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【『真理のことばの物語集:ダンマパダ・アッタヴァンナナー』刊行にあたって】ブッダを食事にご招待するとどうなるのか——来生でブッダに会っても動じないためのノウハウご紹介!

このたび当社から、松村淳子訳『真理のことばの物語集:ダンマパダ・アッタヴァンナナー』全4巻を同時刊行します。

『ダンマパダ』とはいわゆる原始仏典のひとつで、今では岩波文庫などでも刊行され、お読みになった方もいらっしゃるかと思います。
パーリ語で書かれた「三蔵」は、仏教の一派である南方上座部(テーラヴァーダ)が現在まで伝持し続けており、その経蔵のなかでも比較的短いものを集めた「小部(Khuddhakanikāya)」に、『スッタニパータ』や『ジャータカ』などとともに『ダンマパダ』は収められています(ただしこの「小部」というまとまりがいろいろ曲者であることは、たとえば清水俊史『上座部仏教における聖典論の研究』(大蔵出版、2021)第1部などを参照ください)。
さて、この『ダンマパダ』に註釈をほどこした人物が、5世紀頃スリランカに来島したブッダゴーサ(Buddhaghosa)です。ブッダゴーサはそれまで古シンハラ語で伝承されてきた註釈書をもとに、新たにパーリ語で本文を編纂し直し、多くの註釈書を著しました。本書は、その大部な注釈の中から『ダンマパダ』の偈(詩句)をブッダが説くに至った経緯の物語の部分を、パーリ語原典から新たに全訳したものです。

サーリプッタとモッガッラーナは有名な仏弟子ですが、彼らの誕生から出家までの詳細はご存じでしょうか? デーヴァダッタが死の間際に後悔してブッダの元に赴き、生きながら地獄に落ちたのは、あるいはご存じでしょう。でも、地獄で受けた責め苦のありさまや、未来世で独覚になるということなどはご存じでしょうか? 生まれ変わるたびに仇の子供を喰らった女たちの凄まじいお話も、おそらくお読みになったことはないでしょう。
このような仏弟子たちの印象的なエピソードが数多く説かれている本書は、『印度仏教固有名詞辞典』でも多くの話を出典として採用しており、まさに仏教説話の宝庫といえましょう。このようなエピソードはすべて、ブッダが『ダンマパダ』の詩句を説くに至る多様な因縁物語となっているのです。

『ジャータカ註』が動物説話のような〈子供向けの物語〉であるのに対し、本書はブッダの現在世が背景になっている〈大人向けの物語集〉とでもいうべきもので、現代のわたしたちが読んでも身につまされるような話が多く説かれています。ガンダーラ美術で有名な「双神変」(対の奇跡)や、男が女になって子供を産んでからまた男に戻って出家する、というややこしい話もこちらの中に含まれています。
今回、本書の訳註には専門的・学術的なもの以外に南方仏教文化の背景や人物関係の説明なども付しており、大いに本書を読み進める助けとなるでしょう。また第4巻末の索引には簡単な語釈が付いているので、これはちょっとした仏教辞書としても使えます。また、同じく第4巻末には「『ダンマパダ』偈出現箇所一覧」が付してありますので、エピソードを知りたい詩句が本書のどの巻に入っているかもすぐに調べられます。

さて、この『真理のことばの物語集』には「ブッダって、こういう方なんですよ、こんなこともできるんです」というブッダ観やブッダに対する礼儀などが各話のなかにちりばめられており、それらは体系的に記されているわけではありません。そこでここでは、「ブッダと数人の比丘を自宅に招き、食事の布施をする」という設定で、本書に散見される「ブッダたちの特徴」をご紹介してみましょう。

1. ブッダをご招待するにあたっての前提事項

古代インドには「布施をすれば功徳が得られる」という文化的大前提があります。在家信者は布施をすれば功徳が得られるので、食うや食わずの貧乏人でも「わたしの援けとなってください、わたしに愛護(saṃgaha)をお与えください」という思いで、比丘たちに食事を布施します。受ける側の比丘も、悟りに達した阿羅漢というクラスになると、愛護を与えるべき不幸な人を観察してから托鉢に行くこともあります(本書事項索引「愛護」参照)。
さて、始める前に、ちょっと前提事項が。

