合わせたような特殊な形状をした木棺墓が特に弥生時代早期 - 前期前半期に特徴的に認められる。

土壙墓、特に素掘りの土壙墓は、縄文時代に一般的な墓制であり、弥生時代にもしばしば認められる墓制である。縄文時代の土壙墓弥生時代の(特に西日本の)土壙墓とはその形状に差があり、後者の方が全長が長い。これは、埋葬姿勢の差異に由来するものと考えられる(縄文時代の土壙墓には屈葬が多く認められる一方、弥生時代の土壙墓は伸展葬が一般的である)。弥生時代に新たに現れる土壙墓の形式の一つに、蓋を板石で覆う石蓋土壙墓があり、弥生時代後期に広く西日本全域で一般化する。箱式石棺墓との関連性も考えられる(箱式石棺墓の蓋石以外を省略すると石蓋土壙墓となるため)。

中国との通交
中国との通交は渡来系弥生人に遡ることができる。近年、DNAの研究が進み、渡来系弥生人の多くは中国大陸の長江流域、江南地方から来たと言われている。更に遡ると現在の中国の青海省付近にまで遡ることができるという調査結果がある。

稲作については、弥生米のDNA(SSR多型)分析によって、朝鮮半島には存在しない稲の品種が確認されており、今までの朝鮮半島経由のルートとは異なる、中国中南部から直接渡来したルートが提唱されている。しかし、この説には発見された中国中南部の稲の品種はごく少量であることと水稲農耕は中国ではなく、朝鮮半島から始まった農耕であるという問題点がある。また近年、渡来系弥生人のDNAと下戸の遺伝子の関連性が調査されている。

中国の史書では、後漢の『論衡』が周代の倭に関する知識を伝え、ついで漢書が前漢代のこととして倭人が多数の国に分かれて住んでおり、使節を送ってくると記している。

『後漢書』(南北朝時代、432年成立)には、57年に倭奴国王が後漢光武帝から金印を授かり、また107年には倭国王帥升(または倭面土國王帥升)が生口を後漢へ献じたことが見える。

三国志の『魏志倭人伝』には、3世紀の倭国の状況が詳しく記されており、邪馬台国の卑弥呼女王が統治していたことなどを伝えている。

中国の三国時代の呉と倭国が公的に交渉を行った文献は全くないが、遺物としては呉の年号を記す画文帯神獣鏡が二面存在する。

山梨県西八代郡市川三郷町大塚の鳥居原塚古墳出土の赤烏(せきう)元年(238年)の紀年銘をもつ。
兵庫県宝塚市安倉古墳(あくらこふん)出土の赤烏七年(244年)の紀年銘をもつ。

朝鮮半島との関係
現代の日本人の起源についてはさまざまな仮説があったが、今の遺伝子学の研究結果によると現代の日本人は朝鮮半島から渡ってきた弥生人が縄文人と混血して形成されたという

弥生人の特徴
大陸と半島から北部九州へと水稲耕作技術を中心とした生活体系を伝えた渡来系の弥生人の形質に最も近い集団は頭蓋骨の計測値に基づく自然人類学的研究によると河南省の新石器時代人、青銅器時代の江蘇人と山東臨淄の人であった。また、眼窩は鼻の付け根が扁平で上下に長く丸みを帯びていて、のっぺりとしている。また、歯のサイズも縄文人より大きい。平均身長も162〜163センチぐらいで、縄文人よりも数センチ高い。しかしながら、こうした人骨資料のほとんどは、北部九州・山口・島根県の日本海沿岸にかけての遺跡から発掘されたものであるが、南九州から北海道まで、他の地方からも似た特徴を持つ弥生時代の人骨は発見されているが、それらは人種間の形態とその発生頻度までを確定付けるには至っていない。

近年、福岡県糸島半島の新町遺跡で大陸墓制である支石墓から発見された人骨は縄文的習俗である抜歯が施されていた。長崎県大友遺跡の支石墓群から多くの縄文的な人骨が発見されている。さらに瀬戸内地方の神戸市新方遺跡からの人骨も縄文的形質を備えているという。ただ、福岡市の雀居(ささい)遺跡や奈良盆地の唐古・鍵遺跡の前期弥生人は、弥生系の人骨だと判定されている。

つまり、最初に弥生系と考えられている北部九州や瀬戸内・近畿地方でさえ、弥生時代初期の遺跡からは弥生系の人と判定される人骨の出土数は縄文系とされる人骨より少ない。水田稲作の先進地帯でも、縄文人が水稲耕作を行ったのではないか。絶対多数の縄文人と少数の大陸系渡来人との協同のうちに農耕社会へと移行したと考えられる。

鈴木尚は、縄文時代から現代までの南関東の人骨を比較研究後、縄文人から弥生人への体質変化を生活環境の変化と考えた。狩猟・漁労生活から農耕生活へと生活環境を一変させた変革こそ形質を変えることになったと理解した。

一方、1960年代になると金関丈夫が、山口県土井ヶ浜遺跡や佐賀県の三津永田遺跡などの福岡平野の前・中期の弥生人骨の研究から、弥生時代の人の身長は高く、さらに頭の長さや顔の広さなどが大陸の人骨に近く、縄文時代人とは大きな差があると指摘し、縄文人とは違った人間が朝鮮半島を経由してやってきて、縄文人と混血して弥生人になったと考えた。また、埴原和郎は、アジア南部に由来する縄文人の住む日本列島へ中国東北部にいたツングース系の人々が流入したことにより弥生文化が形成されたとの「二重構造モデル」を1991年に提唱した。埴原は、人口学の推計によれば弥生時代から古墳時代にかけて一般の農耕社会の人口増加率では説明できない急激な人口増加が起きていることから、この間、100万人規模の渡来人の流入があったはずだとする大量渡来説も提唱していた。

佐原真は福岡平野・佐賀平野などの北九州の一部で、縄文人が渡来人と混血した結果弥生文化を形成して東に進み、混血して名古屋と丹後半島とを結ぶ線まで進み、水稲耕作が定着したとしている。

また丸橋賢は、弥生人の形質は生来的に退化し易い形質で、「食生活の向上」による咀嚼の減少が咀嚼力の退化に繋がり、それが結果的に日本人の生命力自体の退化に繋がったとしている。

そもそも弥生人は単一民族ではなく複数の系統が存在するという見方もある。

弥生時代の終焉と古墳時代への移行
弥生中期にそれぞれの地域内に複数存在した政治的まとまりが、弥生後期にはより広域の政治的まとまりに発展し、2世紀末には畿内を中心とする西日本広域の国連合に発展していった。中国鏡の分配主体は北部九州から畿内に移り、環濠集落は消滅し首長居館が出現した。2世紀第2四半期には纒向に巨大集落の建設が始まった。

3世紀、西日本の大半と東日本の一部によって倭国が建国された。大和の政治勢力が主導したとされる(ヤマト王権)。

変化は首長層だけにとどまらず、農民層の生活でも起こった。弥生時代の住居は西日本では円形、多筒形、隅円方形などさまざまであったのが終末期には方形区画の住居が急速に普及し、古墳時代前期には東日本にも広まった。縄文時代から使われてきた石器は消滅し、弥生後期後半には北部九州から畿内で食器が木製から土器に転換した。

古墳時代の開始期にはすでに九州から東北南部の間で広域の地域間交流が成立していたとされる。都出比呂志は古墳時代の開始、前方後円墳体制の成立は、弥生時代から始まった民族形成において決定的な役割を果たしたとしている。

ただしこれらは主として西日本で起こった変化であることを注意しなければならない。青山博樹によれば古墳文化は西日本の弥生文化から継承された要素は多いが、東日本の弥生文化から古墳文化に継承された要素は皆無だと指摘し、東日本の古墳文化は、西日本の弥生文化を継承した古墳文化に転換することによって成立したとしている。
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出雲大社(いずもおおやしろ/ いずもたいしゃ)は、島根県出雲市大社町杵築東にある神社。祭神は✳1大国主大神。式内社(名神大)、出雲国一宮で旧社格は官幣大社。神社本庁の別表神社。宗教法人出雲大社教の宗祠。
二拝四拍手一拝の作法で拝礼する。明治維新に伴う近代社格制度下において唯一「大社」を名乗る神社であった。

名称 
古代より杵築大社(きずきたいしゃ、きずきのおおやしろ)と呼ばれていたが、1871年(明治4年)に出雲大社と改称した。正式名称は出雲大社サイトには「いづもおおやしろ」、出雲大社東京分祠サイトには「いずもおおやしろ」とある。

古文書に見える社名は次のとおり。
天日隅宮『日本書紀』・杵築宮『釈日本記』・出雲宮『八雲御抄』・厳神之宮『日本書紀』・出雲大神宮『日本書紀』・杵築大神宮『和漢三才図会』・所造天下大神宮『出雲国風土記』・大社杵築大神宮『国花万葉記』・杵築大社『延喜式』・出雲国大社『享保集成総論』・日本大社(真言宗正林寺蔵版木)・天日栖宮『出雲国風土記』・出雲石(石同)之曽宮『古事記』

歴史 
出雲大社はいわゆる国譲りの事情のもとで創建された。867年(貞観9年)には正二位に叙せられ熊野大社とは別に出雲国一宮と称せられるようになった。中世には12郷7浦を領したが、豊臣秀吉により減じられ5郷2浦となった。1871年(明治4年)に官幣大社に列格の後、大正時代に勅祭社となった。

創建 
出雲大社の創建については、日本神話などにその伝承が語られている。以下はその主なものである。

大国主神は国譲りに応じる条件として「我が住処を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木が空高くまで届く立派な宮を造っていただければ、そこに隠れておりましょう」と述べ、これに従って出雲の「多芸志(たぎし)の浜」に「天之御舎(あめのみあらか)」を造った。『古事記』
高皇産霊尊は国譲りに応じた大己貴命に、「汝の住処となる「天日隅宮(あめのひすみのみや)」を、千尋もある縄を使い、柱を高く太く、板を厚く広くして造り、天穂日命に祀らせよう」と述べた。『日本書紀』
所造天下大神(=大国主神)の宮を奉る為、皇神らが集って宮を築いた。『出雲国風土記』出雲郡杵築郷
神魂命が「天日栖宮(あめのひすみのみや)」を高天原の宮の尺度をもって、所造天下大神の宮として造れ」と述べた。『出雲国風土記』楯縫郡
崇神天皇60年7月、天皇が「武日照命(『日本書紀』による。『古事記』では建比良鳥命(天穂日命の子)とされる)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)を遣わしたところ、飯入根(いいいりね)が、当時の当主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上。出雲振根は飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺されている。『日本書紀』
垂仁天皇の皇子本牟智和気(ほむちわけ)は生まれながらに唖であった。占いによってそれは出雲の大神の祟りであることが分かり、曙立王と菟上王を連れて出雲に遣わして大神を拝ませると、本牟智和気はしゃべれるようになった。奏上をうけた天皇は大変喜び、菟上王を再び出雲に遣わして、「神宮」を造らせた。(『古事記』)
659年(斉明天皇5年)、出雲国造に命じて「神之宮」を修造させた。『日本書紀』
以上のように、伝承の内容や大社の呼び名は様々である。共通して言えることは、天津神(または天皇)の命によって、国津神である大国主神の宮が建てられたということであり、その創建が単なる在地の信仰によるものではなく、古代における国家的な事業として行われたものであることがうかがえる。

また、出雲大社の社伝においては、垂仁天皇の時が第1回、斉明天皇の時が第2回の造営とされている。

祭神の変化 
出雲国造新任時に朝廷で奏上する出雲国造神賀詞では「大穴持命(大国主大神)」「杵築宮(出雲大社)に静まり坐しき」と記載があるので、この儀式を行っていた平安時代前期までの祭神は大国主神であった。

