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【怪奇長篇試し読み】現代ゴシック・ファンタジーの最高傑作『マルペルチュイ』第1章公開!

『マルペルチュイ ジャン・レー/ジョン・フランダース怪奇幻想作品集』の刊行を記念する試し読み第3弾、表題作「マルペルチュイ」第1章を公開します。

「現代ゴシック・ファンタジーの最高傑作」と言われる長篇「マルペルチュイ」は、以下のようなあらすじの作品です。

大伯父カッサーヴの奇妙な遺言に従い、莫大な遺産の相続と引き換えに〈マルペルチュイ〉館に住まうこととなった一族の者たち。
幽囚のごとき彼らが享楽と色恋に耽る一方、屋敷の暗闇には奇怪な存在がひそかに蠢き、やがて、住人たちが消える不可解な事件が立て続けに起こる。
一族の若き青年ジャン゠ジャックはこの呪われた館を探索し、襲い来る幾重もの怖ろしい出来事の果てに、カッサーヴの末裔たちが抱える驚くべき秘密と真実に辿り着く……

閉ざされた館に縛り付けられたカッサーヴ一族の身に、おそろしい、奇怪な事件が次々と降りかかるのです。

本記事でお読みいただける「第1章 カッサーヴ伯父の死」は、主人公ジャン゠ジャック青年をはじめとする一族の者たちが、死に際の大伯父カッサーヴに〈マルペルチュイ館〉へと呼び出され、奇妙な遺産相続の遺言を伝えられる場面です。
濃密なゴシック・ファンタジーの幕開けに相応しい、荘厳で不穏な気配が全篇に漂っています。
ぜひ、ご一読下さい!

