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表現の本質のはなしをしよう

跳ぶぼく 自己紹介


「自分だけの表現とは何なのか、そもそも自己表現とは?」



芸術を志しておられる方々なら一度は直面したことがあるであろうこの問題。
自分にしかできない新しい表現を追求したつもりが気がつけば何かの模倣になってしまっていたり、自分の頭の中にある理想の完成像とは程遠い仕上がりになってしまっていたり、芸術活動とは基本的に片思いの孤独な海の中で荒波に揉まれ続けることに等しいのである。


大体の場合「それでも挑み続けるしかない」「自分の道は自分で切り開く」みたいなポジティブポエムに回収されてしまうんだけどさ、いかんせん何が問題点なのかわかっていない状態で挑戦を続けたってだいたい同じところで躓くよね。何もないところでゆっくりコケるようになっちゃう。
ポジティブ、というよりは「何かに挑戦してる」風な自分が好きな人って感じがするけどね、そういう人はそれでもいいと思う。


ぼくはどうしても自己完結的なメンタリティが苦手だ。

苦手だしそもそも自己完結ポジティブポエムって芸術家としてのメンタリティというか資質という意味でも真逆な態度だと思う。
そういうのはヤンキーか体育会系の世界でやっとくれ、安っぽい自己啓発J-popの歌詞みたいなノリはよしとくれよ。

芸術を志す者っていうのは、もっとこう、面倒くさくて頭でっかちでああ言
えばこう言う口八丁手八丁でないと、って思うけどね。

一休さんってさ社会的にも肉体的にも格上の相手を知恵と理屈であしらってしまうから面白いわけで、「自分の道は自分で切り開いて見せる!」とか言って腕力で殿様をねじ伏せだしたらただのマッチョイズムで興ざめだよね。



ここだけ話を切り取られるとなんだか冷笑主義みたいな話だと錯覚されそうなんだけど、今回ここで話したいのはそういうことじゃない。

自分だけの表現云々以前にさ、そもそも「表現」って言葉の意味をそれぞれのアーティストがどう定義付けをして作品を制作しているのか、ってことだ。
アーティスト諸氏は考えたことはあるだろうか?
言葉の定義やそれが指し示す範囲の認知のゆがみ、齟齬、
そこで躓いていたら正しい回答はおろか正しい疑問にすらたどり着くことは当然できない。
そしておそらく「自分の表現とは何か」で躓いているアーティストの多くはここで躓いている。



先に答えを言ってしまおう。

表現とは「特定の制限の中で最も効果的なパフォーマンスであるとあなたが仮定する行動をする」ことだ。


そしてここが意外と盲点なのだけど制限が存在しない場面で人は何かを表現することはおそらくできないということ。
多くのアーティストはそこを失念してるんだよね。



わき道に逸れつつ例をあげよう。
ぼくは学生のころバレーボールをやってたんだけど、念のためバレーのルールを簡単に言っておくと、ボールを自陣に落としてはいけない、ボールを持ってはいけない、くらいのルールが理解できていれば大丈夫。
ぼくのポジションはセンター(真ん中)だったんだけど、センターの役割って大きく分けて2つある。
ブロックと速攻だ。
文字通りセンターはネットの真ん中が定位置なので相手の攻撃を止めるためのブロックの要となるわけだ。
もうひとつは速攻。
相手のブロック陣を引きはがすためにできるだけネットの横幅をいっぱいに使って攻撃をしたいんだけどそのための陽動がセンター戦からの速攻だ。
Aクイックとかが有名なんだけどド真ん中から速攻を仕掛けることで相手のブロックを真ん中に引き付けるのが主な仕事だ。
真ん中から速い攻撃、両翼から高い攻撃(場合によりけり)がバレーボールの基本戦術なんだけどなんでこれが有効な戦術になるかというと理由は上記に書いた通りバレーボールのルール上そうせざるを得ないからだ。それが効果的な攻撃だからだ。ルールがあるから効果的なプレーが存在するわけだ。
相手コートにボールをたたき込みたい→相手ブロックが邪魔だなぁ→コンビネーションを使って相手ブロックを散らそう。つまりブロックを散らすプレーは価値が高い。
みたいな感じ。
どのようなプレーが効果的であると言えるか、それぞれのチームが自分たちの技術力だったり体格だったりを考慮に入れてもっとも効果的だと思う戦術を選択する。
ぼく自身センターでありながら実はあまり速攻は使わずライト方向に回り込んでトスあげる高く上げる攻撃をするのが得意だった。もちろんそういうプレイスタイルが好きだったからっていうのもあるけどもう一人のセンターのやつが中学の時点で180センチあってガタイもかなりいい奴だったんだよね。パワーと高さは中学生にしては規格外だったんだけどその代わり速さと器用さがあるタイプではなかった。逆にぼくは引き出しの多さだとか足を使って相手をかき回すプレースタイルだったのでもう一人のセンターとのプレースタイルの差を出すことで相手としてはかなりやりづらいだろうと考えたからだ。