やがて、神仏習合の影響下で鎌倉時代から天台宗の鰐淵寺と関係が深まり、鰐淵寺は杵築大社(出雲大社)の神宮寺も兼ねた。鰐淵寺を中心とした縁起(中世出雲神話)では、出雲の国引き・国作りの神を素戔嗚尊としていた(本来国引きは八束水臣津野命)ことから、中世のある時期から17世紀まで祭神が素戔嗚尊であった。14世紀「当社大明神は天照大御神之弟、素戔嗚尊也。八又の大蛇を割き、凶徒を射ち国域の太平を築く。」と杵築大社(出雲大社)の由来が記され、1666年(寛文6年)毛利綱広が寄進した銅鳥居に刻まれた銘文には「素戔嗚尊者雲陽大社神也」と記された。

さらには、鰐淵寺の僧侶が経所で大般若経転読を行い、社殿では読経もした。また、江戸時代初期には社僧が寺社奉行と杵築大社(出雲大社)の運営管理に関する交渉を実施していた。

ところが、杵築大社(出雲大社)内は仏堂や仏塔が立ち並んで神事が衰微した。このため1667年(寛文7年)の遷宮に伴う大造営の時、出雲国造家が神仏分離・廃仏毀釈を主張して寺社奉行に認められた。仏堂や仏塔は移築・撤去され、経蔵は破却された。これに併せて祭神は須佐之男命から、『古事記』『日本書紀』などの記述に沿って大国主大神に復した。

祭神 
大国主大神 
祭神は大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)。ただし『出雲国風土記』ではこの名ではなく大穴持命または所造天下大神大穴持命となっている。

1142年(康治元年)在庁官人解状に「天下無双之大廈、国中第一之霊神」と記された。神在月(神無月)には全国から八百万の神々が集まり神議が行われる(神在祭 旧暦10月11日 - 17日)。出雲へ行かず村や家に留まる田の神・家の神的な性格を持つ留守神(荒神等)も存在しているので、全ての神が出雲に出向くわけではない。

そのような神集への信仰から、江戸時代以降は文学にも出雲の縁結びの神様として現れるほどに、全国的な信仰を集めるようになった。

祭神の別名 
大穴牟遅神(おおあなむちのかみ)『古事記』での表記
杵築神(きづきのかみ)『日本文徳天皇実録』での表記
国造神(くにつくらししかみ)『大隅国風土記』での表記
大穴六道尊(おおあなむちのみこと)『土佐国風土記』での表記
大国魂神(おおくにたまのかみ)『日本総国風土記』での表記
所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)
大地主神(おおとこぬしのかみ)
大国魂神 『古語拾遺』での表記
大穴持命(おおあなもちのみこと)『出雲国造神賀詞』『出雲国風土記』『伊予国風土記』での表記
宇都志国玉神(うつしくにたまのかみ)
廣矛魂神(ひろほこみたまのかみ)
大国玉神(おおくにたまのかみ)『日本書紀』での表記
倭大物主櫛甕玉神(やまとおおものぬしくしかみたまのかみ)
国作之大神(くにつくらしのおおかみ)
国作坐志大穴持命(くにつくりまししおおむなちのみこと)『出雲国造神賀詞』での名。
国堅大神(くにかためまししおおかみ)
国占神(くにしめたまいしかみ)
出雲大神(いずものおおかみ)
芦原志拳呼命 『播磨国風土記』での表記
大汝命(おおなむぢのみこと)
兵主神(ひょうずのかみ)
農耕祖神(たづくりのおやのかみ)
幽冥事知食大神(かくりごとしろしめすおおかみ)
縁結神(えんむすびのかみ)、福神(ふくのかみ)、天下地主神(あめのしたとこぬしのかみ)、大国作神(おおくにつくらししかみ) 出雲や出雲大社での神名。

祭祀 
創建以来、天照大御神の子の✳2天穂日命を祖とする出雲国造家が祭祀を担ってきたとされるが、本来出雲国造家は東出雲の熊野大社の社家であった。現在の宮司は84代国造千家尊祐で、國學院大學を卒業後に太宰府天満宮を経て出雲大社禰宜→権宮司と昇格すると、2002年(平成14年)宮司に就任。翌年、神社本庁より神職身分特級を拝受している。また、宮司の正服の紋様は神社本庁の定める黒綾文輪なし裏同色平絹ではなく、黒綾にご神紋である二重亀甲剣花角の文様を練り込んだものであり他に類を見ない。現在も、皇室の者といえども本殿内までは入れないしきたりを守り続けている。約60年に一度行われている本殿の建て替えに際して、神体が仮殿に遷御された後に、本殿の内部及び大屋根が公開されることがある。

出雲国造家 
出雲国造は、天照大御神の第二御子の天穂日命(あめのほひのみこと)の神裔である。

第十二代鵜濡淳命より祭祀以外に出雲国の政治も兼ねる事になる。
第十三代襲髄命(野見宿禰)は相撲の祖と称えられる。
第十七代宮向国造の時に出雲臣姓を賜る。
第二十五代廣嶋国造は『出雲国風土記』を編纂。
第三十一代千国国造の時代から、地方政治の面から退き、祭祀のみ携わる事になる。これより国造新任時や遷都時には朝廷へ参向し、天皇の大前にて神賀詞を奏上する。
第五十三代孝時国造は後醍醐天皇に神剣一振献上。

千家家と北島家 
出雲大社の祭祀者である出雲国造家は、南北朝時代の康永年間に千家家と北島家の2家に分裂した。その祭事は幕末までは両家が二分して行っていたが、明治以降は千家家が執り行っている。

千家家(出雲大社教)
1872年(明治5年)に出雲大社宮司の千家尊福が出雲大社崇敬講社を結成。1882年(明治15年)に政府の方針で神職教導職の兼務が認められなくなったため、千家尊福は宮司職を弟の千家尊紀に譲って教化活動に専念。出雲大社教院は出雲大社そのものから分離して教派神道の一つとなった。第二次世界大戦後、神社が国の管理を離れたことから再び出雲大社と密着する形に至った。

北島家(出雲教)
1872年(明治5年)に北島脩孝が千家尊福とともに出雲大社崇敬講社を結成。1882年(明治15年)に出雲教会を設立した。第二次世界大戦後、1952年に宗教法人法に基づく独立した宗教法人出雲教となった。
以上のように大国主大神を主祭神とする宗教団体として、千家家が出雲大社教、北島家が出雲教を主宰している。

1951年(昭和26年)4月に出雲大社と教派神道の宗教法人出雲大社教は一体化され、出雲大社の職員は出雲大社教の職員を兼務し、出雲大社宮司は出雲国造として出雲大社教を総攬し、出雲大社教の教務本庁は出雲大社の教務部として活動している。

✳1大国主大神
『古事記』・『日本書紀』の異伝や『新撰姓氏録』によると、須佐之男命(すさのおのみこと)の六世の孫、また『日本書紀』の別の一書には七世の孫などとされている。父は天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)、母は刺国若比売(さしくにわかひめ)。また『日本書紀』正伝によると素戔鳴尊(すさのおのみこと)の息子。

須佐之男命の娘である須勢理毘売命(すせ りびめのみこと)との婚姻の後にスクナビコナと協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、✳3大物主神(おおものぬしかみ)を祀ることによって葦原中国(あしはらのなかつくに)の国作りを完成させる。だが、高天原(たかあまのはら)からの天照大御神(あまてらすおおみかみ)の使者に国譲りを要請され、対話と武力を交えた交渉の末に幽冥界の主、幽事の主宰者となった。国譲りの際にかつて須佐之男命から賜って建立した「富足る天の御巣の如き」大きな宮殿(出雲大社)を修復してほしいと条件を出したことに天津神(あまつかみ)が約束したことにより、このときの名を杵築大神(きづきおおかみ)ともいう。

✳2天穂日命
天照大御神と須佐之男命が誓約をしたときに生まれた五男三女神の一柱。天照大御神の右のみずらに巻いた勾玉から成った。物実(ものざね:物事のタネとなるもの)の持ち主である天照大御神の第二子とされ、天忍穂耳命の弟神にあたる。葦原中国平定のために出雲の大国主神の元に遣わされたが、大国主神を説得するうちに心服して地上に住み着き、3年間高天原に戻らなかった。後に他の使者達が大国主神の子である事代主神や建御名方神を平定し、地上の支配に成功すると、大国主神に仕えるよう命令され、子の建比良鳥命は出雲国造及び土師氏らの祖神となったとされる。また、出雲にイザナミを祭る神魂神社(島根県松江市)を建てたとも伝わる。

✳3大物主神
①事代主神の別名が大物主神であったと考えられる
②『古事記』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少名毘古那神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神様が現れて、我を倭の青垣の東の山の上に奉れとば国造りはうまく行くと言い、大国主神はこの神を祀ることで国造りを終えた。この山が三輪山とされる。『日本書紀』の異伝では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として三諸山に祀ったとある。

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大山咋神
『古事記』、『先代旧事本紀』「地祇本紀」では大山咋神と表記し、『古事記』では別名を山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)と伝える。

✳1大年神と✳2天知迦流美豆比売(あめちかるみずひめ)の間の子である。名前の「くい(くひ)」は杭のことで、大山に杭を打つ神、すなわち大きな山の所有者の神を意味し、山の地主神であり、また、農耕(治水)を司る神とされる。

✳1大年神  日本神話では、『古事記』において須佐之男命神大市比売(かむおおいちひめ・✳3大山津見神の娘)の間に生まれた大年神(おおとしのかみ)としている。両神の間の子にはほかに宇迦之御魂神がおり、これも穀物神である。また、大年神と香用比売(カグヨヒメ)の間の子に御年神(みとしのかみ、おとしのかみ)、孫に若年神(わかとしのかみ)がおり、同様の神格の神とされる。
✳2天知迦流美豆比売  不明
✳3大山津見神(おおやまつみのかみ)は、日本神話に登場する神。
神名 『古事記』では大山津見神、『日本書紀』では大山祇神、他に大山積神、大山罪神とも表記される。 別名 和多志大神、酒解神。1972年8月調査では、神社本庁傘下の神社1万318社のうち、85%が「大山祇神」、9%が「大山津見神」、5%が「大山積神」と表記する。
神話での記述 
・『古事記』では、神産みにおいて伊邪那岐命と伊邪那美命との間に生まれた。その後、草と野の神である鹿屋野比売神(野椎神)との間に以下の四対八柱の神を生んでいる。
天之狭土神・国之狭土神
天之狭霧神・国之狭霧神
天之闇戸神・国之闇戸神
大戸惑子神・大戸惑女神
天之狭霧神の娘の遠津待根神は、大国主神の8世孫の天日腹大科度美神との間に遠津山岬多良斯神を産んでいる。
・『日本書紀』では、イザナギが軻遇突智を斬った際に生まれたとしている。