* * *

第一章 カッサーヴ伯父の死

生者たちに自らの生の神秘を残して死の神秘の中に入っていく人は、死も生もいちどに欺いてしまった。
                 ステファヌ・ザンノヴィッチ

 カッサーヴ伯父さんが死にそうだ。
 髭が白くて震えていて、赤い羽毛布団に沈み込んだ顔から流れ出ている。とても心地よい香りを嗅ぐかのように、彼は空気を吸い込む。巨大で毛むくじゃらの両手は、触れるものを引っ搔いている。
 グリボワンの奥さんがレモンティーを運んできて言った。
「旅支度をしてるのね」
 カッサーヴ伯父がそれを聞きつけた。
「まだだぞ、こいつめ、まだだ」と彼はせせら笑った。
おどおどとスカートをもつれさせて彼女が出ていくと、伯父さんはぼくに向かって言い足した。
「まだまだ長生きするという意味ではないんだよ、だがどっちにしろ、死ぬのは重大なことだ、急ぐべきではない」
 それから彼の視線はまた部屋中をさまよいだした。ひとつひとつの物に目をとめながら。これで見納めかのように。
 順々に彼は目をやる。まがいのブロンズのリュート奏者像、アドリアーン・ブラウエル〔十七世紀フランドルの画家〕の小さな煤けた絵、ランプを描いた安物の版画、それに値打ちもののマビューズ〔十六世紀フランドルの画家〕のアンフィトリテ〔海神ポセイドンの妻で海の女神〕像。
 ノックの音がして、ディドロー叔父が入ってくる。
「こんにちは、大伯父さま」と彼が言う。親族の中で彼だけがカッサーヴ伯父さんのことを大伯父と呼んでいる。
 ディドローは公務員で、何かと細かい人だ。初めは教職に就いたが、生徒たちに叩きのめされていた。
 今は市の行政で助役をしている。彼の下で働いている謄抄本係にとっては、これほどの冷血漢はいないだろう。
「シャルル」とカッサーヴ伯父が言う。「さあ話しなさい」
「それでは、大伯父さま。ただ、お疲れがひどくならないといいのですが」
「そうなら、黙っておれ。ともかく早くしてくれ。おまえの顔は気に入らん」
 カッサーヴ老人は怒り出す寸前だ。
「ああ」ディドロー叔父さんが唸る。「情けないのですが金銭問題のことをやむを得ずお願いする次第で、大伯父さま。お金がいるのですが……」
「何? そんなことか!……」
「医者への支払いをしないと……」
「サンビュックか? なあ、飲み食いはさせてやってるし、必要なときは客間のソファで寝させてやっている。それ以上のことはいらんだろう」
「薬剤師は……」
「やつの薬はひと瓶も飲んでないし、粉薬に触ったこともない。じっさい、おまえのとこの愛想のいいシルヴィーが医学事典に載っているありったけの病気に苦しんで、薬を全部持って行くしな」
「ほかにもいろいろ……お金はどこにあるんです?」
「三番目の地下室の、七番目の敷石の下の、九フィート四インチの深さのところに、金貨の詰まった箱が埋まってるよ。それで足りるか?」
「なんて人だ!」ディドロー叔父は泣きそうになっている。
「わしだって、そのことはおまえたちと同じくらい、言っておきたいのだ、ディドロー。さ、出ていけ、さあ……石頭め!」
 シャルル・ディドローは、ぼくをきっとにらみつけ、部屋からそそくさと出ていった。とても痩せてて小さいから、扉をほんの少し開けただけだった。
 ぼくは房飾りや渦巻き模様のついた肘掛椅子に腰かけて、ベッドの方に顔を向けていた。
 カッサーヴ伯父さんはぼくの視線に応えてくれた。
「もっと明かりの方へ向いてごらん、ジャン゠ジャック」
 そのとおりにした。瀕死の病人は、苦しさに耐えて注意を集中し、ぼくを見ている。
「まさしく」かなり長いこと見つめたあと、彼はつぶやいた。「顔つきに性格は残ってないが、おまえはグランシール一族の者だ。少し優しい血が一滴混じっただけで、祖先たちの冷酷肌を滑らかにしてくれたんだな。
 しかしなあ……おまえのおじいさんのアンセルム・グランシールはあの頃はアンセルム殿と呼ばれていたっけ――名の知れた悪党だった!」
 この悪口はいつものことで、ぼくはそれを恨んではなかった。こんなに悪評高い祖父に、いちども会ったことがなかったのだから。
「あいつは脚気で亡くなった、ギニアの海辺でね。それがなければもっと大悪党になっていただろう」とカッサーヴ伯父は笑いながら続ける。「何事においても完璧が好きだったからな!」
 ドアがバンと開いて、姉のナンシーが現れる。
 ワンピースが肌に貼りついて、体の素敵な線をくっきり見せている。ブラウスは襟ぐりが大きく開いて、肉体の豊かさを惜しげなく見せている。
 顔は真っ赤でむすっとして、怒っているのがわかった。
「シャルル叔父さんを追い返したのね」姉は言う。「いいけどね、自分のことだけやってればいいと思い知らせたわけね。でもそうなのよ、わたしたちお金がいるの」
「お前とやつとじゃ、話は違う」とカッサーヴ伯父が答える。
「そう、じゃあお金はどこ?」ナンシーはいらいらする。「グリボワンさんたちはもう持ってないのに、請求書を送りつけてくる業者がたくさんいるの」
「店にあるのを使ったらいいさ!」
 ナンシーが笑う。甲高く短い笑いで、独特だが彼女のような尊大な美人には似合っていた。
「朝七時から十人客が来て、全部で四十二スーよ」
「商売は持ち直してるって聞いてるぞ!」と老人はせせら笑う。「ま、それはどうでもいいんだよ。店に戻って、七段の小梯子を出して、七段目まで上ってごらん。無言の客の前ではするなよ。おまえのはいてるスカートはだいぶ短いからな。おまえは背が高いから、七段目からだと「シエナの土」とラベルのあるブリキの箱に手が届くはずだ。白くてきれいなおまえの手をその粉の中にともかく突っ込んでみろ。大きさの割にはかなり重い筒が四、五本きっと見つかるだろう。まて、そう急ぐな、おまえがいてくれるのは嬉しいんだ。シエナの土が爪の中に入ってしまったら、とれるまで何時間もかかるぞ。さ、行け、行け。階段の暗がりでマチアス・クロークに尻をつねられても、叫ばなくていい。どうせわしは行けないしな」