南方上座部の説では、芥子粒ほどでも仏舎利(ブッダの遺骨)が残っているあいだはブッダがまだこの世界に存在しているので、別のブッダが出現するには仏舎利の般涅槃を待たなければなりません(岩井昌悟「一世界一佛と多世界多佛」『東洋学論叢』36、2011、参照。ブッダが同時に複数現れないのは「ブッダがいっぱいいたら珍しくないから」(153頁、趣意))。現存の仏舎利は明日とか10年後とかには般涅槃しそうもないので、本稿は「遠い未来世でブッダに会っても動揺しないためのシミュレーション」としてお読みください。
ブッダは朝食かブランチにしかご招待できません。仏教の出家修行者には「いずれの比丘といえども、時ならぬ時に嚙む食べ物か軟らかい食べ物を食べれば、パーチッティヤである」(Pācittiya 37 (Vin IV, 85-86))という罰則規定があり、その語釈に「「時ならぬ時」とは、正午から日の出まで」とあるので、食事の時間は〈日の出から正午まで〉です。「ブッダとディナーしたい」という夢をお持ちの方は、未来永劫かないませんので、今生で諦めてください。
「ブッダには、毎日当家で食事をしていただきたい」というご希望もかないません。「ブッダたちは、ひとつの場所にいつも行くことはできません。多くの人々が待望しているのです」(第1巻219頁など、同様の表現多数あり)ということで、ブッダの独り占めも諦めましょう。

では、始めましょう。チューラ・カーラさんのお話を聞きましょうか。

2. ご招待前の準備と心構え

どうも。第1巻第1章6話に出てきた、チューラ・カーラの未来生です。兄は阿羅漢になって般涅槃したんで、もうこの世にもあの世にもいないんですが、わたしは在家時代の妻たちにとっちめられて、「比丘になって間がなく、雨安居をまだ過ごしていない出家者たちは、恥じることを知らない」(第1巻76頁)なんて書かれる目に遭っちゃって、今生でリベンジってことで。
まず「ブッダたちと馴染みのない人々は、座の用意の仕方を知らないのである」(第2巻43頁)というのは我々にとって織り込み済ですから、ブッダをご招待なさった場合、座席のセッティングをチェックする比丘が先に行って、指示します。

ブッダたちの場合、周囲に接していない場所に座を用意するべきことを告知する役の比丘が一人先に行くことになっている。ブッダたちのためには、真ん中に座をしつらえ、その右にはサーリプッタ長老、左にはマハー・モッガッラーナ長老がすわり、そこから両方の側に比丘サンガのための座が用意されることになっているのである。(第1巻75頁)

この告知役が前生と今のわたしです。サーリプッタ長老とマハー・モッガッラーナ長老とはゴータマ仏の〈2人の上首の弟子〉、つまり弟子筆頭のお2人で、アノーマダッシン仏(過去24仏の第7)にもプッサ仏(同じく第18)にも2人いらっしゃいました(人名索引「上首の弟子」参照)。だから、ゴータマ仏の次のブッダにも2人いるんじゃないでしょうか。ただし、ブッダがかならず上首の弟子を引き連れてやってくるとは限りません。それぞれ遊行したり、招待されたり、托鉢したりしておりますのでね。
さーて、今日はこの2階建てアパートの上の階ですね。だいーぶ年代物のアパートだこと。でも、

ブッダたちというものは、貧者たちに憐れみの心を起こされるのである。(第2巻233頁など)

ということなので、「こんなあばら家に、ブッダをお招きするのは失礼かな……」なんて思わないでくださいね。
食事だって、大抵のものは召し上がります。〈米糠を炭火で焼き固めた饅頭〉でも施されればいただきますから(第3巻352-354頁)、「ろくなものが用意できないから……」なんて諦めないでください。肉でも魚でも召し上がります。ただし、「明日は、鯛の尾頭付きを奮発しますから」などと予告してはいけません。出家修行者には、