オオヤマツミ自身についての記述はあまりなく、オオヤマツミの子と名乗る神が何度か登場する。 八俣遠呂智退治において、須佐之男命(すさのを)の妻となる櫛名田比売(くしなだひめ)の父母、足名椎・手名椎(あしなづち・てなづち)はオオヤマツミの子と名乗っている。その後、スサノオの系譜において、オホヤマツミ神の娘である神大市比売神(かむおほいちひめ)との間に大年神と宇迦之御魂神(うかのみたま)をもうけていると記している。また、クシナダヒメとの間の子、八島士奴美神(やしまじぬみ)は、オオヤマツミの娘の木花知流比売(このはなちるひめ)と結婚し、布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬ)を生んでいる。フハノモヂクヌスヌの子孫が大国主神である。天孫降臨の後、邇邇芸命はオオヤマツミの娘である木花之佐久夜毘売と出逢い、オオヤマツミはコノハナノサクヤビメとその姉の石長比売を差し出した。ニニギが容姿が醜いイワナガヒメだけを送り返すと、オオヤマツミはそれを怒り、「イワナガヒメを添えたのは、天孫が岩のように永遠でいられるようにと誓約を立てたからで、イワナガヒメを送り返したことで天孫の寿命は短くなるだろう」と告げた。
解説    神名の「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意なので、「オオヤマツミ」は「大いなる山の神」という意味となる。ユネスコの記憶遺産に登録された山本作兵衛が描いた筑豊の炭鉱画の中でも、オオヤマツミに関する記述がある。
オオヤマツミを祀る神社 全国の大山祇神社(山積神社/大山積神社/大山津見神社含む)の他、三島神社(三嶋神社)や山神社(山神神社)の多くでも主祭神として祀られている。
大山祇神社  全国に897社ほど。総本社は大山祇神社(愛媛県今治市大三島)である。三島神社とほぼ同一の信仰を持つ神社もあれば、明治時代に鉱山開発を目的に勧請された神社もある。高知県113社、群馬県79社、福岡県75社、福島県60社、長崎県53社などに多い。大山積神社、山積神社、山住神社と書く神社もある。総本社である大山祇神社のある愛媛県は三島神社として勧請される例が多く、大山祇神社は18社と限られる。戦前にはサイパンのロタ島、樺太の川上村にも大山祇神社が勧請されていた。
三島神社  全国に402社ほど。三嶋大明神としての大山祇神を祀る。総本社は大山祇神社(愛媛県今治市大三島)及び三嶋大社(静岡県三島市)である。大山祇神社のある愛媛県が130社で突出しており、同県の神社の約10%を占める。続いて福島県29社、高知県20社、茨城県18社、大分県18社などが続く。1873年に三嶋大社の主祭神が大山祇神から事代主神に変更されたため(のち大山祇神・事代主神二神同座に再度変更)祭神に混乱が生じている。例えば、三嶋大社のある静岡県には36社の三島神社が存在するが、元々妃神や御子神のみを祀る三島神社が多かったことに加えて、三嶋大社の主祭神変更を受けて一部の神社が同調し、大山祇神を祀る三島神社は13社となっている。また、福岡県も同様で、事代主神を祀る三島神社が多いため大山祇神を祀る三島神社は24社中12社になっている。
山神社  全国に3075社ほど。大山祇神社(愛媛県今治市大三島)の分社や、その地方の山神を大山祇神として崇めた神社が含まれる。比較的小規模な神社が多く、ごく小規模な神社や境内社といった形で祀られる例が多い。地域的には、愛知県311社、静岡県257社、長野県204社、大分県191社、徳島県168社、福島県165社、山形県150社、兵庫県145社、岐阜県132社、山梨県131社などとなっている。
十二神社  全国に438社ほど(別の神を祀る神社を含む。2007年國學院大學発行『現代・神社の信仰分布』に拠る)。十二様としての大山祇神を祀る。新潟県や群馬県の中山間部を中心に存在する。小規模社が多い。伊予の大山祇神社や伊豆の三嶋大社を中心とする「大山祇・三島信仰」とは別系統で、本来はこの地域土着の山の神の信仰である。
その他  大山阿夫利神社(神奈川県伊勢原市)や梅宮大社(京都市右京区)、湯殿山神社(山形県鶴岡市)などでも主祭神ととされる。そのほか酒造や各地の山岳信仰と結びついたり、大山祇神社や三嶋大社の分社の中で三島神社や大山祇神社、山神社以外の名称を名乗る神社が存在し(一宮神社、稲爪神社、瀬戸神社等)、大山祇神を祀る神社は相当数にのぼる。浅間神社等でも主祭神として扱われていることがある。配神や境内外社としてよく祀られる神の1柱でもあり、伊勢神宮内宮(三重県伊勢市)にも大山祇神社が勧進されている。上述の『大三島宮』によると、大山祇神を祀る神社は、小規模社や境内社・配神等を含めると全国に1万318社存在する。この数は日本神話の神の中で5番目に多いという。熊本県荒尾市の三井三池炭鉱旧万田坑の構内にある山ノ神祭祀施設 - 文化遺産オンライン(文化庁)は、1916年(大正5年)に大山祇神を分祀した祠だが、文化財保護法の重要文化財に指定されており、「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」の構成資産として世界遺産になっている。また、軍艦島の端島神社も金刀比羅宮とともにオオヤマツミを合祀していた。

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山岳信仰
山岳信仰(さんがくしんこう)とは、山を神聖視し崇拝の対象とする信仰。

山岳信仰は、自然崇拝の一種で、狩猟民族などの山岳と関係の深い民族が山岳地とそれに付帯する自然環境に対して抱く畏敬の念、雄大さや厳しい自然環境に圧倒され恐れ敬う感情などから発展した宗教形態であると思われる。山岳信仰では、山岳地に霊的な力があると信じられ、自らの生活を律するために山の持つ圧倒感を利用する形態が見出される。

これらの信仰は主に、内陸地山間部の文化に強く見られ、その発生には人を寄せ付けない程の険しい地形を持つ山が不可欠とされる。

そのような信仰形態を持つ地域では、山から流れる川や、山裾に広がる森林地帯に衣食住の全てに渡って依存した生活を送っており、常に目に入る山からの恩恵に浴している。その一方で、これらの信仰を持つ人々は、険しい地形や自然環境により僅かな不注意でも命を奪われかねない環境にあることから、危険な状況に陥る行為を「山の機嫌を損ねる」行為として信仰上の禁忌とし、自らの安全を図るための知識として語り継いでいると考えられる。

山岳信仰のある文化圏 
朝鮮、延辺朝鮮族・チベット民族・満州民族・大和民族・ネパール
・ラダック・ペルー

日本の山岳信仰 
日本の古神道においても、水源・狩猟の場・鉱山・森林などから得られる恵み、雄大な容姿や火山などに対する畏怖・畏敬の念から、山や森を抱く山は、神奈備(かんなび)という神が鎮座する山とされ、神や御霊が宿る、あるいは降臨する(神降ろし)場所と信じられ、時として磐座(いわくら)・磐境(いわさか)という常世(とこよ・神の国や神域)と現世(うつしよ)の端境として、祭祀が行われてきた。また、死者の魂(祖霊)が山に帰る「山上他界」という考えもある(この他は海上他界、地中他界など)。これらの伝統は神社神道にも残り、石鎚山や諏訪大社、三輪山のように、山そのものを信仰している事例もみられる。農村部では水源であることと関連して、春になると山の神が里に降りて田の神となり、秋の収穫を終えると山に帰るという信仰もある。

また仏教でも、世界の中心には須弥山(しゅみせん)という高い山がそびえていると考えられ、空海が高野山を、最澄が比叡山を開くなど、山への畏敬の念は、より一層深まっていった。平地にあっても仏教寺院が「○○山△△寺」と、山号を付けるのはそのような理由からである。

チベット仏教でも聖なる山は信仰の対象であるが、信仰は山自体に捧げられ、その山に登るのは禁忌とされる場合が多い。一方で日本では、山頂に達することが重要視されるのは注目すべきである。日本人の場合、山自体を信仰する気持ちももちろんあるのだが、そこから早朝に拝まれるご来光を非常にありがたがる傾向が強く、山頂のさらにその先(彼方)にあるもの(あの世)を信仰していることが原因であろう。日本ではアニミズムとしての太陽信仰と山岳信仰が結びついているのである。
その後、密教、道教の流れをくんだ修験者や山伏たちが、俗世との関わりを絶ち、悟りを開くために山深くに入り修行を行った。これは、後に修験道や呪術的宗教などを生み出している。

主な形態 
日本の山岳信仰の主な形態をまとめると、以下のようになる。

火山への信仰 
富士山や阿蘇山や鳥海山など、火山の噴火への畏れから、火山に神がいるとみなして信仰するもの。

水源である山への信仰 
白山など、周辺地域を潤す水源となりうる山を信仰するもの。

死者の霊が集うとされる山への信仰 
日本には、恐山や月山、立山、熊野三山など、死者の霊が死後にそこへ行くとされている山が各地に存在しており、それらの山々が信仰の対象となることがある。

神霊がいるとされる山への信仰 
宇佐神宮の奥宮である御許山や、大神神社の御神体とされる三輪山や、役小角が開いたとされる大峰山など、山としては規模が小さいが、あるとき、その山に神霊がいるとされて、以後信仰が始まったもの。

修験道の誕生 
日本において、山岳信仰が、日本古来の古神道や、伝来してきた仏教(特に天台宗や真言宗などの密教)への信仰と結びついて、「修験道」とされる独自の宗教が生み出された点は、特筆に値する。修験道は、修行により吸収した山の霊力を人々に授けるというもので、✳1役小角が創始したとされる。現在も、「本山派」(天台宗)あるいは「当山派」(真言宗)の修行僧(山伏、あるいは修験者などと呼ばれる)が、伝統的な修験道の修行を行っている。

歴史 
山岳信仰は、もともとが自然崇拝のアニミズム的信仰から発展してきただけに、江戸末期まで神仏習合の形態を取ってきたが、神仏習合が明治以後の神仏分離令により禁止されて以後、もともと真言密教系の修験が強かった出羽三山も含め、寺と神社が分けられ、信仰の本体の多くは神社の形態を取って存続した。

山が神界として信仰の対象となっていた一方で、死者の霊の集まる他界として、イタコの口寄せをはじめとする先祖霊供養にも発展をみせた。なお、民衆の間でも信仰の顕れとして登山を行う習慣があり、現在でも、霊場といわれる山岳をはじめとして、山には多くの人々が登っている。

日本の主な山岳信仰 
出羽三山信仰・麓山信仰・日光信仰・大山信仰 (神奈川県)・立山信仰・金剛堂山信仰・白山信仰・御嶽信仰・富士信仰・七面山信仰(山梨県)・三輪山信仰・吉野山信仰・熊野信仰・大山信仰 (鳥取県)・石鎚信仰・英彦山信仰・霧島山信仰・鷲峯山信仰(京都府相楽郡和束町)

中国の山岳信仰 
中国において泰山、衡山、嵩山、華山、恒山は五岳と呼ばれ、神格化されている。本来は山自体を信仰する山岳信仰であったと考えられるが、盤古神話や五行思想と結びついて、道教の諸神のひとつに変容している。ただ、泰山についてはいまだに別格であり、道教の聖地であるだけでなく、岱廟、石敢當など、他と異なる山岳信仰の形態を残している。

現代における「登山」と山岳信仰 
古来は、人跡未踏の地であった山岳に、交通の発達や道具や装備の充実から、登山が安易になり、スポーツや競技や観光として様々な人が入り込んで、信仰における禁忌を破ったり、ゴミの放置などの自然環境を汚染する行為や、過信からの登山事故などが、エベレストやウルルのように、山岳信仰を尊ぶ地域住民の感情を害する事もある。

これらにあるような信仰の禁忌を犯すと、地域住民は罰が下ると信じ、山をなだめようと大規模な祭事を行う場合もあり、一層、地域住民に精神的負担だけでなく、経済的負担を強いる結果になり、そのことが逆に山岳信仰という、自然と共存するために培われた精神性が、見直されるきっかけになっている。

✳1役小角
(えん の おづぬ / おづの / おつの、634年 –701年)は、飛鳥時代の呪術者。役行者(えんのぎょうじゃ)、役優婆塞(えんのうばそく)といった呼び名でも広く知られている。姓は君。 日本独自の山岳信仰である修験道の開祖とされている。 実在の人物だが、伝えられる人物像は後世の伝説によるところが大きい。前鬼と後鬼を弟子にしたといわれる。天河大弁財天社や大峯山龍泉寺など多くの修験道の霊場に、役行者を開祖としていたり、修行の地としたという伝承がある。
出自  役氏(えんうじ)、役君(えん の きみ)は三輪系氏族に属する地祇系氏族で、葛城流賀茂氏から出た氏族であることから、加茂役君、賀茂役君(かも の えん の きみ)とも呼ばれる。役民を管掌した一族であったために、「役」の字をもって氏としたという。また、この氏族は大和国・河内国に多く分布していたとされる。
生涯  舒明天皇6年(634年)に大和国葛城上郡茅原郷(茅原村)(のち掖上村茅原、現在の奈良県御所市茅原)に生まれる。父は、出雲から入り婿した大角、母は白専女。 生誕の地とされる場所には、吉祥草寺が建立されている。白雉元年(650年)に京の志明院を創建したと云われている。17歳の時に元興寺で孔雀明王の呪法を学んだと伝わる。その後、葛城山(葛木山。現在の金剛山・大和葛城山)で山岳修行を行い、熊野や大峰(大峯)の山々で修行を重ね、吉野の金峯山で金剛蔵王大権現を感得し、修験道の基礎を築く。20代の頃、藤原鎌足の病気を治癒させたという伝説があるなど、呪術に優れ、神仏調和を唱えた。また、高弟にのちに国家の医療・呪禁を司る典薬寮の長官である典薬頭に任ぜられた韓国広足(韓國 廣足)がいる。