 ナンシーはぼくたちに、炎みたいに赤くて尖った舌を出してみせた。そしてドアをバタンと閉めて出て行った。
 しばらくの間、よく響く階段をかかとが打つ音が聞こえた。次に彼女の声がした、怒っている。
「やらしいわね!」
 カッサーヴ伯父は笑う。
「マチアスではないな!」と言う。
 平手打ちの音が響く。
「シャルルだ!」
 老人は上機嫌で、鉛色の顔と胸の苦しそうな喘ぎがなければ、死ぬなんてとても思えなかっただろう。
「少なくともあの子は悪党のじいさんゆずりだな!」明らかに満足げに彼は断言する。
 沈黙がまた部屋に降りてきた。暖炉のふいごが隠れていた炭火を搔き立てる。両手がやすりのような音を立てて毛布をつかむ。
「ジャン゠ジャック?」
「なに、カッサーヴ伯父さん?」
「けさナンシーとおまえに、お父さん、そう、ニコラ・グランシールから手紙が来たな?」
「昨日の朝ですよ、伯父さん」
「よしよし、日にちのことはわしにはどうでもいい。どこから来た?」
「シンガポールからです。父さんは元気ですよ」
「手紙が届くまでの三か月で縛り首になってなけりゃな。くそ! いつか帰ってきたら……」
 彼は考え込む。頭を肩に傾けて。変なカラスみたいだ。
「帰って来ないだろうな……結局、帰っても何をする? グランシール一族は、世界中を風の向くまま駆け回る性分で、世間並みに屋根の下でくすぶってはいられないんだ」
 ドアが開く。ナンシーが戻ってきた。笑っている。不機嫌は吹っ飛んでいた。
「筒を五本見つけたわ、カッサーヴ伯父さん!」と言う。
「重いだろう、え、金(きん)は?」伯父さんがにやにや笑う……「さて使い道はどうやらわかってるな?」
「え、なんでよ!」ナンシーはしらじらしく答える。
 彼女は出て行く。ドアを閉めながらぼくに言葉を投げつけた。
「ジジ、エロディーが台所で待ってるわよ」
 階段で、彼女がしのび笑いをして、雌鶏のようにククっと声を上げるのが聞こえた。
「今回はマチアスだ!」伯父さんが言う。
 彼は機嫌よく笑った。そのせいで、胸の奥にぜいぜいと激しい喘ぎを引き起こしたのだが。
「筒五本と言ったよな? 六本あったんだぞ! ははあ、さすが悪党アンセルム・グランシールの孫だな……わしは嬉しいぞ!」
 これだけ人が来て、喜んで、しゃべって、さすがに疲れたようだった。
「エロディーのところに行きなさい」と言う。急に弱々しいかすれた声になっていた。
 願ってもない。巨大で真っ暗な地下道の奥に、講堂のようなだだっ広い台所があって、そこからワッフルの暖かい匂いや溶けたバターに砂糖とシナモンも加わって、極上の香りが立ち上っている。
 とんでもなく長い廊下をぼくは抜けていく。それは弱々しい四角い光の真ん中に穿たれた闇だ。
 玄関ホールの奥には、ガス燈の揺れる光に包まれた店の壁が見える。まるでオペラグラスをさかさから覗いているかのように遠くて非現実的だ。
 じつに奇妙な話なんだ、主人の立派な屋敷に隣り合うこの店のことは……その話はいずれまたしよう。
 茶色い木の高いカウンターや、細長い瓶、紙袋の束、そしてナンシーと店員のマチアスのシルエットが見えた。それは互いに近づいていた、たぶん近すぎた。
 でもそんな光景にはたいして興味を引かれなかった。台所からのおいしそうな誘惑の方が、思春期のつまらない好奇心への誘惑よりもずっと強かったのだ。
 バターの溶ける歌声やワッフル焼き器のカタカタという音が、夕闇の静けさの中で楽しげな音色を響かせていた。
「ちょうどいいときに来たわね」とぼくの昔からの乳母のエロディーが叫ぶ。「お医者さまがあなたのまで食べるところでしたよ」
「じつに美味いなあ。とっても甘いし、大好きだなあ」と暗がりの中で小さな笑い声がした。
 台所にはガス燈はない。この唯一のぜいたくは、カッサーヴ伯父が店の方にまわしていたのだ。芯の短い灯油ランプがテーブルをつましく照らし、皿の白さを引き立てている。暖炉の台の上では、窯の熱気でちらちらする炎で、一本の蠟燭が黒い鋳鉄のワッフル焼き器を照らしている。
「病人はどうです?」小さな声が続ける。「じつに元気、そうでしょう?」
「では治るんですか、先生?」
「治る? 誰がそんなことを言うか? いやいや、まさか。カッサーヴは医師団からもはっきりだめだと宣告されてるよ。それでもわしは彼に何かしてあげたいんだ」
 ランプの光の中で、老いぼれて蠟のように青白い手が、四角い紙を振りかざした。
そのための死亡証明書と埋葬許可書がここにある。わしが用意してちゃんと署名しておいた。日付だけは空けてある。昨日まではまだ死因として併発肺炎と書いていたんだが、よく考えて、《ブライト病〔腎臓炎〕》の方がもっとしゃれてると思ったのでね。
 これも古い付き合いのカッサーヴさんのためだ、そうだろう? さあ、うまいワッフルをもう一ついただこうかな、エロディー」
 そうサンビュック医師は話す。でも伯父は彼の診察は受けるが、薬の処方は拒否している。
 彼はとても小柄で貧相で、帽子をかぶってもエロディーの顔の半分まで届くくらいだ。エロディーもそんなに背は高くないのだが。
 顔は皺や傷跡でいっぱいだ。鼻だけは別で、ピンク色の肉の岬のように、この皺くちゃの細密画から突き出している。
 蠟の手は、ワッフルを四角に切り分けてバターと蜂蜜を塗りつけるとき、おかしいくらいしっかりした動きになる。