表現に制限なんかない、表現は自由だ!だって?
そうだね、ぼくもそう思うよ。だけど重要なのは「何に対して」の自由なのかってことだ。
「表現は自由だ」の自由とあなたが自由だと思っている自由がそれぞれ同じものに対する自由なのか、その論点がごっそり欠落していたらそりゃ自分だけの表現どころかありきたりの表現ですら完成させることはおそらくできない。
正しい苦悩はまず正しい問題設定からだ。


制限があるからいわゆる効果的な価値の高いパフォーマンスとそうでないパフォーマンスいう概念が生まれ、複数ある選択肢の中から自分がベストだと思うものを選択していく必要が出てくる。
さまざまな戦術がある中でなぜその戦術をベストだと考えたのか?
そこには広い意味での思想が宿っていてその思想に基づいて体現しているのであり、それはつまり表現と言えなくはないだろうか?


制限の中でのベスト、そこに宿る思想、そして体現、具現化、
ここに表現の本質があるとは言えなくはないだろうか?



どのような制限があるのかが判明して初めてあり得る表現の形が確定する。

例えるならボールだけ渡されてもバレーをやるのかサッカーをやるのかわからなければ動きようがない。「今からこのボールを使って○○をやります」と伝えられて初めて次の一手が生まれるよね?


自分なりの表現どうのこうのというのはそのあとの話。


もしあなたの作品が「自分なりの表現ができていないんじゃないか」と思うのなら「自分なりの表現ができているかどうか」よりも、そもそもどういうルールを自分の作品に設定したのか、そこをもう一度確認したほうがいい。多くの場合自分の作品に対してどういうルール、制限を課したのかを作者本人が自分の作品であるにも関わらずあまり理解できていないように感じる。

重ねて言うが「絶対的にこれが正しい表現」というものは存在しない。

しかしあなたがやろうとしていることに対して効果的な表現というものは存在する。


またちょっとわき道。
芸術史に造詣のある諸氏は「DADAはその法則に当てはまらないのでは?」と思うかもしれないけどあれは”アンチ「従来の美術」”という観点で説明できるよね。
アンチ○○というのは”○○の概念とは明確に反対な態度で振る舞いますよ”ということだからね。それ自体が制限でありルールになっている。


ルールが存在するすべての分野には表現たり得る要素がある。
なぜならそこには思想が宿るから。

では表現という焦点を絞って言えば芸術の独自性みたいなものはあってないようなものだ。

いわゆる身体競技や頭脳競技と芸術の間には差がないのだろうか?


実はこれにも簡単に答えられる。


身体競技や頭脳競技は自分でルールを作ることができない。
ルールは常にあなたの外の世界の側にある。

一方、芸術は自分の作品のルールを自分で設定することができる。既存のルールの借用でも構わないしあなたが自分で作り出してもいい。
ルールを設定するのは外の世界ではない。あなた自身だ。

芸術の独自性はここだ。

自分でルールを設定することができる恐らく唯一の分野が芸術であり、これが芸術表現のコアだ。


なので芸術表現が自由であるのかどうなのか、という問いはあまり正確ではない。
自身の作品のルールの設定、それに関しては間違いなく自由だ。

ただし自分で設定したそのルールだけはあなたの作品を縛る。

そして、その縛りの中で効果的な作業とそうでない作業を取捨選択していく。

それらを合体させた概念が「表現は自由」なんだ。



ということは、自分の作品に対するルールを決定した時点であり得る完成図は実はある程度決定されていることに気がつかなくてはならないということなんだよね。

もちろん唯一無二の正解ではない。

しかし確実にその時点であり得る作品の完成予想図はしぼられている
そのことに無自覚なままなんとなくコミックアートとかなんとなく抽象画とかなんとなくデジタルノイズとか、ってやってるときに大体躓く。

そういうときは「自分の内なる声に耳を傾ける」だとか「自分の道を突き進むんだ」とかじゃなくて自分の作品の「ルールブック」に立ち返るべきだ。
ルールのわからないスポーツはプレーしようがないのだから。

生きることで精いっぱいです。