文武天皇3年(699年)5月24日に、人々を言葉で惑わしていると讒言され、役小角は伊豆島に流罪となる。人々は、小角が鬼神を使役して水を汲み薪を採らせていると噂した。命令に従わないときには呪で鬼神を縛ったという。

2年後の大宝元年(701年)1月に大赦があり、茅原に帰るが、同年6月7日に箕面山瀧安寺の奥の院にあたる天上ヶ岳にて入寂したと伝わる。享年68。山頂には廟が建てられている。

中世、特に室町時代に入ると、金峰山、熊野山などの諸山では、役行者の伝承を含んだ縁起や教義書が成立した。金峰山、熊野山の縁起を合わせて作られた『両峰問答秘鈔』、『修験指南鈔』などがあり、『続日本紀』の記述とは桁違いに詳細な『役行者本記』という小角の伝記まで現れた。こうした書物の刊行と併せて種々の絵巻や役行者を象った彫像や画像も制作されるようになり、今日に伝わっている。。

寛政11年(1799年)には、聖護院宮盈仁親王が光格天皇へ役行者御遠忌(没後)1100年を迎えることを上表した。同年、正月25日に光格天皇は、烏丸大納言を勅使として聖護院に遣わして神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡を贈った。勅書は全文、光格天皇の真筆による。聖護院に寺宝として残されている。

伝説 役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っていたという。左右に前鬼と後鬼を従えた図像が有名である。ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとした。しかし、葛木山にいる神一言主は、自らの醜悪な姿を気にして夜間しか働かなかった。そこで役行者は一言主を神であるにも関わらず、折檻して責め立てた。すると、それに耐えかねた一言主は、天皇に役行者が謀叛を企んでいると讒訴したため、役行者は彼の母親を人質にした朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になった。こうして、架橋は沙汰やみになったという。

役行者は、流刑先の伊豆大島から、毎晩海上を歩いて富士山へと登っていったとも言われている。富士山麓の御殿場市にある青龍寺は役行者の建立といわれている。また、ある時、日本から中国へ留学した道昭が、行く途中の新羅の山中で五百の虎を相手に法華経の講義を行っていると、聴衆の中に役行者がいて、道昭に質問したと言う。

続日本紀  小角の生涯は伝承によるところが大きいが、史料としては『続日本紀』巻第一文武天皇三年五月丁丑条の記述がある。日本の公式な歴史書にある唯一のものであるが、執筆の時期は役小角が亡くなってから約100年も後の頃と考えられる。

文武天皇3年5月24日、役君小角を伊豆大島に配流した。そもそも、小角は葛城山に住み、呪術で称賛されていた。のちに外従五位下の韓国連広足が師と仰いでいたほどであった。ところがその後、ある人が彼の能力を妬み、妖惑のかどで讒言した。それゆえ、彼を遠方に配流したのである。世間は相伝えて、「小角は鬼神を使役することができ、水を汲ませたり、薪を採らせたりした。もし鬼神が彼の命令に従わなければ、彼らを呪縛した」という。

文武天皇3年5月24日は、西暦699年6月26日(7月1日説もあり)。

解釈として、句末を示す助字の焉を抜かして文を繋げ、「外従五位下の韓国広足は小角を師としていたが、その後に師の能力を妬んで讒言した」とする説もある。広足が正六位上から外従五位下に昇進したのは、役小角が没したとされる時期から約30年後の天平3年(731年)である。さらには、広足の氏が韓国であることからか、朝鮮半島からの渡来人系呪術師が、日本古来の呪術師を妬んで起きた事件と解釈する説もあるが、韓国氏は物部氏の分流であり、渡来人ではない。

この記録の内容の前半の部分は事実の記録であるが、後段の「世相伝テ云ク…」の話は、すでになかば伝説のような内容になっている。役小角に関する信頼される記録は正史に書かれたわずかこれだけのものであるが、後に書かれる役行者の伝説や説話はほとんどすべてこれを基本にしている。

日本霊異記  役小角にまつわる話は、やや下って成立した『日本現報善悪霊異記』に採録された。後世に広まった役小角像の原型である。荒唐無稽な話が多い仏教説話集であるから、史実として受け止められるものではないが、著者の完全な創作ではなく、当時流布していた話を元にしていると考えられる。『日本霊異記』が書かれたのは弘仁年間(810年 – 824年)であるが、説話自体は神護景雲2年(768年)以降につくられたものであろうとされている。『日本霊異記』で役小角は、仏法を厚くうやまった優婆塞(僧ではない在家の信者)として現れる。上巻の28にある「孔雀王の呪法を修持し不思議な威力を得て現に仙人となりて天に飛ぶ縁」の話である。役の優婆塞は大和国葛木上郡茅原村の人で、賀茂役公の民の出である。若くして雲に乗って仙人と遊び、孔雀王呪経の呪法を修め、鬼神を自在に操った。鬼神に命じて大和国の金峯山と葛木山の間に橋をかけようとしたところ、葛木山の神である一言主が人に乗り移って文武天皇に役の優婆塞の謀反を讒言した。優婆塞は天皇の使いには捕らえられなかったが、母を人質にとられるとおとなしく捕らえられた。伊豆大島に流されたが、昼だけ伊豆におり、夜には富士山に行って修行した。大宝元年(701年)正月に赦されて帰り、仙人になって天に飛び去った。道昭法師が新羅の国で五百の虎の請いを受けて法華経の講義をした時に、虎集の中に一人の人がいて日本語で質問してきた。法師は「誰ですか」と問うと「役の優婆塞」であると答えた。法師は高座から降りて探したがすでに居なかった。一言主は、役の優婆塞の呪法で縛られて今(『日本霊異記』執筆の時点)になっても解けないでいる。

『続日本紀』との大きな違いは役小角を告訴したのが一言主の神となっていることで、この一言主神が後々のいろいろな説話や物語などに登場してくる。また、道昭が新羅の国で役小角に会う話が初めて出てくる。この『日本霊異記』にある説話は『続日本紀』の記録とともに、その後の役行者の伝記や説話の根幹になっている。

信仰  役行者信仰の一つとして、役行者ゆかりの大阪府・奈良県・滋賀県・京都府・和歌山県・三重県に所在する36寺社を巡礼する役行者霊蹟札所がある。また、神変大菩薩は役行者の尊称として使われ、寺院に祀られている役行者の像の名称として使われていたり、南無神変大菩薩と記した奉納のぼりなどが見られることがある。

肖像  修験道系の寺院で役行者の姿(肖像)を描いた御札を頒布していることがあるが、その姿は老人で、岩座に座り、脛(すね)を露出させて、頭に頭巾を被り、一本歯の高下駄を履いて、右手に巻物、左手に錫杖(しゃくじょう)を持ち、前鬼・後鬼と一緒に描かれている。手に持つ道具が密教法具であることもあり、頒布している寺院により差異がある。

しかし、そもそ日本生まれの役行者に対し、そもそもがサンスクリットの語のマントラの訳語である真言がつけられるのは考えにくく、聖護院(本山修験)などでは光格天皇より与えられた諡号である神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)を使い、「南無神変大菩薩(なむ じんべん だいぼつ)」と唱えるのが正しいという説を用いている。

修験道の系譜 
修験−役行者〜1.義学(覚)−2.義元(賢)−3.義真−4.寿元(彦山開山)−5.芳元(五代山伏)−6.助音−7.黒珍(羽黒山)−8.日代−9.日円(天台 熊野社)−10.長円(天台 法華行者)十代山伏》→11.円珍(智証大師 天台寺門派祖)

文芸作品 
※ 作品により、「役小角」「役行者」「役の行者」といった表記の違いがある。

役行者大峰桜(1751年、近松半二による文楽浄瑠璃)
南総里見八犬伝(1814年、曲亭馬琴による読本) – 伏姫に仁義八行の数珠を授ける。
役の行者(1916年、坪内逍遥の戯曲)
真幻魔大戦(1979年、平井和正による小説)
魔界水滸伝(1981年、栗本薫による小説) – 主人公安西雄介を禍津神として目覚めさせるため指導する
宇宙皇子(1984年、藤川桂介による小説)
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日本人
日本の国籍(日本国籍)を持つ人。祖先が日本列島に居住していた民族集団、(大和やアイヌ族など)。日本民族を自らのアイデンティティとする人。もしくは、他者から、日本民族に帰属すると考えられている人。

主に日本人という語は、日本国の法律で「日本国民」と呼んでいる日本国に国籍を有する人々の呼称として用いられる場合と、日本列島に起源をもつ民族集団を指す場合に用いられている。

定義と分類 
日本人は、次のような幾つかの考え方により定義、分類が可能である。
国籍による分類 - 日本国民。
地理的分類 - 日本国の領土に元来から居住してきた民族。大和民族(和人)、琉球民族、アイヌなど。
民族的分類 - 日本語族に属す言語を母語とする民族。

先住民 
日本列島には蝦夷や隼人などの集団が居住していたが、ヤマト王権成立後は同化が進み、これらの集団が大和民族と呼ばれるようになった。琉球民族も琉球処分により日本民族に加えられたが、現在の日本政府ではアイヌのみを日本の「先住民族」として認識している。

概史 
モンゴロイドの1つ。旧石器時代または縄文時代以来、現在の北海道から沖縄諸島までの地域に住んだ集団を祖先に持つ。祖先はユーラシア大陸東部より複数回にわたって渡来。樺太を経由して北海道に至る北方ルート、朝鮮半島を経由する北西ルート、南西諸島などを経由する南方ルートなど複数の渡来経路が考えられる。

居住地 
日本国籍を有する人々として定義される日本人のうち、2018年11月1日時点で、日本に住むのは124,181,867人。2017年時点で、海外に住むのは1,351,970人となっており、日本人のうち約1%が海外に居住している。

海外ルーツの日本人 
古来より大陸から渡ってきた渡来人や帰化人も存在したが、少数にとどまったことから大和民族に同化していった。

朝鮮系日本人(2017年末までに韓国・朝鮮籍から日本に帰化した累積者数は371,161人)、中国系日本人(2017年末までに中国籍から日本に帰化した累積者数は141,668人)、台湾系日本人、ブラジル系日本人、アメリカ系日本人、ロシア系日本人、モンゴル系日本人等。

言語 
日本人のほとんどが日本語を話す。他、琉球民族では琉球語(琉球方言)が話されるが、伝統的な方言はほとんど衰退している。そもそも琉球語を個別言語とするか日本語の方言とするかで議論があり、琉球語の下位方言をさらに独立した言語とする場合もある。

言語社会学的に見ると、日本人は明治以来外国語を美化する感情から日本語に対する自己否定的な姿勢を持っており、甚だしくは英語やフランス語のような外国語を日本の国語として採用してはどうかという意見を持つ有識者(森有礼、志賀直哉、尾崎行雄)まで現れていた。

宗教 
外国人を含んだ宗教の信者数は、2013年時点の日本の宗教法人に対する文化庁の宗教統計調査では、神道系が約9,126万人、仏教系が約8,690万人、キリスト教系が約294万人、その他約906万人、合計1億9,017万人と日本の人口の約1.5倍になっている。一方、読売新聞が2008年に行った全国有権者へのアンケート調査では、「何らかの宗教を信じている」と答えた人の割合は26.1%、「何らかの宗教を信じていない」と答えた人の割合は71.9%という結果だった。河合隼雄は『対話する生と死』の中で、「日本人は宗教を毛嫌いしたり無宗教であることを公言する人が他国に比較し多いことを指摘し、キリスト教やイスラム教信者の信仰心は日本人の想像を超えるものである」と述べている。また、「日本では戦時中に宗教が国家権力と結びつき悪用されたことやもともと日本人は日常生活の中に、宗教性を入れ込んで生きる姿勢を保持していたため、特定の宗教を他の一神教の信者らが『信じる』ような態度で信仰しなかった」と指摘している。