「わしの方が年上だろうな。あの男のことはなに一つ正確にわからないんだが。なのにあっちが先に行ってしまうんだな」食いしん坊の老人は嬉しそうにクックッと笑う。「わしくらいの者には、それも慰めになるんだ。死が自分を忘れてくれた気がするからね。どうかね? たぶんそんなところだろう。わしたちが熱い真の友情で結ばれて四十年になる。出会ったのは川船の上だ。やつは狩りから戻るところで、赤いオグロシギを二羽仕留めていた。わしはお祝いを言った。見事な難しい射撃をやりとげたんだから。
 彼はオグロシギを一緒に食べようと誘ってくれた。断る手はなかった! 赤いオグロシギは、充分脂がのっていれば、ヤマシギよりずっと上等だからね。
 それ以来、マルペルチュイに出入りするようになった。ちょっと寄ったり長居したりね」
 マルペルチュイ! 重いインクの一滴から、ぼくのおびえるペン先から、はじめてこの名前が流れ出る。何より恐ろしい意志によって、人々の幾多の運命の終着点と定められたこの館、その姿を思い出すのは今でもごめんだ。ぼくはたじろぐ、躊躇する。記憶の中からその光景を蘇らせるのは。
 それに、人物たちの姿は館よりも早く薄れやすい。そこにいた期間が短かったので、たぶんすぐに消えるのだ。彼らのあとにも事物は残る。たとえば呪われた館を成す石。彼らは熱に浮かされ、屠殺場の門へと羊たちが殺到するように、先を急ぐ。人間蠟燭として、彼らはマルペルチュイという巨大な蠟燭消しのもとにやってきて場所を占めるまで、自分を止められないのだ。
 ナンシーがさらさらと衣擦れの音をさせて台所に現れる。彼女はワッフルは嫌いで、クレープの方が好みだ。獰猛な白い歯で、それを焼けた皮の断片みたいに嚙みちぎるのだ。
「サンビュック先生」彼女は尋ねる。「カッサーヴ伯父さんはいつ死ぬのかしら? 知ってるんでしょう」
「おやお嬢さん」老医師が答える。「アイスクラピウス〔医神〕かテイレシアス〔予言者〕にでも話しかけてるのかね? 治療師かね、それとも占星術師にかね?」
「どっちでもいいわ、知ってるなら」
 蠟の指で、サンビュックは宙を次々突っついていく。そうやって天球図を思い出そうというのだ。
「北極星は変わらぬ位置にある。無限によって支配されるただ一つのものだ。アルデバラン〔牡牛座のアルファ星、牡牛の目〕はプレアデス星団の下で右舷側に火を灯す。土星は地平線上を徘徊し、光るシアン化物でそれをかき乱している。
 後ろを見よう……南の方が、今は北より賑やかだ。ペガススはヘリコン山の厩舎に気づいている。白鳥座は、天頂に上っていけば死ぬのだというかのように、歌っている。わし座は、瞳の中にアルタイル〔わし座のアルファ星〕の火を湛えて、宇宙の神にいちばん近い場所を探す。水瓶座はくすみ、やぎ座は……」
「もういい」姉はいらいらする。「やっぱり何にも知らないのね」
「わしの若いころは」と、いきなり話題を変えて医者は続ける。「オクラの実の汁でワッフルに香りをつけていた。こんなに美味しいものは他になかったよ。ああそうだ、カッサーヴさんのことを話してたね、お嬢さん。まだ一週間は持つさ。これは言い方がまずいな。本当のところ、あの美しい魂が星々の聖なる光の中に身を投じるには、まだあと七日かかるでしょうな」
「ばかね」と姉が言う。「三日で十分でしょう」
 姉が正しかった。
 グリボワン夫人が台所に顔をのぞかせた。
「ナンシー嬢さま、コルメロンのご婦人方がお着きになりました……」
「黄色のサロンにお通しして……」
「でも嬢さま、火を入れておりませんよ!」
「そこでいいの!」
「シルヴィー奥さまとお嬢様もシャルルさまに会いに来ておられます」
「黄色のサロンに!」
 ぼくはとっさに反論した。
「ウリアルがシルヴィー叔母さんと一緒に来てるんだから!」
「ほらまた。火でも氷でも、嵐でも無風で静かでも、どっちにしたって魚がジャガイモにするみたいにウリアルはばかにするわよ。ねえ、グリボワンさん、いとこのフィラレートは来てるの?」
「わたしのところの台所にいますよ、ナンシー嬢さま。うちでグリボワンと一杯やってますよ。腹が冷えたから、と言って」
「カッサーヴ伯父さんのための仕事はすんだのかしら? まだだったら追い出してやってね」
「ネズミの剝製ですね、ええ、ええ、持ってこられてますよ。とてもいい出来でしたよ」
 サンビュック医師がぷっと笑い出し、のどの奥をごぼごぼ鳴らす。
「カッサーヴさんの狩りのコレクションの、最後の作品だな!
 羽毛布団の上を駆けずり回っていたネズミを、親指と人差し指で挟んでそっと絞め殺したんだ。四十年前はまだ赤いオグロシギを殺していたのになあ、はっはっ!」
「みなさんを黄色のサロンにね!」ナンシーが命じた。「あの人たちに伝えたいことがあるの」
 グリボワン夫人は、古靴を引きずりながら出て行く。
「わしも?」小さな医師が心配そうに尋ねる。
「ええ、ワッフルをさっさと食べてしまってね」
「それなら、コーヒーにラム酒と砂糖もたっぷり入れて持っていこう。この年になると、黄色のサロンにいるのは、要するに氷室の中で昼寝をするようなもんだからな」サンビュックはぶつぶつ言う。
 マルペルチュイ内はどの部屋も陰気で凍えそうだったが、その中でも黄色のサロンはいちばんひどくて粗末で陰気で凍える部屋だった。
 七本枝の燭台二台でもそうとう暗かったのだが、ナンシーはそのうち三本か、たぶん四本しか捩(ねじ)り蠟燭の火をつけさせないにちがいない。
 みなはその部屋で、まっすぐな背もたれの高い椅子に座り、ぼんやりとした影にしか見えないだろう。声も、砂漠の中のざわめきのように、響くことなく落ちていくだろう。口にするのも、死にまつわること、不快なこと、絶望的なことだけだろう。
 ナンシーは芯の短いランプを手に取る。この時刻では、廊下は完全に真っ暗だから。彼女はそれを部屋の入口から数メートルのところの、テルミヌス神像の台座に置くだろう。大嫌いなこの面々に明かりを足してあげる気はさらさらないのだから。