比丘たちよ、〔自分の〕ために調理された肉だと知りながら食べてはならない。食べるものは悪作罪である。比丘たちよ、〔自分のために調理されたと〕見られない、聞かれない、疑われない、という3点が清浄な魚と肉とを許可する。(Mahāvagga VI, Bhesajjakkhandhaka 31 (Vin I, 238))

ということで、だいたいヒョウ、熊、ハイエナの肉(Mahāvagga VI, Bhesajjakkhandhaka 23 (Vin I, 216-220))などとなりますので、馬刺しは厳禁ですね……。
それにね、たった1つのハチの巣からとった蜂蜜だけで、ヴィパッシン仏(過去24仏の第19)と六万八千の修行者のお伴に差し上げる分に足りちゃったんですよ。

これだけわずかなものがどうしてこれだけの大人数に足りたのか、と考えてはならない。それはブッダの威大な力によって足りたのである。ブッダの境地は測り知ることができないものである。「四つの考えてはならない事柄」と言われるものを考える者は、正気を失うという。(第2巻292頁)

〈四つの考えてはならない事柄〉の1つが「ブッダたちのブッダの領域」(上記引用註9)なので、まあブッダをご招待したからにはあれこれ考えず、高級なものでなければ心配ご無用。
さーて、2階まで階段を上がって、呼び鈴をピンポーンと押しましょう。ああ、ブッダをご招待なさった○○さんですね、座席の準備などを確認しにまいりました。えっ、「住所をお伝えし忘れたのに、よくぞお越しくださいました」ですって? なるほど、どうりでブッダが直々にわたしに道を指示されたわけだ。なんとなれば、

ブッダたちは、また、道を教える者を必要としない。菩提樹の根元で一万の世界を震動させて正しい覚りに到達された日に、彼らには「この道は地獄へ行く、この道は畜生の胎内に行く、これは餓鬼界に行く、これは人間界に行く、これは天界に行く、これは不死の偉大な涅槃に到る」と、すべての道がはっきりと現れたのである。村や町などの道は教えられるまでもないのである。(第2巻43頁)

ということですので、ご招待なさったのがブッダでよかった。ブッダだからすべての道(magga)を知ってマッガ(すみません)、わたしら普通の比丘だったら、来られませんでしたよ。
さて準備のほうは大丈夫そうですね。でも、出入口がちょっと狭くて、屈まないとブッダがお入りになれませんかね。その場合、どうなるかというと、

しかし彼の住居は低く、屈まなければ入ることはできなかった。しかも、ブッダたちは家に入るのに屈まれて入られることはないのである。家に入られるとき、大地が下に沈み、家は上に伸びあがるのだ。これはブッダたちに心をこめて捧げられる布施の果報である。〔ブッダたちが〕ふたたび外へ出られて去られるときに、すべては元通りになるのである。それゆえ、師はまっすぐ立った姿勢のまま家に入られて、サッカが整えた座にすわられた。(第2巻236頁)

となるんですね。1階の方に「出入口がグニューンと押し下がっちゃいますが、ブッダがお帰りになったら元に戻りますから」ってお伝えください。そうしないと下の人はびっくりして「心臓の肉が震え」(第2巻37, 340頁)ちゃいますんで。
では、わたしは戻ってブッダをお連れします。ブッダがいらっしゃったら、

ブッダたちに直面する場所では、立っていようとすわっていようと、あちらこちらへと動いたりしないのである。ブッダの通り道の両側では、不動の姿勢で立つのである。(第2巻183頁)

という決まりですので、ビシッとお願いします。

3. 食後の〈感謝の法話〉

食事シーンの描写は本書には出てこないので、カットします。食事が終わったら、ブッダか弟子が〈感謝の法話〉(anumodana/anumodanā)をなさいますので(第4巻20頁)、その方の鉢を受け取ってください。
その法話の内容ですが、

ブッダたちというものは教えを説きながら、聴衆の中に〔三〕帰依、〔五〕戒、あるいは出家などの機根があるかどうかを観察されて、その機根に従って教えを説かれるのである。(第1巻9頁)