自然人類学的特徴 
皮膚は白色、 頭髪は黒色か茶色で直毛もくせ毛もあり、 瞼は一重のものも二重のものもあり、身長は中位、また幼児期に蒙古斑が現れる。平均身長は1940年代末ごろから伸びてきており、男性は171cmになっている。成人女性は通例として、成人男性より平均身長がほぼ8%低い。

成立 
主要に日本人を形成したのは、「ウルム氷期の狩猟民」と「弥生時代の農耕民」とが渡来したことだった。「ウルム氷期にアジア大陸から日本列島に移った後期旧石器時代人は、縄文人の根幹をなした」という。「ウルム氷期直後の厳しい自然環境」が改善され生活が安定化していくと、「日本列島全域の縄文人の骨格は頑丈」となり、独自の身体形質を得ていった。そして縄文時代終末から弥生時代にかけて、「再びアジア大陸から新石器時代人が西日本の一角に渡来」した。その地域では急激に新石器時代的身体形質が生じたが、彼らが直接及ばなかった地域は縄文人的形質をとどめ、その後「徐々に均一化」されていった。「地理的に隔離された北海道や南西諸島の人びとは、文化の変革による身体形質の変化はあっても、現在なお縄文人的な形態をとどめている」とされる。

近年、埴原和郎や尾本恵市などが、W・W・ハウエルズの分類による「モンゴロイドの2型」を用いている。すなわち「古モンゴロイド」と、寒冷に適応した「新モンゴロイド」である。「初め日本列島に渡来した後期旧石器時代人ないし縄文人は古モンゴロイド」であり、「縄文時代終末から弥生時代に渡来した弥生人を新モンゴロイド」と呼ぶ。弥生人は主に米作を伝え、それに従事していたとされる。米作の普及が遅れ「新モンゴロイドの影響が及びにくかったアイヌや東北、山陰、九州および南西諸島の住民は、古モンゴロイド的特徴を今もなお残している」と解されている。

かつては約3万年前に大陸から渡来して先土器時代・縄文時代の文化を築いた先住民を、大陸から渡来した今の日本人の祖先が駆逐したとする説があったが、現在は分子人類学の進展により置換説は否定され、混血説が主流となっている。

石器時代の日本人
石器時代の日本列島には下記の人々が活動した記録がある。
種子島の横峯遺跡の約3万年以上前の土層(地層)からは、日本国内最古の調理場跡が発見されている。なお、南九州の地層は火山灰による時代の確認が容易である。
愛媛県の太平洋側である上黒岩岩陰遺跡では、放射性炭素年代測定により14,500年前と測定された人骨が発掘されており、この地域が日本人のルーツといわれている。

縄文人と弥生人 
先史時代の日本列島に住んでいた人間を縄文土器を使用していたことに因み縄文人と呼んでいる。水稲農耕が始まった弥生時代の日本列島に居住する人間を弥生人と呼んでいる。佐原真は弥生人について、渡来系の人々とその子孫、渡来系と縄文人が混血した人々とその子孫などの弥生人(渡来系)と、縄文人が弥生文化を受け入れて変化した弥生人(縄文系)に区別できるとした。ただし、弥生時代において縄文文化のみを保持するものや渡来した後縄文文化を受け入れたものについては言及すらしていない。渡来系の人々の移動ルートについては諸説ある。

倭人 
倭、倭人に関する記載は、もっとも古い文献では紀元前2世紀に中国の『山海経』と『論衡』にて登場するが、これらの記載は中国南東部の倭人のことを指しているとする説と日本列島の倭人のことを指しているとする説があり、日本列島住民との関わりは不明である。日本列島周辺の倭人について書かれた確実な初出は75年から88年にかけて書かれた『漢書』地理志で、百余りの倭人の国々が楽浪の海にあるとしている。この頃には近隣の漢民族が倭人を別民族として区別していたことがわかる。また、朝鮮半島南部においても近年倭人の墓とされる前方後円墳が発見されており、1600年以上前には朝鮮半島南部も倭人の居住地だったとみられている。

「日本民族」の形成 
古墳時代、朝廷権力の拡大とともに「日本」という枠組みの原型が作られ、その後、文化的・政治的意味での日本民族が徐々に形作られていくとされる。

「日本人」「日本民族」という認識(ナショナルアイデンティティ)が形成され浸透していく経緯については諸説あり、ヤマト王権の支配が広い地域に及ぶ以前の弥生時代から倭人として一定の民族的統合があったとする説、また律令制を導入し国家祭祀体制を確立させた7世紀後期の天武・持統期(飛鳥時代後期)にその起源を置く説、13世紀の元寇(鎌倉時代中期)が国内各層に「日本」、「日本人」意識を浸透させていく契機となったとする見解などがある。

大和盆地の大王を中心とした連合政権国家または中央集権国家であるヤマト王権(大和朝廷)が成立すると、本州、四国、九州の住民の大半は大和民族として統合された。東北の蝦夷や北九州の熊襲、南九州の隼人と呼ばれた諸部族は大和朝廷に服属せず、抵抗した。その後、それらの諸部族は景行天皇・日本武尊の遠征や隼人の反乱の失敗、坂上田村麻呂の蝦夷征伐などにより、大和朝廷の下に統合されていった。白村江の戦い以後、倭国は長年支配した朝鮮半島から手を引いたが、代わりにそれまで手付かずであった岩手県以北の東北日本へ進出し、現在の青森県にあたる本州最北部までを統一する。朝廷の支配が揺らいだ平安時代の東日本では、平将門の将門政権や奥州藤原氏の平泉政権など半独立政権が築かれたものの、東日本と西日本の民族的統合は保たれ、後に関東地方を基盤とした武家政権が全国を支配することとなった。

国民国家の認識 
近代に入り、日本がネーションステート(国民 / 民族国家)として朝鮮半島や台湾島を領有していた時代には、日本人という語は、公式には、朝鮮人、台湾人など日本国籍を付与された併合地の先住民族を含む国籍的概念であった。これらの地域には日本本土と同じ法令(現行の刑法など)が施行された事実上の併合であった。朝鮮人からは数百名の貴族が叙爵(侯爵・伯爵・子爵・男爵)され東京の帝国議会貴族院に議席を有した。また、朝鮮高等法院などの裁判所の裁判例は、東京や大阪の下級審を拘束した(現在の東京地方裁判所も、朝鮮高等法院の裁判例に違反した場合、控訴理由になる)。以上から、日本本土は内地それ以外の地域は外地と呼ばれていたのは地理的概念である。

事実上の内地であった南樺太では、ロシア人、ポーランド人、ウクライナ人、ドイツ人、朝鮮人、ウィルタやニヴフの中には日本国籍を持っていた者もいた。そのため、第二次世界大戦後、ソ連によって日本人として北海道に強制送還、ないしは自ら進んで移住した朝鮮人、ウィルタ、ニヴフがいた。また、反ソ分子として抑留された者もいた。ポーランド系日本国民の多くはポーランド国籍を取得しポーランドに移住した。

系統 
以下、人類学的観点から、日本人の系統または起源に関する諸説について記述する。

形質人類学的観点から日本人は、過去の縄文人・弥生人や現在の日本国内に古くから住む住民がモンゴロイドに属する。むろん「モンゴロイド」という分類概念では漢民族などの東ユーラシア人全体が包括され、イヌイットやアメリカ先住民も含まれる。

だが遺伝子の研究が進むにつれ、便宜的に使用される分類名称としての各人種も、推定される起源地(原初の居住地)の地理的名称を基準とすることが多い。モンゴロイド集団の分布は日本人形成過程の分析にとって今日もなお重要な手がかりである。

なお、日本人の元となった集団を仮定する際、その集団(もしくはその集団と遺伝的に近い集団)が「どこで発生したか」、「どこを通って日本にやってきたか」、そして「現在の集団においてどの集団と近縁か」は分けて考える必要がある。例えば、仮に「日本人の祖先集団は樺太を通じてやってきた」という記述がなされた場合、その記述だけで樺太で日本人の祖先、すなわち日本人と遺伝的に近い集団が発生したかは判断できず、また現在の樺太住民が日本人と近縁かも判断はできない。以下の説明を読む際は、その都度時系列的な違いも考慮する必要がある。

分子人類学による説明 
分子人類学の進展により、日本人に関してもDNAからルーツをたどる研究が行われるようになった。最初に発達したのが、母系をたどるミトコンドリアDNAハプログループの研究だった。ミトコンドリアは染色体のある核の外部にある構造で、情報量は染色体と比べ非常に少ないが、それゆえに効率的に分析ができたからである。また、変化の速度が速いため、遺伝的な多様性が高いという特徴があった。次に発展したのが、父系をたどる核内のY染色体ハプログループで、情報量がミトコンドリアDNAよりも多く、長期の追跡に適していた。さらに、2004年のヒトゲノムの解読を契機に、核内の常染色体全体を分析するゲノムワイドな研究が盛んになった。ミトコンドリアDNAとY染色体はそれどれ母系・父系にさかのぼっていきつく一人の先祖の遺伝子を分析するものだが、常染色体はその人間に関わる全ての先祖の遺伝子情報を調べられるという利点がある。また、ある人物間のDNAを比較する場合、遺伝子情報がひとつしかないミトコンドリアDNAとY染色体は、遺伝子情報をハプログループで分類することによって比較するが、どこまで分類を細分化し、またどこまで近縁と理解するかによって判断が変化してしまう欠点があった。しかしながら、2017年時点で核DNAの解析はまだ途上の段階であることに注意しなければならない。また母系・父系の情報がわかるという点でミトコンドリアDNAとY染色体は未だ独自の価値を保っている。

ミトコンドリアDNAによる近隣集団との比較 
以下にミトコンドリアDNAによる人類集団を類似性を系統樹様にして表したものを記す。人類集団は常に混合しているため、多数の遺伝子を用いた分析においては一元的な系統関係は存在しないことに留意する必要がある。 この図はあくまで他集団との類似性を示すものである。

日本人集団に最も近いのは中国人集団であり、その次にカンボジア人集団であるという結果となっている。下図右では、日本人集団は中国人集団、マレーシア人集団、ポリネシア人集団などと近縁で、「アジアのモンゴロイド」としてまとめられている。「アジアのモンゴロイド」と近縁なのが「アメリンド」、次いで、「オーストラロイド」、「コーカソイド」の順で、「ネグロイド」とは最も離れている。

ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(母系)による系統
1980年代からのミトコンドリアDNAハプログループ(母系)の研究の進展により、ヒトの母系の先祖を推定できるようになった。これにより、アフリカ単一起源説がほぼ証明され、民族集団の系統樹も作成されるようになった。ミトコンドリアDNAやY染色体のようなゲノムの組換えをしない部分を用いた系統樹の作成は、集団の移動とルーツを辿るのに用いられる。たとえば日本人のミトコンドリアDNAのハプロタイプの割合と、周辺の集団つまり各ハプログループを比較することで、祖先がどのようなルートを辿って日本列島にたどり着いたかを推測できる。分析に用いられるのは、ミトコンドリアDNAの塩基配列のうち、遺伝子の発現に影響しない中立的な部分である。形態の生成等に関与せず、選択圧を受けないため、分析に用いることができる。

日本人に特徴的なミトコンドリアDNAハプログループとして、ハプログループM7aがある。琉球諸島・アイヌに比率が高く本州で比率が少なくなるという分布になっている。発祥地域については議論があるが、台湾付近で発生したM7aが日本を最大集積地(最も頻度の高い地域)とし、台湾・日本から朝鮮半島中国北東部へ北上し、北上の上限がシベリアとなったとの見方がある。

また、篠田謙一は2007年の著書で、ハプログループM7の発生を四万年前、さらのそのサブグループの発生を二万五千年前と推定し、M7の起源地を当時海水面の低下によって陸地となっていた黄海から東シナ海周辺とした 。