「蠟燭を残しておくわね、エロディー」
「お祈りをするにはそれで十分ですよ」とぼくらの乳母は承知する。
 黄色のサロンの集まりは、ぼくの思った通りのものだ。みな黒いぼんやりしたシルエットになっている。
 一つだけあった祈禱台の形の低い椅子に腰かけ、しばらくしてやっと彼らの姿が見分けられるようになる。コルメロン家の三姉妹が黒い畝織(うねおり)のソファに座っている。三人ともずっと服喪用の黒ヴェールを被っている。夜光虫が近づいて来るのを待ち受ける三匹のカマキリだ。
 三人は誰にも挨拶をしない。背をピンと伸ばして動かないが、ぼくたちが入っていくとその眼がぞっとする冷たさでこっちに向けられる。
 いとこのフィラレートが、だらしない恰好で、不作法に、扉を開けるやぼくらに向かって叫ぶ。
「こんばんは、やあみんな! おれのネズミを見てくれるかい?」
 彼は小さな板を振りかざす。そこには何か灰色とピンクのものが貼りついていた。
「リスのような格好にしようかと思ったけれど、変だったし、だめ、かわいくもなかった」と、かまわずとても愉快そうに言う。
 ディドロー夫妻が燭台の光の届くところにいる。
 シャルル叔父さんの方は自分のピカピカのブーツにじっと目を落としている。シルヴィー叔母さんは、どこにでもいそうな特徴のない人で、グレーの服を着て、唇をわずかに動かしてぼくたちに笑いかける。彼女がちょっとでも動くと、胸のロザリオが揺れてカチカチと鳴った。
 どうしても彼らの娘、いとこのウリアルの方に目がいってしまう。聖マグダレナ会修道女のような服だけど、ナンシーよりもっときれいだ。素敵な赤毛は火の粉を散りばめたみたいで、眼は翡翠のよう。
 彼女はずっと眼を閉じている。残念だ。宝石みたいにそれを手にとって、彼女の指の間で転がして緑の炎を起こし、息で燃えあがらせてくれたらいいのに。
 ふいに、がみがみ言う女の声がした。
「カッサーヴ伯父さんに会いたいのよ!」
 エレオノールだ。コルメロン姉妹の長女が発言したのだ。
「全員一緒に三日後、最後のお別れに会うことになるわ。彼から話があるでしょう。公証人のシャンも同席するし、アイゼンゴット老も証人として。それがカッサーヴ伯父さんの意向なの」
 ナンシーはひと息にしゃべった。そして黙りこみ、蠟燭の炎を見つめている。
「遺言のためよね、きっと?」とエレオノール・コルメロンが尋ねる。
 ナンシーはそれに答えない。
「おれも会えたらうれしいなあ」といとこのフィラレートが言う。「きっとネズミのことでお礼を言ってくれるはずだ。でも彼の意志は彼のものだし、おれが口出ししてはいけないな」
「我々がこうして集まったからには……」シャルル叔父が話し始める。
「我々って? みんな一緒くたにしたり、何かつながり合ったものみたいに言わないで!」と姉が言い返す。
「集まったのは、互いに話すためじゃないわ。知るべきことが何かはおわかりね。お引き取りください」
「ねえ、あなた? 私たち、ここに来るのに三十分以上かかったのよ」ロザリーが叫ぶ。三姉妹の二番めだ。
「あたしとしては、地球の裏側から来たんだって、帰ってほしいわ」ナンシーは怒りを抑えきれずに言い返す。
 突如、全員の顔に不安げな緊張がはしる。ウリアルだけ除いて。とても重い足音が、ホールの敷石に響いている。まるで敷石がへこんだように。それから扉の蝶番(ちょうつがい)がきいっと音をたてて開く。
「どこに隠れてやがる、いっつもランプを消すやつは!」と文句を言う声がする。
「あらまあ! またランプが消えるわ……」とシルヴィー叔母が嘆く。
「テルミヌス神のそばに一つランプがあって、明るいから嬉しくてそっちへ行こうとしたら、《あいつ》がそれを吹き消したんだ」
「誰のこと?」ディドロー叔母が泣きそうに叫ぶ。
「知るもんか。見ようとしたこともない。黒くて恐ろしいものだという気はするからね。やつはランプをみんな消すんだ。ピンクと緑のとてもきれいな色で階段を照らしていたランプが、二階で燃えていた。その芯を何かの手がつまんで、地獄の水みたいに階段に暗闇が流れ込んだ。五年か、いやたぶん十年か、生涯ずっとやつを探してるんだが、見つからない。見つけたいなんておれは言ったか? いやいや、そんなこと思っちゃいない。とにかくやつはいつもランプを消すんだ。吹き消すか、炎をつまんでしまうか」
 変な男が入ってきた。背が高く、恐ろしく痩せている。背中が曲がっていなければ六フィートは超えているだろう。茜色のマントがこの骸骨みたいな体の周りで揺れている。顔はぼさぼさの汚い髪で完全に隠れている。
 彼はうっとりと蠟燭に近づいてくる。
「ははあ、やつはこれは消してないな……よかった。光を見るのは、三度の飯よりいいなあ」
「ランペルニッスか、夜光虫め……ここに何しに来た?」サンビュック医師が叫ぶ。
「彼もここにいる資格があるわ」ナンシーが言い返す。「次の集まりにもいてもらうわね」
「火をつけた蠟燭とランプもあるだろうな」と老いた化け物は大喜びだ。「おれの店には昼のように明るい灯がついてるが、見ることはできん。そんな定めになってしまった」
「ランペルニッス……」ディドロー叔父が言いかけた。恐怖なのか嫌悪感なのか、震えをとめられずに。
「ランペルニッス? おれの名だ……ランペルニッス、塗料とニスの店。入口の扉の上に、三色の立派な文字でそう書いてあった。どんな色でも、何でも売っていた……硫黄漂白の筆、乾性油、頁岩油、灰色と白の接合樹脂、オークル色の絵の具、白と茶色のニス、亜鉛とクリームのようにとろりとした鉛の白色顔料、滑石粉、腐食剤。おれの名はランペルニッスで、塗料で稼いでいた。それが今は黒い闇に放り込まれた。昔は黒い骨炭や黒い木炭も売ったが、夜の黒い闇なんてだれにも売ったことはなかった。おれはランペルニッスで、いいやつだ。それなのに夜の底に放り込まれた。いつもランプを消してまわる誰かといっしょに!」