ということなので、あなたに合ったご法話をなさいます(具体的な内容は、事項索引「感謝の法話」参照)。
ただし、その場にいる人全員にそれぞれ最適な説法ができるわけではなく、「この人は、今、ここで、すぐに、聖者の位に入れる!」というターゲットに照準を合わせてきます。目当ての人物が到着するまで、〈感謝の法話〉をなさらなかったこともあります(第3巻第13章6話)。
もしあなたが未信者で、ブッダの法話が布施の話から始まり、戒の話、次いで生天の話に入ったら、これは〈次第説法〉(anupubbikathā/ānupubbikathā)ですので、あなたは確実に、今、ここで、すぐに、聖者の位に入れます!(鮫島有理「次第説法とはどのような説法か:施論、戒論、生天論は誰に説かれるのか?」『印度学仏教学研究』66巻1号、2017、参照)

4. おわりに

さあいかがでしょう。ブッダをご招待するとなると、ざっとこんな流れになります。
それにしても、今回の〈感謝の法話〉はひやひやしました……だって、美人の娘さんが法話の最中、こともあろうにブッダに色目を使ってくるんですから。「女が男を誘惑する四十の仕草」(第4巻325頁)の半分ぐらいはやってたんじゃないかな。ブッダもよせばいいのに、マーラの娘たちに誘惑されたときの話を始めて、

タンハー(渇愛)とアラティ(不快)とラーガー(執着)とを見ても、
男女の交わりへの欲望はなかった
糞尿に満ちたこれは何なのか、
足ですらそれに触れることを望もうか。(第1巻202頁、第3巻216頁)

ですって……ご両親はこれにビビッときて、阿羅漢まで一歩手前の不還果を得ちゃいましたが、娘さんはもうカンカンですよ。ブッダがお帰りになるまで、ずっと睨んでたんだから。

いったい、師は彼女がご自分に敵意を抱くことを知っておられたのか、知らなかったのかというと、知っておられたのである。知っておられながら、どうして詩句を唱えられたのか。それは、他の二人のためである。ブッダたちは敵意を気にかけず、道の果報を理解するのに値する者たちのために法を説かれるのである。(第1巻203頁)

っておっしゃいますがね、こちらはまだ凡夫ですから、あることないことネットで拡散されたらどうしよう……ってぐらいビクビクしてたんですが、

心配はいりません。彼らは七日のあいだ罵りますが、八日目には黙ってしまうでしょう。ブッダたちに起こる問題は、七日以上は続かないからです。(第1巻213頁)

ですよね……わたしもこんなにビクビクしているようでは、過去生の兄のようになれませんね。ブッダに〈阿羅漢に至る瞑想の主題〉(事項索引「瞑想」参照)をいただいて、修行に励みましょう。
そう、阿羅漢になったあかつきには、アーナンダ長老のように、川の真ん中の上空で〈火の要素の精神統一〉に入り、燃え上がりながら真っ二つになって般涅槃する(第2巻200-201頁)のがわたしの夢です。間違っても、マハー・モッガッラーナ長老のように、盗賊にボコボコにされて砕け死ぬ(第3巻71-72頁)のは嫌だなー……。
長くなりました。では、ご機嫌よう。今生でも般涅槃できなかったら、またどこかでお会いしましょう!

*   *   *

というところで、チューラ・カーラさんによる詳しいレポートはおしまい。
引用されている部分でおわかりいただけるかと思いますが、一口に仏教説話といってもその内容は多岐にわたり、興味深いエピソードが満載です。
ではブッダゴーサの珠玉の筆致で語られる、びっくりするようなお話や、時にウィットに富み、時に心が洗われる物語の数々をぜひ、ご堪能あれ!

文=編集部(今)

『真理のことばの物語集 ダンマパダ・アッタヴァンナナー』
松村淳子訳 2021年10月15日発売予定

第1巻・総361頁 定価6,820円(本体価格6,200円)
ISBN978-4-336-07073-9

第2巻・総411頁 定価7,040円(本体価格6,400円)
ISBN978-4-336-07074-6

第3巻・総453頁 定価7,260円(本体価格6,600円)
ISBN978-4-336-07075-3

第4巻・総437頁 定価7,150円(本体価格6,500円)
ISBN978-4-336-07076-0

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