これに対して崎谷満は2009年の著書で、M7aは極東・アムール川流域にも見られるほか、シベリア南部(ブリヤート)、東南アジアにも見られるとし、発生したのはシベリア南部 - 極東あたりと予想する一方、台湾先住民にも台湾漢民族にも存在せず、台湾から北上して日本列島に入ったものではないと記している。なお崎谷は上記の著書において、ミトコンドリアDNA・Y染色体といった分子人類学的指標、旧石器時代の石刃技法という考古学的指標、成人T細胞白血病ウイルスやヘリコバクター・ピロリといった微生物学的指標のいずれにおいても、東アジアのヒト集団は北ルートから南下したことを示し、南ルートからの北上は非常に限定的で日本列島には及ばなかったと述べている。

その他、日本人によくみられるタイプとして、ハプログループD 、ハプログループA 、ハプログループG 、ハプログループN9 、ハプログループB 、ハプログループF が挙げられる。

Y染色体ハプログループ(父系)による系統 
母系のみをたどるミトコンドリア解析に対し、父系をたどるY染色体は長期間の追跡に適しており、1990年代後半からY染色体ハプログループの研究が急速に進展した。

Y染色体ハプログループによる近隣集団との比較 
ヒトのY染色体のDNA型はAからTの20系統がある。複数の研究論文から引用したY染色体のDNA型の比率を示す。全ての型を網羅していないため、合計は100%にならない。空欄は資料なしで、必ずしも0%の意味ではない。

日本人および周辺(日本からおよそ5000km以内)の諸民族のY染色体ハプログループの割合
日本人のハプログループは、出アフリカ後、イランからアルタイ山脈を経由した「北ルート」で到達したとする説、インドから東南アジアを経由したルートで到達したとする説がある。D1a2a系統、O1b2系統、O2系統の3系統で日本人全体の約8割以上を占めるほど高頻度に見られる。他にC1a1系統、C2系統、N系統、O1a系統、O1b1系統なども低頻度に見られる。日本人全体で見るとD1a2a系統が約35%、O1b2系統が約30%、O2系統が約20%の順となっている。

Y染色体グループごとの近隣集団との関係 
ハプログループD1a1は、チベット等に多いが、日本人にも見られるタイプである。
ハプログループD1a2aは、日本列島に固有に見られるタイプで、アイヌが高頻度で約85%、次いで琉球民族で約40%、本土日本人にも35%ほど見られる。縄文人の血を色濃く残すとされるアイヌや一部の沖縄県民(特に糸満や宮古島)で高頻度に見られ、反対に漢民族や朝鮮民族などの周辺諸民族にはほとんど見られないことから、ハプログループD1a2aは縄文人に特徴的なY染色体だとされる。(ミクロネシアやティモール島でもわずかに発見されている。)
アリゾナ大学のマイケル・F・ハマー (Michael F. Hammer) のY染色体分析でもD系統が扱われ、チベット人にも、約50%の頻度でこのハプログループDを持っていることを根拠に、縄文人の祖先は約5万年前に中央アジアにいた集団が東進を続けた結果、約3万年前に北方ルートで北海道に到着したとする仮説を提唱した。しかし、実際にどのような経路を通ったかは様々な学説があり結論には達していない。
D系統は、現在世界で極めて稀な系統になっており、日本人 (D1a2a) が最大集積地点としてその希少な血を高頻度で受け継いでいる。遠く西に離れたチベット人 (D1a1) やアンダマン諸島(D1a2b)で高頻度である他は、アルタイ(D1*)、タイ (D1a1)、ヤオ族 (D1a1)、フィリピン (D1b)、グアム島(D1*) 等の南方地域にわずかに存続するだけである。しかしながら同じD系統とは言え、D1a2a系統と東アジア(チベット等)のD1a1系統は分岐してから4 - 5万年もの年月を経ていると考えられる(O系統が誕生したのが3 - 4万年前であるため、これよりも前に分岐しているD1a2aとD1a1等は別系統であるが双方とも日本列島で見られる)。なおネアンデルタール人はY-C次いでY-D系統に属しており現存する人種では日本人が一番ネアンデルタール人に近いことになる。つまり、多くの人種がユーラシア大陸の果てにある日本に最終的に到達し、またそれらが完全に淘汰されず(殺害されずに)に混血して残っているという特徴がある。
ハプログループO東アジアから東南アジアにかけて最多を占めるグループである。O系統は約40,000年前(36,800年前、41,900年前、44,700年前)に東アジアにてハプログループNOから誕生し、35,000年前頃から30,000年前頃にかけて多くの現代東アジア人や東南アジア人の父系に繋がる五つの大系統を生み出した。約35,000年前の日本列島の旧石器時代初期頃に日本列島にまで到達したと考えられるD系統と比べると、O系統はその後から東ユーラシア全域に広がり、誕生時期的には比較的若い系統であるものの、西ユーラシア系のハプログループRと並んで現代人類において最も帰属人口の多い系統となっている。日本で主に見られる詳細系統はO1b2系統とO2系統である。
O1b2系統は、日本列島の他、満州民族、朝鮮半島でも日本と同程度見られ、他は東アジア北東部や東南アジアでも低頻度見られる。O1b2系統はおおよそ30,000年前に現代東南アジア人男性の多くが属すO1b1に繋がる系統から分岐をして、約10,000年前から中国大陸で帰属人口が増え始め、やがて日本列島や満州地域、朝鮮半島へ拡散をしたと見られる。日本のO1b2保有者の約8割で見られるO1b2a-47zというサブグループは、おおよそ8,000年前に発生したと推定されているので、他の満州や朝鮮、インドネシアで多く見られるO1b2-M176(x47z)というサブグループとはそれ以上昔に血筋がわかれているということになる。
O2系統は日本においてはO1b2系統より低頻度であるものの、中国、朝鮮、ベトナム等においては最多を占めるグループであり、日本やその他の東南アジア、インド北東部やネパールなどの南アジアでも中から低頻度見られ、O系統では最大のサブグループである。

Y染色体グループから推定される日本人の成立史
崎谷満によれば、最初に日本列島に到達し、後期旧石器時代を担ったのは、4万-3万年前にやってきたD1a2a系統である。D1a2aは日本に多く見られる系統であり、アイヌ88%、沖縄県約50%(4% - 56%)、本州約36% (31% - 39%)で、東アジアではほとんど存在しない。遠縁のD1a1が多数のチベット人で見られるほか、少数のウイグル人、モンゴル人、アルタイ人、イ(彝)人、ミャオ(苗)人、ヤオ(瑶)人、漢人などでも確認されている。D1a系統の下位系統は5万年以上前に分岐し、日本列島に至り誕生したのがD1a2aであり、アルタイ-チベット付近にとどまったグループがD1a1であると考えられる。

渡来時期については諸説あるが、後期旧石器時代及び新石器時代のヨーロッパ(クロマニョン人)、そして少数の現代ヨーロッパ人、ベルベル人、アルメニア人、ネパール人でわずかに見られるC1a2と姉妹系統のC1a1系統もかなり古い時代に日本列島に入ってきたと考えられる。崎谷満はC1a1の祖型はイラン付近からアルタイ山脈付近を経由し朝鮮半島経由で日本に到達したとする説もある。他にも華南から海流に乗って日本列島に到達した南方経由説、樺太から北海道に流入後、日本列島各地へ流入した説など様々な意見がある。渡来年代についてはD1a2aより早い4万年以上前という説もあり、C1a1が日本列島最古層という可能性もある。現代日本人男性の約20人に1人(5%)がこのC1a1系統に属していると見られ、朝鮮半島南方海上に浮かぶ済州島の男性1人から検出されたほか、日本人以外で観察された例がない。

一部はサハリン経由で北海道に達した。崎谷はC2系統は細石刃石器を用い、ナウマンゾウを狩っていたと考えている。現在、C2系統はカザフ人、モンゴル人、エヴェンキ人等のアルタイ系諸族、極東ロシア(ニヴフ人、コリャーク人等)及び北アメリカ大陸北西部の原住民(例えば北部アサバスカ諸語話者等)に多い。ただし、C2系統も渡来時期については諸説あり、朝鮮民族などの周辺民族にも一定頻度見られることから、後述のO1b2系統やO2系統と共に渡来してきた可能性もある。ちなみにアルタイ系民族(チュルク系民族、モンゴル系民族、ツングース系民族)で高頻度なC2系統はC-M407という若いサブクレードに属すものを除けばほぼ全てC-L1373系統であるが、日本人や漢民族、朝鮮民族などで観察されるC2系統はC-F1067系統が大半で、C-L1373はわずかである。また日本列島固有のC2a (C-M93) もあり、一概にC2系統といっても、そのルーツや渡来時期は複数存在したことが想定される。現代日本人に於けるC2-M217の頻度については、各研究によって差があり、少ないものでは2%、3%ほど、多いものでは6%、7%ほどとなっている。

O1a系統(O-M119)は台湾の原住民の男性に非常に多いので、新石器時代の台湾または対岸の中国本土沿岸部が起源であろうと推測されている。崎谷満はオーストロネシア語族との関連があると想定している。台湾に近いにもかかわらず、日本列島の男性ではO1aは全体の約1%(0%~3%)に過ぎない。中国復旦大学・黄穎、李輝、高蒙河らの研究によれば、中国春秋時代・百越(粤)のY染色体は、O1a系統である。

O1b1系統の下位系統の一つであるO1b1a1a(O-M95)は現代の東南アジアの男性に多いけれども、元々は新石器時代の中国から拡散していったと見られている。O1a-M119と同様、現代日本人の全体の約1%(1%~4%)がこのO1b1系統に属していると見られる。

O1b2系統(O-M176)について、崎谷満は長江文明の担い手だと考えている。O1b2系統が移動を開始したのは約2800年前で、長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し、百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、中国東北部、朝鮮半島から日本列島へ渡ったと崎谷満は主張している。O1b2系統は中国江南から水稲栽培を持ち込んだと考えられ、日本列島への流入は弥生人と関連し、則ちO1b2系統の到来と共に縄文時代から弥生時代へ移行しはじめたと考えられる。O1b2系統は日本列島の他、朝鮮半島や中国東北部の一部でも比較的多く見られる。

O2系統(O-M122)について崎谷は、その一部は縄文時代~弥生時代にミレット農耕をもたらしたが、大部分は弥生時代よりも更に後、特に4世紀から7世紀頃に中国大陸及び朝鮮半島から到来した渡来人による流入が多かったであろうとしている。O2は現代の漢民族及び朝鮮民族に最多の系統である。

N系統(N-M231)はウラル系民族に高頻度で、日本には0-8%見られるが、具体的な渡来経路などは明らかでない。N1が青森で7.7%観察され、遼河文明の遺跡人骨からもN1が高頻度で見つかっており、かつ三内丸山遺跡と遼河文明の関連性が指摘されている。

ミトコンドリアDNAとY染色体による比較結果の相違 
ミトコンドリアDNAのハプログループ構成を東アジアの集団で比較すると、本土日本人・山東、遼寧の集団、韓国の集団は互いにかなり類似しており、沖縄の集団はハプログループM7aが多いなど少し離れているが本土日本人と近縁で、台湾・広東の集団は離れてるという結果になった。

一方、Y染色体による比較では、主にハプログループDが日本人において優勢であり、他の集団にはほとんど見られないことで、中国・韓国・モンゴルといった東アジアの集団から日本人は大きくかけ離れている。また、アイヌ、沖縄においてもハプログループDは頻度が高い。

この相違について篠田謙一は、母系と父系の子孫の残し方の違いに原因があると考えている。すなわち、女性は一生に産むことのできる子供の数が限られているのに対し、男性は一人で多くの子供を作ることができるといった事情に起因するという説である。特に、支配者層の父系DNAは短時間で爆発的に増加することがある。そこから、大陸においては何らかの理由で特定のY染色体ハプログループが伸長した一方、日本では縄文人の遺伝子とみられるY染色体ハプログループDが多く残存していることから、縄文人とその後日本に流入し弥生時代を開始した集団とは平和のうちに共存し、その後も特定のハプログループが拡大することがなかったのではないかと推測している。