 今、この化け物は同時に泣き、笑っている。そのクモみたいな手を蠟燭の炎の方に差し出す。炎は爪を焦がす。かまわずその不毛な楽しみを続けている。
 ぼくはランペルニッスがこの家のどこか、めったに見つからないところに住んでいても気にならない。グリボワン夫妻が日に一度、上の階のどこか目立たない階段になにかしらスープの入った鉢を置くだけはしている。彼はそれを時々空(から)にする。
 でもほかのみんなは、何か不吉なものが来たかのように身を縮めているようだ。ナンシーとウリアルだけは動じない。
 姉はサンビュックの手からカップを取り上げる。うるさい音を立てていたんだ。いとこは眠ったふりをしているが、閉じた瞼の下からかすかな緑の光が滑り出ている。闇の男の哀れな登場をじっと見ているに違いない。
「みんな、出てって!」突然ナンシーが一同に向かって言う。
「まあご丁寧なこと」エレオノール・コルメロンがきいきい言う。
「外につまみ出してほしいの?」
「ナンシー、頼むが」ディドロー叔父が割って入る。
「ああ……あなた……」ナンシーは怒鳴る。「あなたこそ黙って最初に出てって」
「ここではあなたが命令するの? グランシールのお嬢さん」ロザリー・コルメロンが尋ねる。
「やっとわかったようね」
「この人が蠟燭をつけてくれるんだ!」とランペルニッスが叫ぶ。「消えないし、だれも吹き消さない蠟燭だ。彼女に神の祝福がありますように!」
 彼は灯の前で体を左右に揺らす、すると奥の壁に腰をくねらせる影が映る。フィラレートはこの束の間の不穏な状況の緊張があまりわかってなさそうだが、触ると毒になるかのように影から逃れようとする。
「おれの色たち!」ランペルニッスが叫ぶ。小さな光の戯れの前で、嬉しくてもっと激しく踊ってる。「いろんな色が全部ある! これは売りはしない。誰も売ることはできないさ」
 彼は困った表情を浮かべ、ぼさぼさの白髪の奥から、その眼がナンシーに訴える。
「ランプを吹き消すあいつのほかには……おお、女神さま!」
 ナンシーが、集会はもう終わり、と身ぶりで示した。刈取り人が実った穂を地面に倒す動作だ。
「三日後にまた会いましょう」
 影たちが列を成しゆっくりと歩いて入口の方に進んでいった。ウリアルは母親にぴったりついて歩いていた。
眼を開けていたがほとんど見えてないようだった。緑の炎が消えていたので。
 ディドロー叔父は敷居のところで一瞬ためらった。ナンシーに何かを言っておきたかったんだと思う。が、思い直してホールの闇の中にすっと消えていった。この短い停止で彼は列の中で後れをとり、コルメロン姉妹のいちばん年下のアリスが抜かしていった。
 とつぜん、叔父が苦しそうに「おお!」と声を上げるのが聞こえた。
 ナンシーが甲高い笑いを一瞬洩らした。
「彼のいつものくせね」とせせら笑った。
 サンビュック先生が、どこかから籐の細い枝を見つけてきて、哀れなランペルニッスに思いっきり打ちつけていた。
「おお!」白髪の道化が呻いている。「悪魔どもがいつも叩いてきやがる。おれの塗料がほしいんだな。残念だが……もう持ってないから、やれんのだよ……それでもまだまだ叩くのか!」
 彼は叫びながら階段に駆け込んだ。
 彼の不格好なシルエットが、踊り場ごとにあるランプに照らされて、壁の上を猿みたいに滑っていくのが見えた。
「また一つ!」彼がふいに叫んだ。
 何か黒くて形のわからないものが、壁や高いところにあるガラス窓の上の方でちらちら動いた。
「二つめ、三つめ! おお、いるぞ、見えはしないが。光も色も、あいつは全部奪いやがった。おれを暗闇に放り込むんだ」
「みんな台所にいらっしゃい」とナンシーが指示した。「このいかれた人、噓はついてないわ。ランプを吹き消してるものがそこにいるわ!」
 誰かが闇の中でゆっくりと繰り返した。
「ランプ・を・吹き消す・もの……」
 ナンシーは肩をすくませる。ぼくは姉が大好きだったけど、いつも困惑させられた。突風に襲われた小枝みたいにぼくに衝撃を与えた騒ぎの中で、女たちは男たちよりもしっかりしているようだった。ああ! 謎の世界に踏み込んでいくしょっぱなから、ぼくは疑惑にとらわれている、そしてたぶん姉の無関心を咎めている。もし姉は知っていたのなら、この上ない悲惨な運命に抗うことだってできたのではないか?
「さあさあ」とエロディーがロザリオを置きながら言う。
 そして、それ以上何も言わずに、ワインと砂糖と香辛料を温めてくれた。
「いい夜ですなあ」サンビュックが言う。「夜食なんてのはどうかね? カッサーヴさんは、よくとってたな。深夜には、料理やワインは味も香りももっとよくなる。昔の人の知恵からわかったことさ」
 夜食はすごかった。ソース煮込みタンが出てきて、サンビュック先生はここぞとばかりにフリギア人クサントス〔哲学者〕の宴会の話をしてくれた。イソップ〔クサントスの奴隷、寓話作家〕がタンだけ、ひたすらタンだけを出されて、一度はそれが最高に美味しいと言い、次の時にはこの世で最悪の料理だと言った、というものだ。
 サンビュックは腹一杯にふくれて、さながら小型のピュトン〔ギリシャ神話に登場す
るデルフォイの大蛇〕だった。ナンシーは部屋に引き下がり、エロディーとぼくは眠り込んだカッサーヴ伯父の傍で、徹夜で見守った。
 夜は、彼は銀の房飾りのついたベルガモ織帽子をかぶせてもらっていた。それがフロート型常夜灯の青白い光の中であんまり滑稽だったので、ぼくは声を殺して笑い出した。

