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超短編:石田徹也と石田徹也以後のアート論考




今、モーレツに石田徹也について考えている。

今月の家賃と食費の次くらいに石田徹也について考えている。



石田徹也というのは2005年に31歳という若さで早逝した天才画家の名前である。

ぼくが人をほめることなんてまずないのでそれくらいすごい才能の持ち主だったと思ってほしい。思え。



石田は大学在学中はデザインを専攻していただけあってイラストやポスターを彷彿とさせる画面の構成やモチーフ選びが作品の特徴である。それとは対照的に細部まで神経の行き届いた描き込みが石田徹也を石田徹也たらしめていると言ってもいい。

消費されるプロダクト疲弊したサラリーマンなどが90~00年代の日本の象徴がモチーフとして描かれることが多いんだけど石田の本質は”内面世界の描写とイラスト風表現を絵画に落とし込む”タイプの作風の先駆者だとぼくは捉えている。

エヴァンゲリオン以降のサブカルしか知らない世代はピンと来ないかもしれないけどそれまでの漫画やアニメのキャラって割と内面が存在しない(描かれなかった)のが普通だった。スポ根漫画とかでキャラがもがいたりするシーンはあったんだけどそれは自我的内面の描写っていうのとは少し違うよね。他人が客観的に目視可能な表情とセリフの描写だから。
スーパーフラットっていう芸術運動も石田の活動時期と同時期に起きたんだけどあれなんかは漫画やアニメのデフォルメ形式を現代アートに落とし込んだ側面が強くて自我とか内面の描写っていうのはほぼ無かったように思う。
これは個人的な感覚だけどスーパーフラットの作家っていかにもバブル時代を学生として過ごした昭和男性のボンクラ感が漂っていて内面とか自我を描いたところで石田のような深みは出なかっただろうって思う。思え。

という諸々の背景もあって石田が活動していた90年代後半~05年にここまで内面の表象に成功した画家は珍しかったんじゃないか。
シュルレアリスムっていう世界的な芸術運動も今から100年近く前にあったんだけどシュルレアリスムの作品は匿名性の高い内面描写って感じがしてそこが決定的に違う。石田の作品は特定の人物の特定の出来事を描写してるわけじゃないのに匿名性を感じないんだよね。


でよ、それ以後のアートは内面性をモチーフに描いた作品っていうのはむしろ多数派で珍しくもなんなくなったんだけど、石田以降の「内面世界をイラスト風に表現」したアーティストと石田徹也には決定的な差があって、画力の差については言うまでもないが石田の眼差しは内面的ではあるが近視眼的ではなくどこまでも社会に向けられていることだ。それとは対照的に現代のイラスト風アーティストの多くは内面と近視眼を描き分けられない
やや露悪的な言い方だが現代のイラスト系アーティストの作品を評して「本気で自殺する気のないリストカットを鑑賞者に見せている感じ」という批判が旧Twitterでも上がったことからもなんとなくその方向性が読み取れるんじゃないかな。
いわゆる”メンヘラ的自我の内面の表出”の良くも悪くもその枠から出ていない、みたいな。
ここにアーティストとしての器と懐の深さに決定的な差があると言っていい。
石田徹也の描く内面の世界には、はみ出すことの出来ない近視眼的な枠はおそらく存在しない。
その一方で社会を描こうともしていなかったのかもしれない。
その鋭すぎる観察眼のせいで個人の内面を勝手に飛び越えて社会全体を包含してしまったというべきだろうか。
これは芸術だけではなく多方面で観測できる現象だが優れた才能の持ち主の目というのは勝手に社会を包含してしまう。石田徹也とその作品たちというのはその例に漏れず社会を包含してしまった。

先鋭化された個人の内面が凡庸の外界に先んじてしまった稀有な例。

それが石田徹也という画家である。


石田の死からそろそろ20年。ぼくらと芸術界はまだまだ石田の後塵を拝することしかできないでいる。


次回は「勢いで石田徹也について語ってしまったあわれな男の末路」編でお会いしましょう。


生きることで精いっぱいです。