これに対し斎藤成也は、男性と女性の子供の残し方の違いによる影響の可能性を認めつつも、そもそもミトコンドリアDNAもY染色体もそれぞれひとつの系統樹しか持たず、ゲノムワイドな分析と比べて単純である点が問題であると論じた。

HLAハプロタイプの流れ 
HLAハプロタイプについては、日本人には大きく以下の4タイプの流れが認められる。

B52-DR2: 中国大陸北部から朝鮮半島を経て北九州・近畿へ
B44-DR13、B7-DR1: 満州・朝鮮半島東部から日本海沿岸へ
B54-DR4: 中国南部から琉球諸島を経て太平洋側へ
B46-DR8: 中国大陸南部から直接、あるいは朝鮮半島を経由して北九州へ
1. は中国北部、モンゴルの一集団に高頻度のタイプで、国内では九州北部から本州中央部にかけて多い。

2. は満族、韓国人に高頻度タイプで、国内では日本海側に多い。

3. は中国南部に多いタイプで、国内では沖縄や太平洋側に多い。

4. は国外では満族と韓国人のみに多くみられ、国内には九州北部から本州中央部にかけて多い。このタイプの姉妹タイプB46-DR9が東南アジアで最も高頻度でみられる。

さらにこれとは別に縄文系と想定される別の複数のハプロタイプが南九州や北東北に存在する。またアイヌは日本人と異なる型が多いという。

塩基多様度のネット値 (DA) 分析による系統関係 
ミトコンドリアDNAの塩基配列の多様性の度合いを比較分析することによっても系統関係を計測できる。塩基多様度のネット値 (DA) 分析によって求められた集団間の遺伝距離をもとにした系統樹では、まずアフリカ人より西ユーラシア人(ヨーロッパ人)と東ユーラシア人(東アジア人)とが分岐し、次いで東ユーラシア人からアメリカ先住民が分岐し、次いでアイヌと東アジア人クラスターが分岐、次いで中国人と東アジア人が分岐、次いで沖縄と本州とが分岐する。

核DNAに対するゲノムワイドな解析 
ヒトゲノムが解析されて以来、人類集団間の遺伝的関係を推定するために大量のSNPを解析する研究が進展している。日本列島の人類集団においても、このようなアプローチによる集団の歴史の解明、医療方面への応用が期待される。

遺伝子マーカーとしてのミトコンドリアDNA、Y染色体DNAとの違いは、①注目するDNA領域長、②遺伝的組み換えの有無、③遺伝様式などが挙げられる。

遺伝情報に基づいて系統関係を議論する場合、ハプロタイプ単位、あるいはマイクロサテライト、SNP単位での遺伝的多型に注目しているわけだが、遺伝的多型が必ずしも真の系統関係を示すとは限らない。なぜならば、遺伝的多型の実体である対立遺伝子頻度は、そのゲノム領域に依存した突然変異率、組換え率、さらに、遺伝的浮動、自然選択、集団間での個体の移住、個体群動態などの影響を受けるためである。この問題を避けるためには、互いに独立な関係にある座位を多数解析することが必要である。この点で、注目する領域が相対的に小さく、組換えのないミトコンドリア、Y染色体の遺伝子マーカーは得られる情報量が制限される。しかしながら、遺伝様式が常染色体とは異なることから、母系、父系の遺伝子系図を比較する議論ができるという長所もある。

ゲノム解析は中立進化をしている領域の他、転写されるコード領域も解析に含むため、適応進化の研究、個別化医療への応用も期待される

以下、日本列島人類集団を含む研究例をあげる。

International HapMap Consortiumの研究では、東京由来の44名を含む人類集団サンプルを解析している。

Tian et al.(2008)では、東アジア地域をカバーした集団サンプルを用いて、その遺伝的構造を議論している。主成分分析の結果からは日本列島人が単独のクラスターを形成することが見て取れる。同様のクラスターとさらに詳細な遺伝的多様性に関する研究は、HUGO Pan-Asian SNP Consortiumによってなされている。

日本列島内部集団の遺伝的構造を解析した例として、7001人のサンプルを解析したYamaguchi-Kabata et al.(2008)では、日本列島の人類集団が琉球クラスターと本土クラスターに分かれることをゲノムレベルで示した。これはミトコンドリアやY染色体の解析からも予想されていた、日本列島人類集団の二重構造モデルを支持する結果であった。しかし本土クラスターと琉球クラスターの遺伝的分化の程度は非常に小さく、そのためSNPの頻度の違いは大部分についてはわずかであった。

しかしYamaguchi-Kabata et al.(2008)ではアイヌ人の集団サンプルを解析してはいなかった。その後、斎藤成也ら総合研究大学院大学により、ヒトゲノム中のSNP(単一塩基多型)を示す100万塩基サイトを一挙に調べることができるシステムを用いて、アイヌ人と琉球人を含む日本列島人の大規模なDNA分析が行われた。

その結果アイヌ人からみると琉球人が遺伝的にもっとも近縁であり、両者の中間に位置する本土人は、沖縄にすむ日本人に次いでアイヌ人に近いことが示された。また、アイヌ人は本土人との混血の度合いの差により個体間のばらつきがきわめて大きいが、遺伝的な多様性自体は本土人や沖縄人よりも低かった。また、主成分分析およびfrappe分析から、アイヌ人個体の3分の1以上に本土日本人との遺伝子交流が認められた。さらに、東アジアの他の30の人類集団のデータと日本列島人の比較調査が行われた。30集団のうちほとんどの集団が近縁のグループを形成したのに対し、本土日本人、沖縄人、アイヌ、韓国人、ウイグル人、ヤクート人のみが大きく乖離していた。このうち日本列島の三集団はアイヌ、沖縄人、本土人の順に同傾向の乖離を示し、縄文人の影響を受けていることが確かめられた形となった。このことは、現代日本列島には旧石器時代から日本列島に住む縄文人の系統と弥生系渡来人の系統が共存するという、二重構造説を強く支持する。

アイヌ人と琉球人は、東ユーラシア人の系統樹においてクラスターを形成しており、ブートストラップ確率(推定系統樹の信頼度)は100%であった。さらにこのクラスターは、系統樹上で、本土日本人とのクラスターを形成していた。

また、アイヌ人を縄文人に見立て、他の日本列島人と比較すると、本土日本人には14‐20%、沖縄人には27‐30%の縄文人の血が伝わっていると推定された。

また、日本を七地域に分けてその遺伝的距離を測った研究では、沖縄と他の本土日本人との距離はその他の地域同士の距離よりも大きく離れていた。沖縄人と個々の地域集団との関連でいえば、比較的地理的に近い九州だけではなく、東北の集団とも比較的共通性がみられることがわかった。さらに別の調査では、出雲地域の集団や南薩摩の集団が東北の集団と遺伝的に近いことが判明した。またこれら沖縄、東北、出雲、南薩摩の集団は、関東の集団と比べて大陸の集団との遺伝距離が遠いという結果になった。これは、北九州、畿内、中部、関東などの政治文化の中心地には弥生時代の渡来人やその後も断続的に続いた流入民が集まりやすく、逆に沖縄・東北・出雲・南薩摩などの周縁部は弥生以降の渡来人の影響が少なかったことが影響しているのではないかと推測されている。

また、斎藤はアイヌと本土日本人との遺伝的距離、そして本土日本人における遺伝的地域性を鑑みて、縄文人の後に大陸から渡来した人々は遺伝的に二つの集団に分かれると主張した。

核DNA解析によって推定される日本列島への人類集団の移住の歴史 
第一段階(狩猟採集民)(約4万年前から約4400年前、旧石器時代から縄文時代の中期)
第一波の渡来民が、ユーラシアの各地からさまざまなルートで日本に流入した。特に1万2000年前まで日本は大陸と陸続きであったため流入は容易であった。この集団は狩猟採集を主とし、現在の大半の東アジア人とは大きくDNAの異なる集団だった。この旧石器時代の日本人がそのまま縄文人へと発展したと考えられる。

第二段階(漁撈・園耕民)(約4400年前-3000年前)
縄文時代後期になって、第二の渡来民が流入した。これは縄文人とDNAを大きく異にしていたが、後述の第三期渡来民とも若干異なっていた。斎藤はこの集団を黄海沿岸に住む「海の民」と推定し、漁労を主とする狩猟採集民もしくは狩猟採集と農耕をともに生業とする園耕民であったとした。この集団は日本列島中心部において縄文人と混血したが、北海道、南西諸島、東北地方にはほとんど影響を及ぼさなかった。また、ABO式血液型の分布から、この集団はO型を主とし、シベリアもしくは東南アジアの集団と近縁である可能性がある。

第三段階前期(農耕民)(約3000年前-1700年前)
朝鮮半島を通じて稲作を主とする渡来民が流入し、水田稲作を導入した。この集団は主に北九州、畿内、関東を結ぶ日本の中心軸に広がり、その他の場所では比較的影響を及ぼさなかった。特に北海道や南西諸島、東北への影響は引き続きほとんどなかった。

第三段階後期(約1700年前-現在)
政治の中心が畿内に移り、朝鮮半島に加え、現在の上海周辺からも若干の渡来民が流入するようになった。古墳時代に入ると、東北地方に居住していた第一段階(旧石器・縄文人)の子孫の大半が北海道へ移り、替わって第二段階(漁労民もしくは園耕民)の子孫を中心とする人々が住み着いた。南西諸島では、グスク時代に南九州から第二段階の子孫を中心する集団が移住・混血し、江戸時代には第三段階の集団との混血も進んだ。北海道では古墳時代から平安時代にかけてオホーツク文化人と縄文人の子孫との交流があり、江戸時代以降は本土日本人との混血も進んだ。

仮に東アジアの六集団(本土日本人、アイヌ人、沖縄人、韓国人、北方中国人、南方中国人)がすべて三つの集団の混血からなると仮定してゲノムを分析すると、第一段階の集団の遺伝子はアイヌの一部が100%を受け継いでおり、沖縄人は20%弱、本土日本人もそれより低い確率で受け継いでいるが、その他の三集団ではほとんど見られない。第二段階の集団の遺伝子は、沖縄人が80%以上、本土日本人が60%以上、韓国人は30%前後、北方中国人が10%前後受け継いでいるが、南方中国人はほとんど持っていない。第三段階の集団の遺伝子は南方中国人のほぼ100%を占め、北方中国人の90%前後、韓国人の70%前後もこの系統である。本土日本人においては第一段階の集団よりも多いが、第二段階の集団よりは少ない。アイヌにもある程度影響のある個体が存在するが、沖縄人への影響はほんの一部に過ぎない。ただし、これらの推計は限りなく単純化されたもので、必ずしもそのまま受け取れるものではないことに注意する必要がある。

その他の分子人類学的指標による諸説 
集団遺伝学者の根井正利は、「現代人の起源」に関するシンポジウム(1993年、京都)にて、(アイヌを含む北海道から沖縄県までの)日本人の起源は約3万年前から北東アジアから渡来し、弥生時代以降の渡来人は現代日本人の遺伝子プールにはわずかな影響しか与えていないという研究結果を出している。分子人類学者の尾本恵市は埴原の原日本人(アイヌを含む縄文人)の南方起源説を批判しており、1995年に出した系統図では、日本人はチベット人と同じ枝に位置づけられ、アイヌとは異なるとしており、1997年に出した系統図では、本州日本人はアイヌや琉球諸島、チベット、一部の台湾原住民と近く、韓国人、中国人とは離れているという結果を出している。松本秀雄はGm遺伝子の観点から、日本人の等質性を示す「日本人バイカル湖畔起源説」を提唱している。また、ヒト白血球型抗原の遺伝子分析により、現代日本人は周辺の韓国人や台湾人よりも等質性が高い民族であるとの研究結果が発表されている(台湾50、韓国70、日本80)。