 ほんとうに、伯父は三日目に亡くなった。最期の数時間は、異様なほど意識がはっきりして饒舌になった。でもその眼はもうかなり闇の中に沈んでしまっていた。何度もいらいらしてこう叫んだからだ。
「なんでマビューズの絵を外したんだ? シャルル・ディドロー、おまえがやったんだから、元にもどせ! 家から何ひとつ出しちゃならん、何もだ、わかったか?」
 ナンシーがなんとか落ち着かせた。
「良い娘だな」そう言って、長い鉤爪の手で姉の両手を取った。「部屋の中にいる者の名前を言ってくれ。人がいるはずなのに影しかおらんじゃないか」
「公証人のシャンさんがテーブルの傍に座って、書類とペンとインクを用意してるわ」
「よし。シャンは自分の仕事をわきまえとるな」
 公証人は、いかめしいが誠実そうな老人で、死にゆく人には見えてないと知りつつも、お辞儀をした。
「その隣には誰がいる?」
「空いた椅子があるだけよ、伯父さん」
「アイゼンゴットは呼んだのか、どうなんだ?」
「もちろんよ。伯父さんのすぐそばには弟のジャン゠ジャックがいるわよ」
「よしよし、それは嬉しい……ああ、ジャン゠ジャック、おまえはわしの若い友だ、おまえのおじいさんもわしの友だったが――なんてやつだ、ちくしょう!――名だたる悪党だった。あいつは来世のどっかの片隅でわしを待ってるはずだ、そう思うと気が楽になる」
「コルメロンのおばさまたちがいるわよ」
「死骸はカラスどもを惹きつけるんだな! エレオノール、ロザリー、ああ、アリスまでいるのか。二人より若いようだしずっときれいなのに、わしたちは古くからの親しい仲だな。言ってることがわかるか? もちろん、おまえたちにも理解できる時がくる、ああ! うっとうしい顔だな、おまえたちは。だがそれにふさわしい脳みそを悪魔が詰め込んでくれるだろう。わしの最後の言葉のいくつかはおまえたちへのものだ。ほかにもまだ借りがあると思うが、もうすぐそれも片付けてやるからな」
「いとこのフィラレートが……」
「わしのいとこだ。同じ血を分けている。やつは実際どうにもできない、わしだってどうにもしてやれない。やつがここにいる権利は十分ある。これほどばかな人間を神様はよくも創れたもんだとは思うが」
 フィラレートもまた、お辞儀をした。まるでカッサーヴ伯父が最上の誉め言葉を並べてくれたかのように。
 カッサーヴはその動作を見て笑った。
「フィラレートはまあ良く仕えてくれた」と穏やかに言う。
「マチアス・クロークは?」ややためらってからナンシーが小声で言った。
 カッサーヴ伯父は不満そうになった。
「この集まりには近づかんようにしてもらう」と彼は言った。「不当な仕打ちかもしれんが。なあに! 気にしなくなるさ。彼には店に戻ってもらおう。そこが合ってるさ」
 老人は横を向こうと骨を折った。その若者を見ようとして。ぼくはそのまなざしの中に、妙なためらいを見たように思った。
「わしも人生でときには間違いをしたよ、クローク。実際そんなに多くはないが、過ちを償うには時間が足りない。正しいかそうでないか、とにかく行ってくれ!」
 マチアス・クロークは、美しい顔に恥ずかしそうに悲しげな微笑みを浮かべ、姿を消した。ナンシーの眼差しが暗い炎を放った。
「サンビュック先生が今入ってくるわ」
「肘掛椅子に座らせて、何か口に放り込んでおけ」
「グリボワン夫妻だわ」
「ずいぶん長い間、わしによく忠実に仕えてくれたから、数に入れないわけにはいかんな。ここに残るように」
「ランペルニッスが階段の一番上に座って、また燃えているランプを見張ってる」
 カッサーヴ伯父は皮肉に笑い出した。
「吹き消されるまでいればいい。どうせ消されるさ」
「シャルル・ディドロー叔父さんとシルヴィー叔母さんとウリアルよ」
 瀕死の男は顔をしかめた。
「シルヴィーも昔は美人だったが、いまはそれもないな。見えなくてよかった。まだきれいだったな、シャルルが彼女を見つけた時は。あそこで……」
「大伯父さま! 大伯父さま!」シャルルがうろたえて叫んだ。「だめですよ!」
「さあそれでは、見事な花のようなウリアルだ。いとこのジャン゠ジャックの隣に座りなさい。おまえたち二人が、この世からわしが持っていく希望なのだよ」
 外で、必死に頼む声がした。
「やめろ、やめろ、どうかランプを消さないで!」
 威厳に満ちた男が入ってきて、シャン公証人の隣に座った。ぼくたちの方は見てないようだ。
「アイゼンゴットだな!」カッサーヴ伯父が叫んだ。
「来ましたぞ」鐘のようによく響く声が言った。
 ぼくは恐れと尊敬をもって新参者を見つめた。
 ひどく青白くて細長い顔だった。胸飾りのような巨大な白い顎髭でいっそう長く見えた。眼光は鋭くて黒く、手はとても美しくて教会内の横臥彫像のものみたいだった。身なりはみすぼらしくて、緑のフロックコートは縫い目がてらてらしていた。
「シャン!」カッサーヴ伯父が言う。「この人たちがわしの相続人だ。わしが遺しておく財産の額を言ってやれ」
 公証人は書類に身をかがめ、ゆっくりと数字を口にした。あまりに巨額でとてつもなく、信じられないものだったので、一同は一瞬茫然とした。
 シルヴィ叔母が金の数字の魔法から我に返り、叫んだ。
「シャルル、あなた退職なさいよ!」
「あたりまえだ!」カッサーヴ伯父がせせら笑った。「それしかできないさ」
「この財産は」公証人が宣言した。「分割できません」
 恐怖を伴った絶望から、ざわめきが起こった。が、公証人はすぐにそれを遮って続けた。
「カンタン・モレチュス・カッサーヴ亡きあと、ここにいる全員が、この屋敷内に居住し生活すること。それに背いた者は直ちに相続権を剝奪され、今後いっさいの特権を失うことになる」
「でも自分の家があるわ、財産だって!」エレオノール・コルメロンが呻く。
「口を挟まないでください」公証人がぴしゃりと言う。「死ぬまでここで生活すること、そのかわりそれぞれ年金、つまり終身年金が支給される。額は……」
 政府官吏の薄い唇から飛び出したのは、またとんでもない数字だった。
「家を売りましょうよ」コルメロン姉妹の長女がつぶやくのが聞こえた。
「全員がここでの生活の権利を有し、遺言者はその遂行を要求する。グリボワン夫妻も他の者と同じ特権を有するが、奉公人のままであり、それを忘れることなきように」
 公証人はちょっと間を置いた。
「マルペルチュイ館にはいっさい変化を加えないこと。そして最後に生き残った者が全財産を相続すること。
 塗料店も館と同じ扱いになる。マチアス・クロークは店員として残り、給料は三倍にして生涯保証される。最後まで生き残った者だけが店を閉める権利を有する。
 アイゼンゴットは何の権利も有さず、取り分もいっさいない。何も望まないであろうこの者が、以上の遺志の完全な履行を見届けるものとする」
 公証人は書類の最後のページを手に取った。
「遺言補足書があります。もし最後の生存者二名が男一人女一人ならば、ディドロー夫妻は別として、夫妻となり、財産は均等に配分されるものとする」
 沈黙が漂った。人々はまだ事態が吞み込めないでいた。
「以上がわしの遺志だ!」カッサーヴ伯父が強い声で言った。
「以上のとおりに!」暗い顔のアイゼンゴットが重々しく答えた。
「サインして下さい」と公証人シャンが命じた。
 全員がサインをした。フィラレートは×印を書いた。
「さあ行け!」カッサーヴ伯父が言った。その顔が急に歪んだ。「アイゼンゴット、君は残ってくれ」
 ぼくたちは黄色のサロンの暗がりへと引き下がった。
「ここでの生活必需品は誰が届けてくれるのかしら?」とコルメロンの長女が聞いた。
「あたしよ」とナンシーがきっぱりと言った。
「あらなぜあなたなの、お嬢さん?」
「アイゼンゴットのところに行ってお聞きになれば?」と姉は穏やかに尋ねた。
「思うに……」シャルル叔父さんが口をはさんだ。
「あなたにわかるわけない!」とナンシーが叫んだ。「それに、アイゼンゴットさんが来たわ」
 彼は部屋の真ん中まで来て、恐ろしげな重々しい眼でぼくたちを見回した。
「カッサーヴさんが、最期の時にはジャン゠ジャックとウリアルに立ち会いに来てほしいそうだ」
 全員の頭がうなだれた。ナンシーも。
 カッサーヴ伯父さんは息も絶え絶えで、眼はガラス玉のように蠟燭の明かりを映していた。
「椅子に……ジャン゠ジャック、お前の椅子に座りなさい……それからウリアル、そばにきてくれ」
 いとこは伯父の方へすっと寄った。従順にだったが、このとくべつ荘厳な瞬間にもおそろしく超然としていた。
「眼を開けよ、神々の娘よ」と伯父はがらりと変わった声でつぶやいた。そこには畏敬の念が込もっているように思った。「眼を開けて、わしが死ぬ手助けをせよ……」
 ウリアルは、伯父の方に屈みこんだ。
 伯父は長い溜息をついた。数語が滑り出し、沈黙の中に消えていった。
「わしの心臓をマルペルチュイの中に……石たちの中の石に……」
 いとこがあまりに長い間動かないので、ぼくは怖くなった。
「ウリアル……」ぼくはすがるように言った。
 彼女はぼくを振り返った。奇妙な笑みが口元に浮かんでいた。半ば閉じた眼から漏れ出すのは遠いまなざしでしかなかった。炎も思考もそこにはなかった。
「伯父さまは死にました」と彼女が言う。
 その時、階段で長々と嘆く声がした。
「やつが、ランプを吹き消した……ちゃんと見張ってたのに、消しやがった。おお、やつが消した!」

* * *

物語ではこの後、マルペルチュイ館で一族の共同生活が始まり、やがて奇妙で不気味な事件が立て続けに起こり、カッサーヴの末裔たちが抱える驚くべき秘密と真実が明らかになっていきます。

妖精文庫版の旧訳は入手困難になりつつある本作ですが、この機会に、ぜひこの新訳版をお手に取っていただき、重厚濃密なジャン・レー文学の最高峰の精華をご堪能下さい。

マルペルチュイ
ジャン・レー/ジョン・フランダース怪奇幻想作品集

ジャン・レー/ジョン・フランダース 著
岩本和子/井内千紗/白田由樹/原野葉子/松原冬二 訳

A5判 ・総532 頁 ISBN978-4-336-07142-2

定価:税込5,060円 (本体価格4,600円)

2021年7月16日発売

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