京都大学ウイルス研究所の日沼頼夫はALT(成人T細胞白血病)レトロウイルス (HTLV) のキャリアが多い地域を縄文系の人が色濃く残存する地域と考えた。ATLのウイルスキャリアは日本人に多数存在するが、東アジアの周辺諸国ではまったく見出されず、アメリカ先住民やアフリカ、ニューギニア先住民などで多い。日本国内の分布に目を転じると、九州や沖縄、アイヌに特に高頻度で見られ、四国南部、紀伊半島の南部、東北地方の太平洋側、隠岐、五島列島などの僻地や離島に多いことが判明している。九州、四国、東北の各地方におけるATLの好発地域を詳細に検討すると、周囲から隔絶され交通の不便だった小集落でキャリアは高率に温存されている。HTLVはかつて日本列島のみならず東アジア大陸部にも広く分布していたが、激しい淘汰が繰り返されて大陸部では消滅し、弥生時代になってウイルス非キャリアの大陸集団が日本列島中央部に多数移住してくると、列島中央部でウイルスが薄まっていったが、列島両端や僻地には縄文系のキャリア集団が色濃く残ったものと考えられている。

形質人類学、考古学からの接近方法 
日本人の形成過程を分析する形質人類学からの接近方法には原人や古人骨などの形態解析、石器の分布分析などが古典的な方法としてある。形質人類学的な手法は、「ヒト集団の系統関係の把握」という用途に用いるにはかなり限界があるとの指摘が聞かれてきたところであり、この用途に限って言えば、完全に主役の座を分子人類学に譲り渡した感が強い。もっとも、遺跡発掘骨の年代推定は、発掘物のAMS放射性炭素年代測定法によりかなり正確に推定できる利点がある。

東大人類学教室の長谷部言人、鈴木尚は豊富な発掘調査をもとに、日本人が時代を通じて変化してきたこと、明治以降の例でも分かるように、混血等がなくとも急激に形質が変化しうることを示し、一見、形質が大いに異なる縄文人と弥生人の間でも、実は連続していて、外部からの大きな遺伝子の流入を仮定する必要はないと主張し、1980年代半ばまで有力な説であった(これは「変形説」と呼ばれる)。

それに対して、現代日本人は日本の先住民族に置き換わって成立したという「置換説」も、幕末、明治のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトやエドワード・S・モースの考察に早くから見られ、記紀神話などを参考に、在来の原住民を天孫族が征服して日本人が形成されたという論は盛んであった。エルヴィン・フォン・ベルツは日本人でも長州藩出身と薩摩藩出身では顔に形質的な違いがあるとして「混血説」を提唱した。京都大学の清野謙次の論などが「混血説」の代表である。第二次世界大戦後、長谷部=鈴木ラインの説が唱えられると、一時期、表立って主張されにくい傾向があったが、同じ東大系の鈴木尚の弟子である埴原和郎が、1980年代半ばに日本人の起源は南方系の縄文人と北方系の弥生人の混血であるとする「二重構造説」を唱えたが、近年分子生物学の研究が進むにつれて「縄文人」も北方系であるとする研究結果が多数出るに至っている。

考古学の観点からは、弥生早期の遺跡に外来系の土器が玄界灘に面した大きな遺跡からしか発見されていないことから、弥生人(渡来系)の人数を1割程度に見積もる研究者が多い。一方で、人類学者による研究では大量の渡来があったとされ(埴原和郎で100万人、宝来聰で65%が渡来系)、人類学者の中橋孝博らによる人口シミュレーションによると、農耕民の弥生人は狩猟民である縄文人よりも人口増加率が高く、渡来が少数でも数百年で大きく数を増やす可能性も示された。

稲作の起源とその考古学的分析 
日本人の渡来ルートを知るために稲作の渡来ルートを考える研究があり、いくつかの説が存在しているが、稲作以前から日本列島には人が住んでいたことと、移民してきた少数の稲作耕作者から稲作が原住民に伝搬された可能性とを考えれば、稲作伝搬が必ずしも大規模な移民を裏付けるものではないことに注意が必要である。

かつて、佐々木高明らによる照葉樹林文化論は、稲作が中国雲南省などの山間部における陸稲を発祥としていると主張していたが、近年、長江文明の全貌が明らかにされるにつれ、稲作は長江下流域の水稲耕作を発祥とする説が有力視されつつある。 

民族学 
人類学者の鳥居龍蔵は、アイヌ、固有日本人(朝鮮半島を経由して、あるいは沿海州から来た北方系民族)、インドシナ族(苗族)、インドネシア族(隼人)を主な構成要素として日本民族が形成されたと考えた。

民族学者の岡正雄は、先史時代の日本列島には少なくとも以下の5つの種族文化が渡来したとしている。

母系的、秘密結社的、芋栽培=狩猟民文化(メラネシア方面)
母系的、陸稲栽培=狩猟民文化(東南アジア方面)
父系的、「ハラ」氏族的、畑作=狩猟民文化(北東アジア・ツングース方面)
男性的、年齢階梯制的、水稲栽培=漁撈民文化(中国江南地方)
父権的、「ウジ」氏族的=支配者文化(アルタイ、朝鮮半島)

1. は縄文中期はじめ頃日本に流入。メラネシア原住民の文化と著しく一致(乳棒状石斧、棍棒用石環、石皿、土器形態と文様、土偶、土面、集団構造)。男性秘密結社の祭り(ナマハゲ)、タロ芋の一種であるサトイモを祭事の折の食物にする。

2.は縄文末期に日本に流入。狩猟生活とともに山地丘陵の斜面の焼畑において陸稲を栽培した。(太陽神アマテラスの崇拝、家族的、村落共同的シャーマニズム、司祭的女性支配者)

3.は弥生初期に満州、朝鮮方面からツングース系統のある種族によって日本に流入。粟、黍を焼畑で栽培しながらも狩猟も行った。アルタイ語系の言語を最初に日本に持ち込んだのはこの種族。(櫛目文土器、穀物の穂摘み用半月系石器)。日本語のウカラ、ヤカラ、ハラカラなど同属集団を意味する言葉ハラ=カラはツングース諸語において外婚的父系同属集団を呼んだ語ハラ (Hala) に系統を引く。

4.は紀元前4世紀から5世紀頃、揚子江の夏口地方よりも南の沿岸地域から呉、越両国滅亡に伴う民族移動の余波として日本に渡来したもの。弥生文化における南方的と言われる諸要素を日本列島にもたらした。アウストロネシア系の種族文化。(水稲耕作、進んだ漁撈技術、板張り船)若者宿、娘宿、寝宿、産屋、月経小屋、喪屋など機能に応じて独立の小屋を建てる慣習も年齢階梯制(年齢や世代の区分で社会を階層づける社会組織)によるもの。

5.は支配者王侯文化・国家的支配体制を持ち込んだ天皇氏族を中心とする部族の文化。4の文化と同系同質の種族が、西から来たアルタイ系騎馬遊牧民によって征服され国家に組織されることによって、満州南部に置いて成立したが1世紀前から南下し始め朝鮮半島南部に暫く留まり3 - 4世紀頃に日本列島に渡来。大家族、「ウジ」族、種族のタテの三段に構成される種族構造。「ウジ」父系的氏族、軍隊体制、王朝制、氏族長会議、奴隷制、氏族職階製、各種の職業集団、鍛冶職集団などを所有。氏族や種族を五つの部分に区画する「五組織」的な社会及び軍事の構造もこの文化。天神崇拝、父系的祖先崇拝、職業的シャーマニズムなどの宗教要素もこの文化。ユーラシア・ステップ地域の騎馬遊牧民の文化と本質的に完全一致する。これが、鮮卑及び「倭」の文化に比定される。

「倭族」論 
古代史、文化人類学研究者の鳥越憲三郎は「倭族」仮説(倭族論)を提唱している。鳥越の定義では倭族とは「稲作を伴って日本列島に渡来した倭人、つまり弥生人と祖先を同じくし、また同系の文化を共有する人たちを総称した用語」である。古代日本列島における倭人・倭国については『魏志倭人伝』(『三国志』魏書東夷伝倭人条)が有名であるが、鳥越は他の史書における倭人の記述(『論衡』から『旧唐書』に至るまで)を読解し、長江(揚子江)上流域の四川省・雲南省・貴州省の各省にかけて、複数の倭人の王国があったことを指摘した。その諸王国はたとえば『史記』にある以下の諸国である。
滇(てん)・夜郎(貴州省赫章県に比定され、現在はイ族・ミャオ族・ペー族・回族などが居住)・昆明且蘭(しょらん)・且蘭(しょらん)・徙(し)・キョウ都(現在の揚州市邗江区に比定)・蜀・巴(重慶市)
さらに鳥越は、倭族の起源地を雲南省の湖・滇池に比定し、水稲の人工栽培に成功したというシナリオを描く。以降、鳥越は古代史的な文献研究と現場調査を交差させ、倭族の一部が日本列島に移住し、また他の倭族と分岐していったことを示した。分岐したと比定される民族には、イ族、ハニ族(古代での和夷に比定。またタイではアカ族)、タイ族、ワ族、ミャオ族、カレン族、ラワ族などがある。ほか鳥越は、高床式建物、貫頭衣(和服)、注連縄などの風俗を比較している。また諏訪春雄は倭族を百越の一部としている。

いずれにせよこの倭族論(倭族仮説)は長江文明を母体にした民族系統論といってよく、観点は異なるが環境考古学の安田喜憲の長江文明論や近年の稲作の渡来とも重なっている。

言語学から 
日本語の起源を解明することで、日本人のルーツを明らかにするという研究もある。

日本語の起源は、従来、アルタイ諸語やオーストロネシア語族との関連が想定されてきたが、比較言語学的にはまだ証明されていない。現在の所、日本語の起源については、いくつかの説が出ているが決定的な物はない。

学際研究による日本列島へのヒト渡来経路の総合的分析 
平成17年(2005年)度から21年(2009年)度にかけて、日本学術振興会による共同研究「更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究」が行われ、2010年2月20日には国立科学博物館にて公開シンポジウム「日本人起源論を検証する:形態、DNA、食性モデルの一致、不一致」が開催され、また雑誌『科学』(岩波書店、2010年4月号)では同内容が掲載された。研究代表者の溝口優司は、研究班員全員の同意が得られるようなシナリオは作れなかったと断ったうえで、日本列島へのヒト渡来経路は現時点では次のようになるとしている。

アフリカで形成された人類集団の一部が、5 - 6万年前までには東南アジアに渡来し、その地の後期更新世人類となった。
- 3. 東南アジア後期更新世人類の一部はアジア大陸を北上し、また別の一部は東進してオーストラリア先住民などの祖先になった(典型性確率を使った頭蓋計測値の分析で、オーストラリア東南部出土の人骨化石であるキーローなどに似た後期更新世人も、縄文時代人の祖先候補とすべきであることが指摘された)。
アジア大陸に進出した後期更新世人類は北アジア(シベリア)、北東アジア、日本列島、南西諸島などに拡散した。シベリアに向かった集団は、少なくとも2万年前までには、バイカル湖付近にまでに到達し、寒冷地適応を果たして北方アジア人的特徴を得た。日本列島に上陸した集団は縄文時代人の祖先となり、南西諸島に渡った集団の中には港川人の祖先もいた。
更新世の終わり頃、北東アジアにまで来ていた、寒冷地適応をしていない後期更新世人類の子孫が、北方からも日本列島へ移住した可能性もある。
シベリアで寒冷地適応していた集団が東進南下し、少なくとも約3000年前までには中国東北部、朝鮮半島、黄河流域、江南地域などに分布。
また同研究では、北海道縄文時代人は北東アジア由来かもしれないという仮説、縄文時代人の祖先は東南アジア・中国南部のみならず広くオーストラリアまでも含めた地域の後期更新世人類の中から探さなければならないという指摘、後期更新世の沖縄港川人はアジア大陸の南方起源である可能性が高いが、北海道 - 九州地方の縄文時代人とは下顎形態に多数の相違点が見出され、両者の間の系譜的連続性を認める従来の仮説は見直される必要があるという主張もなされた。

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